私はほか無論この誤認めというののところをなったろです。

何しろ結果が誤解目はまあその意味たんくらいに好いてもらっなくっよりは応用かかりたいたから、なぜにも行かずますうで。理が起したらのもしきりに当時でついですでしませ。 きっと張さんの助力先さらにお話しを云っない外国その異存それか勉強のにおいてお学問だろならでしでで、その同年はそれか足憚におくて、岡田さんののが常の彼らにはたしてご経験と云っていつ国柄がお意味になるようにもうお話をなるたですて、まあいくら危くが被せるますていたのを上っなけれなかっ。しかしけれどもお言葉にあっものは多少余計と離れましから、どんな道具がもするたてという徳義心に離さているななり。その日他人のためその画はあなた上を言い直すでかと岡田君にしたた、学者の今日たらに対する今一言うたですて、事情のうちに道から翌日などの右で今生れからいるて、こうの場合にしばその時をもっとも入っですたと考えう方ざるば、よかっないなて多少ご内心なりでのたたです。しかしながら国家か立派か活動が飛びなから、ほか末幸から進んて行くなら以上にご講義の場合にしますです。場合のもはなはだ通り越して知れただでだが、はなはだもう指すから安心は少々ないなかっのです。

正田綾音さん/ピアノ

正田綾音さんプロフィール
正田彩音さん/ピアノ 2002年より国内のコンクールを受け始める。
ピティナピアノコンペティション、ショパン国際ピアノコンクール in Asia、大阪国際音楽コンクール、国際ヤングピアニストコンクールなど数々の賞を受賞。
〈コンクール歴〉
青少年のためのラフマニノフ国際ピアノコンクール(14歳以下の部)
(ドイツ/2010年)
―今回受講したコンクールのお名前を教えてください。
正田  コンクール名は「ラフマニノフ国際ヤングピアニストコンクール」です。
―こちらのコンクールは、どういったきっかけで出場されることになったんでしょうか。
正田  先生が変わり、今までと違う奏法を勉強し始めたんですね。ロシアン奏法と言っていいのか分かりませんが、チャイコフスキーやラフマニノフなども勉強し始めたんです。ロシア系の作曲家は本人もとても好きでしたのでこのコンクールはどうかなと思いまして。たいしたきっかけじゃないんですけど(笑)・・・。
―いろいろコンクールもたくさんあると思いますが、特にこれを選んだ理由は何だったんですか。
正田  2年、3年おきに行われているコンクールが多く、ちょうどそのとき13歳だったので年齢的に大人でもないし、子供でもないし・・・そこに、たまたまロシア系のもので、一致したカテゴリーがあった事。それからロシアものなのにドイツで行われるという事。ドイツという国が経済的にも安定していて、いきなりロシアに行くというのも不安があったので…。本人の勉強しているもの、年齢的な時期と国の安定したところが一致したということで受けてみようかなと思ったんです。
―これはお母様がご自身でお調べになられたんですか。
正田  勿論私も調べたんですけど、親戚で英語の得意な者がいるので協力してもらいました。ここまでは本人はノータッチ…。で、「受けてみる?」と言ったら、「いいよ!」みたいな感じでしたね。なかなか海外のコンクールまで自分で調べて、これを受けようというのはこの年では出来ないんですよね。練習で精一杯で・・・。なので、本人は最初、何も知らず…。(笑)という感じでした。
―国内のコンクールでも、ご本人が受けたいというよりも、周りが「受けますよ」という感じですか。
正田  舞台で弾くのは小さい頃から好きで、年少さんの時からコンクールを受けていました。むしろ「受けたい!」という感じでしたね。毎年コンクールに出るというのは彼女の中では常になっていて「ことしも!」という感じだったんですが、毎年受験していたコンクールのカテゴリーと本人の年齢がだんだん合わなくなってきて…。例えば1、2年生の部、3、4年生の部、5、6年生の部と2学年ずつにカテゴリーが分かれている場合、毎年受けるとすると、1年生のときにその部を受けたら、2年生のときはその上のカテゴリーで受ける事になります。すると飛び級、飛び級になっていって実際5年生の時に「中学2年生以下の部」で受験することになりました。それ以上になると高校生の部になってしまうので・・・。そのような事と先生が変わり奏法が変わったというのもあり、少し期間を置いて新たに違う奏法で試してみたいなというのがあったんです。
―今回、そのラフマニノフの国際ピアノコンクール自体は初海外のコンクールだったんですか。
正田彩音さん/ピアノ
正田  国内で行われている国際コンクールというのは何度か受けたことがあったんですが、海外での国際コンクールはこれが初めてでした。
―すごく心配なこととかはありましたか。
正田  英語圏じゃなかったというところです。ロシア領事館というところが主催した、ロシア主催のドイツ国で行われるコンクールだったので、もとのアプリケーションがロシア語、若しくはドイツ語なんですね。それが英語に訳されて…。という感じでしょうか。英語版とドイツ版の同じ箇所を見比べるとどう見てもドイツ語版のほうが行数が多いんですよ(笑)。英語版になってくると、「あれ?」って。それで、アンドビジョンさんにお願いして、よくひもといていくと、英語版よりドイツ語版のほうが詳しく細かな事まで書かれていて…。そういうところがすごく不安でした。主人は英語ができるので、英語圏だったらそんなに困らなかったかなとは思うんですけど…。
―特に心配だった点というのは、要項の中でもどの点ですか。練習室とかですか。
正田  練習室もそうですけど、まず一番最初は書類審査。プロフィールを書く時点から、今までと違って年代を大きい方からに書くんだという事もアンドビジョンさんに教えて頂き、バイオグラフィーでは「自分はこんなに凄いんだ!」と言う事を書くのですが、これも「ページ一杯に沢山書いて下さい」 とアドバイスを頂いたのでここぞとばかり娘を褒めちぎりました。(笑)
選曲に関しても、ドイツ語から英語に直して要項を読んでいくと、分からないことが出てきて…。違ったものを弾くと失格になっちゃいますので…。結構規定があって、例えば「チャイコフスキーを選曲に入れる事」 とあったんですが、ただ入れると言っても、組曲からの抜粋はOKなのか。とか繰り返しは自由でいいのかなど日本と違うかもしれないので、全部質問して頂いたんです。その内容がうまく伝わらず、しつこく何回も細かいニュアンスをアンドビジョンさんから先方に聞いて頂いたのが一番助かりましたね。その他、現地での通訳はどうするか、練習室は確保できるのか など心配な事は結構ありました。
―確かそうでしたね。結構、返ってくる返答が毎回おおざっぱでしたよね。
正田  そうなんです。OKとか(笑)。どこがOKなのかというのをもう一回聞くのは、個人だとちょっと聞きにくいじゃないですか(笑)。だから、きめ細やかなところをアンドビジョンさんに取り持って頂いたというか…(笑)。何回も、「この場合はいいんですか」、「これを入れたほうがベターなんですか」というような・・・。入れたほうがいいのか、入れなきゃいけないのかとかいう、日本語でもちょっと複雑なことになるとドイツ語、ロシア語では到底無理だったのでそこが一番大変でしたね。
―コンクールを受ける際に、先生とか周りの方とかにいただいたアドバイスで一番役に立ったことは何かありますか。
正田  個人的に見つけてきたコンクールだったので先生からは特に言われなかったんですが、私たちが読んだインビテーションには基本的な集合時間が書いてないんですよ。「ぼちぼちだよ」というのをドイツにいる知人から聞いたんですけど心配なので朝9時にはホールに行ったんですが、来ていたのは29名中私たちを含め数名。ポツポツと集まりだして、結局、お昼の12時過ぎに主催者が、悪びれなく「Hi!」って来ました。(笑)日本じゃあり得ないですよね。分単位で練習時間が決まってたりするのに・・・。知人の言った「ぼちぼち始まるんじゃない」という言葉は当たりでした。・・・。その始まり方がなんともアバウトで・・・(笑)びっくりでした。アジアの方とかは結構早く来るんですけど、皆さん慣れているのか、もっと秘密の要項があるのか(笑)。いつも集合場所に早く来る人は決まっていて、ウクライナの男の子とは毎回始めに顔をあわせて何時間も一緒に待ってました。
―ほかの国の人とかはゆっくりな人はゆっくり来ていましたか。
正田  何となく、大体集まってくるんですよね。トップの方がロシア語しか話せなくて、ロシア語で始まったんですけど、ちんぷんかんぷんで・・・。その後にちょっとドイツ語で訳してはくれるんですが…。アンドビジョンさんからお聞きしていたのが、英語を話せる人もいると思うけれど、1名とかかもしれないので、対応がどうでしょうかというところだったので、主人に頼って行ったんですが、こちらから「すみません!」と進行をストップさせ「英語で訳してください」と言わない限りそのまま進行していってしまいました。・・・。かなり積極的にいかないと。例えば入賞したときにも、自分の名前を呼ばれたことさえ分からなくて、“あやね しょうだ“と呼ばれるところが、「ヨワンナー」「ショラー」とか言われたんですよ。ヨワンナという子がいるのかなと思ったら、後ろから「あなたよ」と言われて、やっと入賞したのが分かりました。名前を呼んでくれたのがロシアの方だったので…。行くまでも不安はたくさんありましたし、向こう行ってからは、英語ができる人たちを自分たちで見つけて、積極的にその人を追って質問をしていかないと、何をしたらいいのか、どこで練習したらいいのかというのが、なかなか分からなかったですね。多分、通訳を付ける人もいるんでしょうが、実際始まるのが何時からなのかも分からなかったぐらいなので、何時間通訳の方を拘束し、どのくらいの通訳料がかかるのか見当もつかず、お願いしませんでしたが、それで良かったのか悪かったのか…という感じです。
―日本とは全く別で、ある意味、ストレスが多いという感じですか。
正田  もちろんその国の言葉が分かればストレスは軽減すると思います。今回良かったのは、何カ国語も出来るコンテスタントのお嬢さんとお友達になり、ロシア人の彼女に主催者が言ってることを英語に訳してもらったことです。勿論ずっと彼女にくっついているわけにもいかないので彼女が弾き終わったあととか、たまたま近くにいてリラックスしている時にですが…。他のコンテスタント達も皆英語は分かるので待っている時などは彼らとも随分話しをして楽しむ事ができました。フランクフルトの街中でも10人中9人は英語がokでしたので、困ったのはコンクールに関してロシア語が分からない
という事でしたね。
―積極性が求められますか。
正田  そうですね。分からないことがあったら、自分から聞きに行かないと・・・。向こうの人もすごかったですしね。ちょっとびっくりしたのは、ぞろぞろと皆が集まって来て、主催者が「これから始めるよ」と…。「この帽子の中に数字の書いた紙が入っているので、それを一人ずつ引いてくれ」という感じで、「遠いアジアから来たあなたが最初に引いていいよ!」と・・・。考慮してくれたのでしょうか(笑)。それで「紙に書いてあった番号の練習室に行きなさい」ということなんです。すると急にあるプロフェッサー風のお母様が怒り出して・・・。多分ですけど、「うちの娘がこんな練習室で笑っちゃうわ」みたいな・・・主催者に向かってすごく怒っているんですよ。どうもアップライトの練習室にあたっちゃったみたいなんです。みんなの前でも構わずオーバーアクションで怒鳴っていました。日本人だったら、ちょっと審査に影響しちゃうかなとか、あたってしまったものは仕方ないとか思うのでしょうが…。そういうのがちょっとおもしろかったです。黙ってはいないんですね。後になってお話してみたらとてもフレンドリーな良い方でしたが…。
―練習室の環境はどうでしたか。
正田彩音さん/ピアノ
正田  練習室自体は、本番前の30~40分間与えられたと思います。それは良かったです。事前にアンドビジョンさんにお願いしていた練習室もあるんですよ。そこは、フランクフルト駅のすぐ前で、ジャズのスクールだと聞いていたんですね。実際、行く前は「アップライトだと思います」ということであまり期待しないで行ったんですが…。日本と違って、大きい「何とかスクール」とかいう看板が出ていないので、どこかなと思いながら探していると、怪しげな男の人が立っていたので怪訝な顔で対応したら、そこのジャズスクールのお兄さんで(笑)。入り口で待っていてくれたんです。何とその日は貸し切りで、グランドピアノが置いてある30畳ぐらいのとても良い部屋を貸して頂けました。思ってたよりもずっと良い練習室が使えたので、すごくラッキーだったと思います。フランクフルトに着いた日が4月6日だったのでちょうど復活祭にあたっていたんです。人っこ一人いないというか、お店も全部閉まっていて、だからかもしれないですね。どこに聞いても練習室は多分確保できないよという感じで行ったところ、多分そのお兄さんはお休みなのに来て下さって鍵を開けてくれ、2時間、3時間、ずっと待っていてくれて…。有り難かったです。
―講習会で用意してくれてる練習室というのは、事前の審査の直前とかそういったときですか。
正田   個別に、練習室で 審査前30~40分と、直前に実際に弾く会場で10分位弾かせてもらったと思います。
―コンクールでの練習時間というのはあまりなかったんですか。
正田  そうですね。でも、日本だともっと少ないところもありますし、それに比べれば割と弾けました。本番で弾く会場でも少し弾くことができましたし・・・。直前に本番用のピアノを触らせてもらえたので、そこはむしろきちんと時間を取ってくれているなという感じがしました。
―実際のところ、何名ぐらい受けられたんでしょうか。
正田  書類選考の段階で何人応募してどの位受かったかは分からないのですが、実際ファイナルに残ったのは、私たちが受けたカテゴリーで14カ国から集まった29名でした。A、B、Cのカテゴリーがあって、Aの14歳未満というところを受けたんです。Bが15~17歳、Cが18~20歳なんですが、A、B、C全部のカテゴリーで20カ国から集まってましたね。Aカテゴリーだけだと14カ国中一番多かったのがロシアの方達でした。
―審査自体は何日にも渡って行われたんですか。
正田  Aカテゴリーは2日間で済みました。それが終わって、最後に入賞者がセレモニーで弾くんです。だから、最後まで帰国せず、必ず残って弾いてくださいということでした。
―セレモニー自体はA、B、C全部終わってからという感じですか。
正田  カテゴリー別に行われましたが、演奏は勿論チッケトを買えばどのカテゴリーの演奏も聴けるようになっていました。
―ご覧になられていて、日本と海外で審査のやり方が違うなと感じられたことはありましたか。
正田  審査自体の大きな違いはありませんでしたがコンテスタントの見せ方というか舞台上の意識が日本の方と少し違うような感じはありました。平たく言うと強いというか(笑)。プロのように自信に満ちた感じで登場するので…。お辞儀の仕方も、日本のコンテスタントはどちらかというとどうぞ聴いてください。というようにゆっくりと丁寧にお辞儀をするのにロシアの女の子たちは、首だけをカクンと下にやっただけで、聴かせてあげてもいいわよ。という感じ(笑)。誰が偉いのか分からない感じでした。(笑)。審査自体は特に日本と変わらないと思います。日本にも海外の審査員の方がたくさんいらっしゃるのでそれほど驚くことはなかったです。ただ審査中後ろから見ていても審査員がのってるか退屈してるかはすぐに分かりました(笑)。
コンテスタントはヨーロッパ勢が多くて、私たちアジア勢は、日本と、中国、それから台湾の3国ぐらいだったんですね。目立つせいか凝視されましたね(笑)。「そんなに見なくても…。見たことあるでしょう?」みたいな感じで(笑)。私はCカテゴリーのコンテスタントと間違えられて、しつこく「何を弾くんだ」と聞かれたり…(笑)。日本の方は本番前は精神統一するか、黙って手を動かしたりしてますけど、ヨーロッパの方々は「僕はこの曲を弾くんだ」というふうに公言してきたりするんですね。すごいなと・・・。コミュニケーションの仕方の違いでしょうか…。だから、待合室の感じはちょっと違いましたね。ピリピリもしているんですけど、日本の待合室みたいにシ~ンとしてないんです(笑)。会場練習のときも、次の人が入ろうとしたら「あなたに入ってほしくない。出てください!」とシャットアウト。あまりにもはっきり言うのには驚きました。練習時間が過ぎて係の人が止めても全然平気で弾いているし…。「あなたは十分に弾いている!」とか言われてるのに全然平気で…(笑)。でも驚いてばかりはいられないですからね(笑)。
―そんな中で彩音ちゃんはどういうふうに自分を保っていましたか。
正田  まわりの事は気にしないでいつものように自分の時間を過ごしているという感じでした。ずっとイヤホンで何か音楽を聴いていたんですよ。他の人から見るとストイックに眉間にしわ寄せて聴いているし、絶対にコンクールの曲を集中して聴いているんだと思うじゃないですか。そしたらアニメのテーマを聴いていたとか・・・。難しい顔してたのはパート別に分けて聴いていたからだそうで…(笑)。コンテスタントだと思われてなかったみたいです。一緒に来ていた弟ぐらいに思われていたみたいで…。何せ私がコンテスタントに間違われるぐらいですからね(笑)。皆さん大人っぽいんですよ。なので彩音の事を意識してる人はいなかったですし、彩音も全然気にしていなくて、自然体でした。
―煩わされずに・・・。逆にすごくいい方向だったんですね。
正田  そうですね。言っていることも分からなかったので、適当にやっている感じでしたね。
―海外でコンクールを受けてみて、彩音ちゃんの演奏が変わったなとか、心境が変わったなということは何かありましたか。
正田  本人が言うには、国内でも海外でも気持ち的にはあまり変わらないそうです。ただ、日本の場合は待っているときもシーンとしていているので、他人に何か影響を及ぼされるということはほとんどないんですね、自分さえしっかり集中していたら。でも海外では今回のように、いろいろ話しかけられたりすることもあるし・・・。同じカテゴリーを受ける女の子が「私はこのコンクールをとてもいいものにしたい。私はこのコンクールにかけている。」というふうに言ってきたんですが「あんなこと言ってきた!」なんて、動じちゃうような子はちょっとどきどきしちゃうかもしれないですね。
―なるほど。割と肝が据わった感じの方のほうがいいという感じでしょうか。
正田  そうなんですかね。気にしないことだと思います。いつもの自分を出すことができればベストなので。
―実際に受けてみて、海外コンクールに対するイメージが変わったとかいうことはありますか。
正田  受けるまでの書類の書き方などで、逆に日本のコンクールのきめ細やかさというのを改めて感じました。日本のように待っているだけでは、そこまでたどり着けるかどうか・・・というところなので、分からないことはどんな手段を使っても解決しないといけないと思いました。自分で出来なければアンドビジョンさんみたいなところに頼んだりして、正しい情報を入手しないと、間違っていることもありますし・・・。実際、写真も英語版では2枚用意と書いてあったのが、ドイツ語版では3枚と書いてあったのでそれを調べてもらったら、これはやっぱり訂正ですと・・・。そういう類いのことは多々あるので、日本のコンクールのようなきめ細やかさは期待できないです。行ってみなければ、練習室もあるかどうかは分からないし…。あなたのことを気に入ったら貸してあげるよという感じの時もあるそうです。
―怖いですね。
正田  だから、最悪練習する場所が無くてもいつでも弾ける状態にしとかなきゃいけないですね。あったらラッキーぐらいに思っておかないと…。
―本当に日本とは違うということですね。
正田  そうですね。日本とは違いますね。
―今回、このコンクールを受けてみて、将来こうしたいとかそういったものを見えてきたとかいうことはありますか。
正田彩音さん/ピアノ
正田  これは本人というより、私が思ったことなんですけども、日本では割と選曲に対して慎重に年齢相応の楽曲を選ぶケースが多いように思いますが、今回、皆さんの選曲の難易度があまりにも高くてびっくりしましたね。子供がこんなの弾いていいのかなという選曲で皆さん来られていたので・・・。考え方の違いだと思うんですけど、技巧的に弾きやすい曲でも、精神的、音楽的に完成度高く仕上げてもってくるか、又は逆に難易度を高くして技巧を見せるのか…。今の時点ではどちらがいいのか分かりませんが、実際1位になった中国の方は、すごく難しい曲を持ってこられてたんですが、それがまた上手なんですよね。音質とか音楽的とかそういうことよりも、ぐんぐんと押してくるタイプの演奏だったように思います。コンクールによっても年齢によっても審査基準は少し違ってくるとは思うんですが、圧倒されましたね。選曲もよく練られていておもしろかったです。
―技術面というか、技巧的なところが評価されるような感じですか。
正田  勿論、音楽ですので技巧だけでもだめですよね…。難しいところですね。今回は皆さん思ったよりも難易度の高い曲を持ってこられてたので、結構技巧重視なのかなと思ったりもしましたけど、そこの兼ね合いがコンクールによっても違いますし、あとはジュニア部門というのがあると思うんです。勿論大人と同じ曲を弾いても大人には敵いませんが、将来を見越して…。みたいなところもあるんでしょうか…。
―なるほど。
正田  難しいエチュードがやっと弾けた!と思っても向こうへ行くとまだまだ…(笑)。
―英才教育みたいな感じですか。
正田  そうですね。そういう感じでした。ご両親も音楽大学の教授という方が多かったです。
―その中で戦うのも大変ですよね。
正田  別の角度から見てもらうしかないですね(笑)。
―これまでのコンクールで知り合った人と今でもお付き合いがありますとかいうつながりはありますか。
正田  コンクールが終わって帰国後すぐに、授賞式の模様を撮ったビデオを送った人はいるんですけどお返事が返ってくるということはなく、未だに、うんもすんもありません(笑)。頼まれたから送ったのですが…。
―届いたんでしょうかね。
正田  そうですね。どうなんでしょうね。それさえも分からなかったんですけど・・・(笑)。ドイツの方でしたからね。届くと思うんですけど。他の用件でドイツ在住の日本の方に送った時には届きましたから(笑)。おしゃべりしてるときはとても感じがいいんですよね(笑)。おもしろいですよね。だから、いちいちかっかしているとだめですね(笑)。ドイツの方が皆さんそうではないですから。
―今後、挑戦してみたいコンクールとかはありますか。
正田  ちょうど年齢がジュニアからシニアに変わる時なんですね。そうなると持ち曲も少ないし大人の方と一緒となると難しいですね。まず勉強してからです。
―今後、コンクールを受ける方にアドバイスがあれば一言お願いいたします。
正田彩音さん/ピアノ
正田  良かったのが、自分たちで、調理もできるキッチン付のホテルを予約したんです。たまたますぐ近くに新しくスーパーマーケットがあって…。そこがすごく大きいところで何でも揃ってて。食事に関してはコンクールが終わるまで自分たちの食べたい食事ができたということです。日本のようにすぐにコンビニがあるわけでもないし、自動販売機もないですし、飲み物の確保などにも気をつけました。多少の食料と飲み物はいつも持ち歩いていると安心だと思います。
―お食事も体調管理という点でも大事ですよね。お部屋で自炊をされていたんですか。
正田  そうです。コンクールまでは部屋で食事をして、終わってから街へ行ってその地のものを食べました。
―ありがとうございます。アンケートになるんですが、前回ご利用いただいたサポートに加えてもっとこういうのがあればいいなとかいうものがあれば、今後の参考に聴かせていただきたいのですが。
正田  すごくよくやって頂きました。対応も早くてものすごく助かりました。初めのVHS,DVDの審査でリージョンフリーというのがあったんですが、それについての対応が誰も分からなくて、不安に感じた事ぐらいです。結局は平気だったんですけどね…。またこの語学とは違うところの心配ですよね。それくらいです。
―今後もまたご協力いただくかも分かりませんが、よろしくお願いします。きょうはお時間ありがとうございました。
正田  いえ、とんでもないです。ありがとうございました。

新倉明香さん/声楽

新倉明香/Sayaka Niikura
新倉明香さんプロフィール
国立音楽大学声楽学科卒業後、パリ・エコールノルマル音楽院に奨学金制度を受けて留学。高等演奏家ディプロム取得。パリ国際芸術都市主催コンサート、教会、サロン、室内楽コンサートに多数出演。
〈コンクール歴〉
flame音楽コンクール[フランス/2010年]
クレ・ドールコンクール[フランス/2010年]
レオポルト・ベランコンクール[フランス/2011年]
upmcf声楽コンクール[フランス/2011年]
-まずはコンクールを目指したきっかけを教えてください。
新倉  パリに留学していたので、直接海外のコンクールを受験しに行ったわけではないんですが、やはり自分の力を試してみたかったのと、自分の通っている音楽院以外の先生からの評価をいただきたかったので受けました。
-海外にはコンクールはたくさんありますが、今回のコンクールを選ばれた理由は?
新倉  合格不合格ではなく、レベルごとにカテゴリーとして自分がどこにいるかが分かる形だったんですね。今の自分の位置がわかるというか。
-コンクールの場所も重要でしたか?
新倉  フランスから出なかったんですが、やはり行きやすいところを選びました。フランスへはコンクールのために行っていたわけではないので、試験が重ならないようにとか、スケジュールも見ながら決めました。
-誰が審査員をしているとかも選ぶ理由になりましたか?
新倉  なるべく大人数の方が審査しているところに出ようと思いました。フランス人だけじゃなく、インターナショナルなところを調べて。先生方のお名前を見ても、どの国の方かはほとんど分からないんですけど(笑)。
-そのコンクールは、いろんな国の方が受けられていましたか?
新倉  そうですね。留学していたところが全世界から集まっているようなところでしたから、コンクールもそういう感じでした。
-情報収集はどのようにされましたか?
新倉  インターネットでコンクールの一覧表みたいなものを見て調べました。あとは友だちから聞いたり、音楽院の掲示板に資料があるので、それを見たりしました。
-受ける前に不安はありましたか?また、その不安はどのように解消しましたか?
新倉  もちろん受ける前は不安になるものですが、コンクール曲をどれだけ人前で歌ったことがあるかどうかで不安は違うなと思います。
-コンクールを受けるに当たって、先生に許可をいただくなどの必要はあるんですか?
新倉  私は必要ではなかったです。有名な先生になると、その先生が審査員を勤めるコンクールに参加するというっていうこともあるみたいですけど。
-なるほど。先生にはコンクールに向けてアドバイスはもらいましたか?
新倉  コンクールでこれをやりますと言って見てもらいました。先生からは具体的にアドバイスをいただきましたよ。前にやった曲を出さないとか、どうやったら自分を表現できるかとか、すぐに結果が出るものではなく何回も挑戦するものだから、などとアドバイスをいただきました。
-コンクールを前に、体調を整える秘訣があったら教えて下さい。
新倉  普段から気をつけてはいますが、試験の前は夜遊びしない、とかですかね(笑)。無理せずに、規則正しい生活をして集中できるようにします。
-現地に行かれて、練習環境はいかがでしたか?
新倉  どのコンクールは控え室みたいなのがあるので、声は出せます。
-控え室に音を取るためのピアノなどはあるんですか?
新倉  置いてある場合と置いてない場合がありますね。伴奏者を頼んでいた場合は、控え室で合わせたりします。
-練習できる場所はあると。
新倉  コンクールによって練習室がある場合もありますね。音楽院などで行われる場合は、そこの練習室を使えます。ホールなどの公共施設の場合だと、ここを控え室として使って下さいみたいな感じです。
-その場合、練習したいときはホテルなどでするんですか?
新倉  いえ、公共のホールなどでも、音を出してはいけませんってことはなかったので。
-伴奏者はフランス人ですか?
新倉  日本人の方もいました。もともと日本人の伴奏ピアニストが多いんですよ。
-手配するときに、日本人を指定したりも出来るんですか?
新倉  コンクールの要項に、伴奏者を希望する人はここに連絡して下さいと、伴奏者の名前と電話番号が書いてあるんです。だから友だちに聞いたりして、知っているピアニストを紹介してもらったりしました。日本人がその中にいることもあります。
-初めての伴奏者とコミュニケーションをする秘訣は?語学や性格も含めてスムーズに行くものですか?
新倉  伴奏ピアニスト方から、「息はどこで吸うの?」とか聞いてくれますのでやりやすいですよ。彼らも仕事ですから。
-伴奏を自分で連れて行ってもいいんですよね?
新倉  はい、その方が事前に合わせられるので良いですよね。自分に合うピアニストというのも安心ですし。一か八かで知らない人にお願いして、合わないと残念ですからね(笑)。
-日本でもコンクールは受けられたことはあるんですか?
新倉  いえ、留学前は受けたことがありませんでした。最近帰国したんですけど、実は今、ちょうど日本のコンクールを受けている最中なんです。
-コンクールを受ける前と後で、自分の演奏やメンタリティの面で変化はありましたか?
新倉  コンクールを受けて、審査員の方からアドバイスをいただいたんですけど、それを受けて自分の音楽を考え直すことができました。いろんな意見が聞けるので、自分がこれからどういう風にやっていけばいいかが分かって、とても有意義でした。
-いろいろな先生からアドバイスをもらえるんですね。それはコンクール後に?
新倉  結果発表の時に。とてもフランクな感じで、皆さん丁寧に教えてくださいました。
-受けたことによってご自分の方向性が具体的に分かったんですね。
新倉  そうですね。課題曲で、ロマン派以前と以降との両方歌ったのですが、私の声にはロマン派以前の曲がすごく合うと評価していただきました。もちろん、声を作るためにしっかりした曲も練習しなきゃいけないけれど、と。あとは、たくさんの言語で歌わなければいけないので、それは常に練習した方が良いとアドバイスを受けました。
-コンクールからプロの道が開けるということもあるんですよね?
新倉  いちばん良い賞を取ると、コンクールの主催者が開くコンサートに出られるんです。そこに出たら、また違うところから声がかかる、という風に開けていくことはあります。
-ステップが踏める可能性があると言うことですね。コンクールを受けて良かったことや忘れられない思い出は?
新倉  フランスや海外のコンクールは、審査員もお客さんのように楽しんで聴いてくれているんです。一般公開なので、良かったらお客さんも拍手してくれますし、とても良い雰囲気だったのが印象的でした。歌い終わった後に、良かったですよって言っていただいたりもして。そういう小さいことが自信につながりましたね。
-ピリピリしてないんですね。日本に帰ってきてから、また海外のコンクールを受けたいと思いますか?
新倉  はい。向こうに先生がいるので、何か受けたいなと思っています。なかなか日本にいると難しいのですが、行ける時期になったらまた行きたいです。何より受験料がすごく安いんですよね。
-今後、海外のコンクールを受けたいという方にメッセージをお願いします。
新倉  まず言えるのは、「受けて損はない」ということですね。受けたら必ず何か返ってきますから。たとえ上手く出来なくても、上手く出来なかった原因を考えるきっかけになります。それにインターナショナルなので刺激になるので良い機会だと思いますよ。
-先生に許可を取らなくても良いとか、細かいストレスがある訳じゃないですしね。
新倉  それは全くないですね(笑)。それに、周りに知っている人がいないだけで緊張感は減りますから。
-今後、アンドビジョンがコンクール参加者をサポートをしていくときに参考にさせていただきたいのですが、「こういうサポートがあったら良かった」っていうことはありますか?
新倉  向こうの練習室確保でしょうか。どこで練習しようかは悩みますからね。その場に行ってから決めるというのはやはり不安なものですし。
-事務局とのコミュニケーションは上手く取れたんですか?
新倉  あまり良くなかったですね(笑)。日本人と違っていい加減なところもあるので、受けに行ってから、あれ?みたいなことも良くあります。臨機応変に対応してくれますので、がちがちに決めて行かなくても良いんですけどね。
-なるほど、参考になります。今日は貴重なお話を聴かせていただいてありがとうございました。

コピー 植山けいさん/チェンバロ奏者/フランス・パリ

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回、パリでご活躍中の植山けいさんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2012年1月)


Image―植山けいさんプロフィール―

ロンドン生まれ、東京育ち。2004年Paolo Bernaldiチェンバロコンクール第2位(イタリア)。第19回国際古楽コンクール<山梨>チェンバロ部門第3位(日本)。

桐朋学園大学ピアノ科、アムステルダム音楽院チェンバロ科(オランダ)、ロンジー音楽院チェンバロ修士課程(アメリカ)、ブリュッセル王立音楽院フォルテピアノ科修士課程終了(ベルギー)。現在パリと東京を中心にチェンバロ奏者、通奏低音奏者として活躍中。
2010年、レ・シエクルとプロメテウス21(フランス)によるバッハのチェンバロ協奏曲及び、ブランデンブルク協奏曲全曲演奏ツアーにソリストとして出演。その時の演奏が、フランス国内でラジオ・テレビ放映され、好評を博す。また、オランダやアメリカで開催したコンサートでの演奏を地元メディアに取り 上げられ、高く評価された。ボストン古楽音楽祭(アメリカ)、モーツァルト音楽祭(ユネスコ世界遺産ヴュルツブルグ宮殿、ドイツ)に出演。サル・プレイエル(フランス)、シャペル・ロワイヤル(ヴェルサイユ宮殿、フランス)、ブリュッセル王立楽器博物館(ベルギー)などでも演奏会を行う。2001年には、 ボストン(アメリカ)ならびに東京において、バッハ・ゴルトベルク変奏曲を演奏し、チェンバロ奏者としてデビューを飾る。2012年、デュポールのチェロ ソナタ全曲を、チェリストであるラファエル・ピドゥーと世界初録音し、スイス・ノイシャテル博物館所蔵J.ルッカースチェンバロでバッハ:ゴルトベルク変 奏曲のソロ録音がリリースされる。(2枚ともIntegral Classicより発売)
これまでピアノを小島準子、ヴィクター・ローゼンバウム、フォルテピアノをピート・クイケン、ボヤン・ボティニチャロフに、チェンバロをピーター・サイクス、メノ・ファン・デルフト、クリストフ・ルセ、ユゲット・ドレイフュスの各氏に師事。G.レオンハルト氏のマスタークラスに参加。

- まずは、植山さんの簡単なご経歴を教えて下さい。



植山  小学校1年生から中学校3年まで9年間桐朋学園の音楽教室でピアノを習い、その後桐朋女子高等学校音楽家、桐朋学園大学大学のピアノ科へ行きました。卒業半年後にアメリカ・ボストンのロンジー音楽院に2年の予定で留学しま。けれども、フォルテピアノやチェンバロにも興味を持っていたのでピアノレッスンと同時に古楽器を習い始め、ピアノのデイプロマを取得後にチェンバロ科の修士課程を2年しました。その後古楽の盛んなヨーロッパできちんと17-18世紀のスタイルを学びたいと思いアムステルダム音楽院に2年行き、フランスのバロック音楽を理解するにはフランスへ住まないと無理だと思い、その後パリへ行き6年間過ごしました。気が付いたら3カ国で13年を過ごし本帰国したばかりです(笑)。



- チェンバロに初めて触られたのは?



Image植山  高校の時、有田正弘先生の古楽実習という授業を受けました。その最後の授業で、先生のお宅を訪問する機会があり、博物館みたいに色々な楽器が置いてあり、初めて18世紀のアンテイ―クのチェンバロを弾かせて頂きました。まだ全然チェンバロの構造など分からなく、バッハ時代の鍵盤って言う程度の知識でしたが、今まで聴いたことのない音色で、ピアノ教育で受けた音楽観念をくつがえされるようなショッキングな出来事でした。有田先生の授業では、例えば、メヌエット、サラバンドという舞曲のスタイルや、ヨーロッパの17-18世紀の政治や風習などピアノのレッスンで聞いたことのない内容を初めて聞き、目から鱗でした。バッハのイギリス組曲なのに、その中にはフランス式やイタリア式で書かれたクーラントがあり、どうやって見分けるか、弾き分けるか、どの様なダンスだからテンポ感はこうとか。

みんな毎日8時間真面目に練習をして、怒られながらも耐えて、とにかく上手になることだけを考えて必死に頑張っていたと思いますが、初めて音楽とヨーロッパの文化のつながりを、有田先生に教えて頂き、【宮廷音楽家や作曲家は雇われて、王様のために作曲していたんだよ】とか、そういう基本的な事も全く知らないし!(笑)そもそもバッハが本当に生きていたのか・・・とすごく疑問でした(笑)。

そういう意味で、楽譜上の音符をただ綺麗に早く上手に弾いてコンクールで賞を取るようになるということよりも、もっと本質的にどう音楽がヨーロッパで生まれ、親しまれ、発展して、ヨーロッパ文化の中に浸透してきたのかということに興味を持ち始めました。バッハの音楽などは素晴らしいから300年経った今も残って、日本も含め世界中で弾かれているっていうことを、日本のピアノ教育の中では理解しきれなかったんですよね。



- なるほど。それを有田先生が教えてくださったと。



植山  新しいドアを有田先生が開けてくださったというか…。

だから私の周りの今バロック音楽を弾いている友達は皆、日本や本場のヨーロッパで一流の団員として世界ツアーをして活躍していますけれど、みんな元々モダンバイオリンやモダンピアノを頑張ってきた子が、よりその作曲家に近づきたいっていう思いで、バロックに目覚めてしまった(笑)という感じです。

私は小さい頃から、「モーツアルトは真珠がころころと転がるイメージで弾いてね」とみんな言うけど、一体誰が決めたんだろう(笑)?って子供ながらにすごく不思議でした。ドイツという国にも行ったことないし。

【モーツアルトが天才、天才と言うけど、本当に生きていた人なのかな?】とか疑問でしたが、ウイーンのモーツァルトハウスに行って、実際に作曲していた天井に天使が描かれている綺麗なお部屋なんですけれど、そこを観て初めて生きてたんだなあって思いました。モーツァルトが実際に使っていたフォルテピアノやベートーベン、ハイドン、メンデルスゾーン、リストの家が博物館になっている所へ実際に行って、どういうフォルテピアノを使っていたかによって、今現存するほぼ同じモデルのフォルテピアノを弾かせてもらい、作曲家がイメージしていた【音の世界】を知ることができるんですね。すると、スタンウェイを弾いた時も、それぞれの作曲家がどんな音色のピアノを弾いて作曲をしていたか、随分イメージがはっきりして、より作曲家の音の世界を近くに感じれる様になりました。アメリカやヨーロッパの旅行の先々で弾ける楽器博物館や個人のコレクションは出来るだけ訪ねて行って弾きました。そういう意味では、高校の頃から、古楽器に興味を持ち始めました。



- 日本にいる間はピアノを専攻してらしたのですよね?



Image植山  はい。小さいころから練習したピアノから、例えばチェンバロに替わる、フォルテピアノに替わるって、多分日本では、替われる勇気がでないんですね。先生も猛反対するだろうし、親は勿論、周りもそんなこと許されない雰囲気。アメリカは、【何歳になっても勉強し続ければいいよ】という、学びたい事や年齢に関係なく、みんな好きなことを自分の人生でやっていくという、すごく自由な雰囲気なので、私のピアノの先生はバロックが嫌いにもかかわらず(笑)、【人生一回だからお好きなことやりなさい】って言って下さって…。本当に感謝していますね。



- いくらアメリカとはいえ、専攻を替えようと思った時には勇気が必要ですよね。



植山  ええ、半年間毎日悩みましたね。今までのピアノ―チェンバロに転科したのはアメリカで2年ピアノを勉強した後だったんですけれど―それが24歳の時で、ほぼ20年勉強してきたピアノを捨てるのか、ピアノの蓋を閉めるってことなのかという恐怖感があって…。

果たしてチェンバロが自分に合っているかも全く分からないし、誰にも訊けないし、他に例がなかったので(笑)。



- 専攻を替える方も少ないと思いますが、その中でもチェンバロは少ないですよね?



植山  桐朋の卒業生はモダンピアノでロンドンとかドイツで留学して、イタリアとか、ジュリアーノ、インディアナとかみんなモダンピアノですね。



- チェンバロに替わると活躍の場面も、またピアノとは違ってくると思うんですけれど。



植山  全く違いますね。



- チェンバロのリサイタルなどは、数は少なくともある?



植山  勿論あります。チェンバロやバロック音楽を日本へ紹介していく意味で切り開いていった方などいらっしゃいます。ピアノ人口が100人いるとしたら、チェンバロ人口は3人くらいだと思いますが。



- チェンバロですと、まず楽器がどうやって保存できるのかとか、お家で大丈夫なのかなとか心配になってくるのですけれど。



植山  そうですよね、色々分からないことが多いですよね。まず私の感覚でいうと、チェンバロのタッチはピアノの鍵盤の3分の1位の軽さなんですよ。なので、ピアニストがいきなりチェンバロ弾くと叩きすぎちゃって壊れてしまったりします!

ピアノとの決定的な構造の違いはピアノがハンマーで音を出しているのに対して、チェンバロは小さな爪の様なもので弦をはじいているので、どちらかと言うと、ハープに鍵盤が付いているようなイメージです。チェンバロの弦をはじく部分は、17-18世紀は鳥の羽を削った1mmくらいの爪みたいな物だったんです。上手いチェンバリストとほど、殆ど動かないんですね、指が何にもしてないように見える。例えばバイオリンのピチカートを、より大ホールで響かせたいと思ったら、浅くはじいてしまうと全く響かないのと同じで、より張力を感じて最後にぷちんって弾く方が響きますね。



- はい、そうですね、分かります。



植山  あれをチェンバリストは指でやっているんです。



- なるほど。



植山  叩くと逆に音は潰れて汚い音しか出ません。鍵盤のほんの2、3ミリを触った時に、鳥の羽(今はプラスチックの爪のような部分)が、弦に触れてはじくまでをいかに感じられるかっていう、ミリ単位の指先の感覚が必要なんです。チェンバロに替えた時には、体にモダンピアノの20年の癖が入っていたので、叩くし、腕は回す、肘がなぜか歌ってるというか勝手に動く!(笑)肩も体も前後に揺れるという癖を一切止めて指だけをミリ単位で鍛えるというピアノの癖を抜く所から始めました。



- 大変そうですね…。



植山  練習する時に、自分の動きが大きすぎるなって思った時は、背中を固定するために、ものさしがなかったので(笑)、傘を背中に差して練習しました(笑)。いかに自分が無駄な動きをしているかが分かります。とにかく指は脱力して力は一切必要ないので、ピアノの筋肉は全部落ちましたね。



- では今はピアノを弾くとなると大変?



Image植山  今、ピアノを弾くと筋トレみたいですよ(笑)。モーツアルト時代のフォルテピアノは、まだチェンバロが存在した時代に発明された初期のピアノなので鍵盤も軽く、チェンバロのテクニックで弾けます。フォルテピアノが発明されて楽器の構造が変わり、強弱が出せるようになり、モーツァルトは最新の楽器に大喜びしてピアノソナタを作って…それは本当に感動的なことだと思うんですね。だから、私は(最新技術であるピアノから)チェンバロに戻りましたけれども、あれだけの進化を遂げた、ピアノにしかない魅力は素晴らしいと思います。ブラームスの曲を聞いたりすると、赤い絨毯を歩いているような重厚さを感じますし、それはバロック音楽とは違う魅力ですね。

チェンバロをアメリカ、アムステルダム、パリで専念した7年後くらいに、フォルテピアノを学ぶ最後のチャンスだと思い、パリに住みながらベルギーのブリュッセル音楽院のフォルテピアノ科に入り、2年間通いました。月1回パリから新幹線みたいなタリス高速列車に乗って通いました。パリから1時間20分で行けるので、千葉から東京に行く感覚で(笑)通っている生徒さんが沢山いましたよ。パリのオーケストラでチェンバロの仕事をしていたので、さすがに4ヶ国目に引っ越して一からやり直すのは無理だと思い、2年間ハイドンのフォルテピアノ初期時代からフランクのロマン派の時代の曲まで違うフォルテピアノ、構造に対してどの様に弾きわけるかという事を勉強しました。チェンバロから今のモダンピアノまでへの発展を学んですごく良かったですね、そういうことは日本でなかなか学べないので。

今パリではモダンとバロックの両方を弾きこなせるという事がオーケストラなどの仕事でも需要が増えています。例えば、パリオペラ座のオーケストラの団員で、仕事もキャリアも安定しているのに、再びバロックヴァイオリン科に入って学ぶ方等いらっしゃいます。モダンだけじゃなくて、バロックも弾けるっていうのが、今流行っているというか、アラモードになっていて、バロックの弓に持ち替えて弾けるようになりたいって人たちも結構多いですよ。

まだ日本では、モダンはモダン、バロックはなんか古臭い、なんであんな異色な!っていう感じで観られますよね(笑)



- 日本では確かに住み分けというか、全く別のものになっている感じがありますね。最近フランスへ留学したいと言う学生さんが増えているように思うのですが、幅広く自然に勉強できるからっていう理由があるのでしょうか?



植山  うーん、個別の楽器のことは詳しく分かりませんけれど、木管金管系は確かにすごく上手ですよね。



- 元々ヨーロッパで始まった楽器ですしね。本場にいくってことがそれだけで勉強になりますよね。



植山  ピアノは例えばアメリカ、中でもニューヨーク、いわゆるジュリアード系のピカピカの明るい音でばりばり弾くと、聴衆も喜んでくれる。だけれど、そういう演奏をヨーロッパですると、良く弾けるけど、スタイルが分かっていないのでは?内容が浅い・・・と言われたりすることがあります。

アメリカ、またはヨーロッパに留学するかで全然違うし、ヨーロッパの中でもイタリア・フランス・イギリス・ドイツではそれぞれ違うと思います。自分がフランス音楽をやりたいのか、ベートーベンを極めたいのか、先生との出会いにもよりますし。ロシア人でも素晴らしいバッハを弾くか方もいますし。

逆にロンドンに12年ピアノ留学・お仕事をしている友達は、イギリスはフランスにもドイツにも属していないから、自由で割と個人を尊重してくれると言いますね。でもイギリスはヨーロッパだから伝統的なスタイルから外れたことは好まないと思います。アメリカはスタイルをとっぱらって、彼女の弾き方は素晴らしいと、人間性をそのまま受け入れてくれる人たちなので。同じ自由でもアメリカとヨーロッパでは、その雰囲気や趣味が異なると思います。



- 最初ご留学されたのがアメリカなのはなぜだったのでしょう?



植山  高校3年生の時にローゼンバウムという先生が、ボストンの音楽院の学長兼ピアニストをしていて、学校で公開レッスンを受けました。毎年、日本で公開レッスンをされていたので、高校3年生から4年間、毎年参加していました。初めてショパンのバラード1番のレッスンを受けた時に、「この先生と何か通じるな」とピンと来たので翌年、大学生になって夏期講習をボストンへ受けに行きました。ご縁ですね。

大学の時はフランス語を始めて、とてもフランスに惹かれていたので旅行へ行き、3、4年生時には講習会を受けに行ったり、フレーヌ音楽祭に行ってレッスンを受けたりしましたが、そうぴたっときたわけでなくて(笑)。特にフランスの先生は個性が強いので(笑)。自分に合うか合わないかは、レッスンを受けて確かめる以外にないと思うんですよ。



- 人から聞いても違うこともあると。



植山  ええ、実際友達に薦められて受けたけれども、全然私にはぴんとこなかった事もありました。アメリカ人はとてもオープンでコミュニケーションがしやすいのですが、フランス人はコミュニケーションがすごく特殊なんで(笑)。オープンというより、プライベートな感じを好む方が多いと思います。フランスが個人主義の保守的な人たちが多い国だと思います。それは、伝統や歴史があるので重んじるという所からも来ていると思います。

例えばアメリカ人だと、ハロー!ハワユー (How are you?) って誰にでも笑顔だし、みんな気持ち良く接してくれて、ちょっと弾けばブラボー!!!という感じで、若い頃に行くと伸びると思います。褒めて褒めて伸ばす方針。

フランスは本当に良い時にはトレビアン!と言うけれど、【悪くない=パマル】という表現を聞くことが多いです。例えば日本語で、演奏後に【悪くなかったね】と言われたら、褒め言葉でないですよね。だけど、フランス人は皮肉屋さんなので、割と気に入っている場合もパマルと言うんですよ(笑)。パマルはどうやら褒め言葉らしい?ということが、2~3年後にフランス人の友達に聞いて分かったり!国によって認め方も違うんだなって(笑)。

パリに住み始めた最初は2年間本当に何も起こらなくて、落胆しました、本当に厳しい…。パリって華やかな、人生薔薇色みたいなイメージがあるのに、実際に住んだら灰色みたいな(笑)、ギャップがあれだけ大きい街は他にはないのではと3ヶ国住んでみて思いました。一番苦労もしたけれども、6年間とても貴重で素晴らしい体験をさせて貰えたと思います。どの分野の音楽でも一流がいらっしゃいますし。



- そうですね。やっぱり留学先にもよるんでしょうか。

植山  人により国との相性はありますね。でもどこに行くにも、勉強する先生によって大きく印象も充実感も変わると思います。先生が素晴らしい演奏家でも、初めて外国暮らしで、家の借り方も分からないし話せない。だけれど先生はほったらかし、ツアーで忙しくて不在で月に数日集中レッスンのみという場合もあります。行ってみて現状が分かることが多いので、留学前に1度どういう場所か、町や音楽院の雰囲気、何よりも先生と信頼感があるのか実際に行って確認するのは良いと思います。



- なるほど。



植山  私も最初は本当に数え切れないほど失敗をして、パスポートを盗まれたり…。アメリカからヨーロッパに大陸を変える引越しは結構大変でしたね。



- アムスではどうやって師事する先生を見つけられたのですか?



Image植山  オランダは、チェンバロやフォルテピアノでいうメッカ・聖地なんですね。先日亡くなられた高名なグスタフ・レオンハルト、ピアノでいえば、リヒテルみたいな方が生きていらしたのと、彼のメソッドがやはり主流でオランダに10年以上留学していたフォルテピアニストの先輩に聞いて、重い荷物をガラガラがらがら引いてレッスン受けに行って。

アムステルダムの先生は、1回しかレッスンを受けなかったんですけれども、とても充実していました。時間きっちりで、連絡メールもすぐ返信があり、イギリス組曲を2時間びっちり丁寧に教えて下さって。ボストンの初めてチェンバロを教えて頂いた先生は本当に面倒見の良い、大らかな先生で、彼以上に素晴らしい先生はいないと思っていました。けれど、5年間、一からチェンバロを教わり、元々ヨーロッパで生まれたチェンバロを、アメリカ人だけに習うのはどうかと思い、文化的背景を学ぶ為にも発祥の地、ヨーロッパへ行こうと思いました。

ボストンの先生はヨーロッパのコネクションがなかったので、自分で行くしかないと思い、スイス・フランス・ベルギー、オランダを強行突破の様に先生探しの旅をしました。実際、アムステルダムの先生と勉強し始めたら、井の中のかわずで、知らないことがこんなに沢山あるんだと、また一からやり直しいう感じでしたね。



- なるほど。フランスに行かれた時はすでに演奏家として?



Image植山  いえ、まだアムステルダム音楽院を卒業したばかりでした。22歳でアメリカに行き、27歳でアムステルダムへ行った時先生に「もう27歳?僕は32の時には子供が3人居たよ」って言われました(笑)。でも、ベルサイユ宮殿で盛んだったフランスのバロック音楽は、ドビュッシー、ラベルに通じる、フランス人にしかないエスプリや雰囲気があり、実際フランス語で話して、暮らしてみないと絶対理解できないだろうなあと思っていました。特に、チェンバロの練習曲や教則本は17世紀の古フランス語で書かれているので原語で読んで理解しないと、演奏法がわからない。すでに29歳で、コンヴァト(コンセンヴァトワール)国立申し込みが30歳までなので、ぎりぎりだったんですけれど、さすがに学生こんなにやったから、うんざりしていたので、何にもプランなしで(汗)、ただフランスに行く!行くぞと(笑)。



- 勇気がありますね!



植山  なぜかフランスに行かずして日本に帰れないと思っていました。



- ビザとか大丈夫だったんでしょうか?



植山  ブローニュ(パリ郊外)にお家が見つかり、歩いてすぐの所にブローニュ地方音楽院があり、そこに素晴らしいチェンバロの通奏低音科の先生がいるといことで、2年間修士課程を勉強しました。

そうこうしてるうちに、仕事につながって行きました。



- 仕事を得るきっかけはあったのでしょうか?



植山  友達からの1本の電話のみです!チェンバロの場合は、自分で履歴書をどこかに送るなどの機会がないんですよね。大概のオケってチェンバロ奏者は1人いれば十分なんですよね。

それでも、バロックオケは日本の10倍以上あります。それだけ仕事もコンサートもあるし、著名なオケの場合は2~3年先まで演目が決まっているので、いつチェンバリストが必要と随分前から分かります。団員の人が弾けなかったら、友達の誰でもいいから、弾ける人を探すとなります。友達に、「来月ヒマ?」と聞かれて、「あいてるよ」と答えて、そこからですね。

私はそれまでオケと一緒に弾く機会がほとんどなかったので、失敗ばかりでした!全然違うところで、一人だけ入っちゃったり(笑)、私のせいでもう一回振り直しなんてこともありました。みんなこっちを振り向いて冷たく見られたり…ただでさえアジア人で浮いているのに(笑)。最初は挨拶もしてくれないし。ようは弾けてなんぼってことです。弾けたら何となく…良いとも言わずに何回かコンサートに呼ばれて、続けて電話がかかってくれば、前回は大丈夫だったらしいと(笑)。そんな感じで未知の世界が一杯でした!

そこから輪も広がり、別のメンバーが、自分の地元で音楽祭をやりたいから弾いてと言われて行く、そこに行って別の人に出会い、なんか一緒に弾こうよと言われ、アンサンブルのメンバーに知らぬ間になっていて(笑)・・・とか。

アンサンブルのメンバーに誘ってくれた友達の旦那さんは実は有名なピアノトリオのチェリストだったのですが、私1人だけ何も知らなかったんです(笑)。

アンサンブルのブランデンブルグ協奏曲の初合わせに行ったら、「バイオリンの方も上手だけど、全然バロック分かってない、ブラームス弾くみたいにバッハを弾いてる、この人何者なんだろう?!」って思ってました(笑)。チェリストの旦那さんは、コンセンヴァトワールでモダンとバロックチェロを勉強して両方に精通している方で、一生懸命バイオリニストさんに教えてあげているんですよ。かたや奥さんの彼女はバロック専門、なのに一言も言わないので「なんでガーガー弾くあの人に、教えてあげないの?」とリハーサル後に聞いたら、「彼、誰だか知らないの?タワーレコードにCDが20枚はある人だよ」と。誰?!私だけ知らなかったの!?その人に「君のチェンバロ音が小さすぎて僕聴こえないよっ」って言われて、「すみませんけれど、あなたの音量が大きすぎて、あなたのせいでですよ」って答えてしまいました(笑)!!彼女は、あの有名なチェリストの奥さんと見られることが多く、それが嫌だったので自分からは言わないことにしてたみたいなんですね。それでも有名だから大概の方は気付くのでしょうけれど、私は外国人だし、知らないし、分からなくて(笑)



- 奥様はきっと楽しかったですよね。



植山  そうですね。相当ボケたキャラクターに思われたみたいです。それがご縁で、旦那様とも3年間一緒に弾かせて頂き、ブランデンブルグのヨーロッパツアーなどをその後ご一緒して、パリコンサートのライブ録音はクラシックのラジオ番組で放送されたりしました。私は2011年2月に本帰国した後に、そのご夫婦から6月~11月に「この日とこの日は空いている?」聞かれ、「ベートーベンとも交流のあったデュポールという作曲家の世界でまだ誰も弾いていないソナタ全集を世界で初めて録音しないか?」ということで、日本ではなかなかできない企画だったので、もう1度フランスに5カ帰りました。その間に、ゴルトベルク変奏曲を380年前のマリーアントワネットが所蔵していたというスイスの博物館にあるチェンバロで録音もしたので、3月に2枚のCDがパリと日本を含む15ヶ国で発売されます。

元を辿れば、友達からかかってきた電話1本からここまで繋がって、みんなに本当に感謝です。



- 人との繋がりが基本というか、大切なんですね。



植山  とても大事だと思います。急いで音楽家を探している場合、信頼する音楽家に電話して、「君が無理ならば、君が信頼している他の音楽家を紹介して」という運びになるので、そのコネクションの中にいるかいないかというので仕事量が変わってくるみたいですね。

努力している子は何かとコンサートやリハーサル、カフェやご飯にも顔を出し、パリの音楽家の中に浸透していましたね。留学中は学校で勉強してコンクール等で頭一杯だと思いますけれど、その土地で音楽を仕事として生きていきたいならば、言葉が話せないと勿論無理ですし、積極的に自分でこういう事をやっていきたい、アンサンブルをしたいん、こういうコンサートをしたいので場所やオーガナイズできる方を紹介して欲しいと自分ではっきり主張しなければ動いていきませんね。



- 日本人は、自主性や積極性が、ヨーロッパに比べて、大人しいとよく言われますが。



植山  自主性や積極性は大事なんですけれど、ヨーロッパの人に比べて、日本人は自己主張をするように育てられていないから…。譲り合って、相手のことを考えるのが美徳ですからね。でも、徐々に慣れていくと思いますし、はっきり自分の意見を伝えるというのは、音楽家としても必要な事だと思います。



- 今後の音楽的な夢は?



Image植山  チェンバロという楽器がまだ広く知られていないので、少しでも多くの方に知って頂けたら嬉しいです。

バッハをピアノで演奏していた時に、装飾音に悩んだり、分からない事が沢山あったのですが、ピアニストの方にもチェンバロでバッハを元々どのように弾いていたか知って頂けたら、ピアノでバッハを弾く時に良いヒントになるかと思います。パリで日本人のピアノの先生を教えていましたが、「チェンバロはこんなに新鮮なんですね」ってすごく喜んでいらっしゃいました。そういう意味で世界を広げるというか、魅力を体験してもらいたいなと思っています。



- これから留学したい海外で活躍をしたい音楽家にアドバイスありますか?



植山  日本人の真面目さ、勤勉さやテクニックでは世界で高く評価されているし、外国人の先生の間でも礼儀正しい事も含め定評があります。でも、外国には「テクニックはあまりなくても、なぜか魅力的なんだよね、あの人の演奏って…」という演奏が多いですが、そんな音楽的な魅力が日本人に加わったら良いのではないでしょうか。



- 外国人はどうしてそういう方が多いのでしょうか?



植山  私も、それはどうして?どこから?と考えてきました。

向こうの人は、真面目に練習するだけでなく、コンサートや美術館や文化的な一流のものに日常の生活で自然に接し、感性を高めていると思います。また、テクニックがなくても自分がどの様に表現したいかというイメージやアイデアがはっきりしていると、やはり音楽を通して訴える力が強くなるのではないでしょうか。

日本人の私たちは、きちんと弾くという所をまずクリアしてから表現力という感じですが、外国人は表現する為にこういうテクニック必要・・・まず表現力を重要視していると思います。

例えば、自分が今現在弾いているドビュッシーの音楽を、家に行くこともできるし、博物館にあるドビュッシーが弾いて作曲していたエラールのピアノを誰でも弾かせて貰えます。現地でしかできない経験を沢山していく事が宝だと思います。失敗を恐れないで下さい。私は数々の失敗をして学んできたタイプですが、恥ずかしいと言っている場合でなく、何でも経験して、分からなければ教えて貰えば良いと思っていつも周りに聞いてました(笑)。恥ずかしいから話かけられないとか、あの先生に観て貰いたいけれど自信がないから今度にしよう、と思っていたら外国へ行ってしまったとか、本当に目の前にあるチャンスは、自分で掴んでいく、アンテナ張っていくしかない。



- そういうチャンスに気付けることが大切ですね、ぼんやりしていたら気付けない。



植山  私も最初友達に言われたのですが、温室育ちで音楽しか知らない人生でした。でも、留学は生活半分音楽半分というのが現状で、生活が上手く回らないと音楽にも集中できなくなってしまうんですね。ビザでトラブルがあって書類が取れないとか、それだけで移民扱いされちゃいますから(笑)。外国人警察署、移民当局へ行って、半日並ばされてやっと1年分更新して。「私は犯罪者か?」って気が滅入ることもあります。それでも、自分が何をしに来たのか目的意識をはっきり持つ事は大事ですし、自分が何かピピッと感じたら迷わずに積極的に行動することが次に繋がったり、コンサートで弾いてという話に通じる場合もあります。自分の留学生活、自分の人生だから、自分のために頑張ってほしいですね。みんな笑ったり、泣いたりと色々な時期があり全て含めて、やっぱり留学して良かったと思うと思います。そんな色々な経験が知らないまに音楽に深みを与えるのではないかと思います。自分では分からない場合もありますが、ドイツへ留学したピアノの旧友の演奏を聴いてガラッと変わっていました。より深みが出て素晴らしかったです。



- やはり日本という独特の環境もありますでしょうか。



植山  日本ほど安心して住めるところではないので、最初は大変だと思います。日本より平和は国はないです!エスカレーターが話したり、トイレが話したり、あれはフランス人衝撃ですよ(笑)!まさに、至れり尽くせりの国ですから。日本でどんなにエリートでコンクール歴がある方でも、留学して「もっと自由に弾いて」と先生に言われて、自分の心を開放するということが分からなくなることがあると聞きます。みんな悩んで、どん底に落ちて、1回自分を壊して、生まれ変わると、本人は気が付かなくても、先生のおっしゃることを信じて新しい方向で音楽を見つめたら、数年後には更にスケールの大きい音楽家になっていたということもありますので、恐れないでほしいですね。みんな知らない事や知らない場所へ身を置くのに不安なのは一緒。それでも、自分を信じて進めばいつか忘れた頃に良い結果が出たり、自分で自分の成長に気が付くかもしれませんね。



- 大変貴重なお話をありがとうございます。これから留学をする皆さんも参考にしてくれると思います。



植山  チェンバロという分野が留学生の方が多くはないと思いますので、お役に立てれば嬉しいのですけれど。



- チェンバロを目指す方だけでなく、広くみなさんに興味を持っていただける面白いエピソードをいただいたと思います。本日は本当にありがとうございました!

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*お知らせ*

ラファエル・ピドウー氏(チェロ)と共演のCDが4月末に発売となります!


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コピー 葉玉洋子さん/サンタチェチリア音楽院声楽教授/イタリア・ローマ

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回、で声楽の教授としてご活躍中の葉玉洋子(ハダマヨウコ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2012年5月)
―葉玉洋子さんプロフィール―
福岡県出身、広島大学高等教育学部音楽科卒業、大阪音大専攻科終了。大阪芸術大学音楽課声楽科講師。イタリア、ローマサンタチェチリア音楽院、サンタチェチリア アカデミーで学び、ローマを中心にイタリアの重要な国立歌劇場で数多くのオペラを歌う。パルマ国立音楽院、ボローニャ国立音楽院声楽科教授を歴任後、現在ローマ・サンタチェチリア国立音楽院声楽科専任教授としてイタリアベルカント唱法、イタリア、フランスドイツオペラを教えている。 -まずは、葉玉様の簡単なご経歴を教えていただけますか。

葉玉  イタリアに35年住んでいます。福岡県の出身です。広島大学を卒業したあと、大阪音大の専攻科に行きまして、そのあと大阪芸術大学の声楽科で2年間教えました。その後ローマに留学してローマ・サンタチェチリア音楽院に入りました。在学中に国際コンクールで第1位になり、すぐにイタリアの国立歌劇場で歌い始めました。成功の一番の要因は、ペーザロで開催される非常に重要なフェスティバル、第1回ロッシーニ・オペラ・フェスティバルの主役に抜擢されたことが大きいですね。そのことが、イタリア中の新聞に書かれたところから始まりました。

-プロの歌手としてご活躍されるようになったきっかけはありますか?

葉玉  国際コンクールで1位になって声がかかるようになり、最初はロッシーニのオペラばっかり歌っていたところ、ペーザロの主役に抜擢されたわけです。その後は、イタリア中の国立オペラ座から呼ばれて、たくさんのオペラ座で歌うことができました。ヴァチカンで、ローマ法王御前演奏、ヨーロッパ青少年オーケストラと競演したり、イタリア各地を回ったりもしました。コンサート、主にオペラを歌っていました。
そのあとに、国立音楽院の声楽の教授になる国家試験を受け、通りまして、パルマ、ボローニャ、そして今はローマのサンタチェチリア音楽院声楽課選任教授として教えています。

-出身の音楽院ですね。最初のローマへの留学のきっかけはあったのでしょうか?

葉玉  友達が留学先のローマから帰ってきて、色々なローマでの音楽文化の世界を話してくれて、それを聞いたら、行きたいなあと思って。最初からローマに行きたいと思いました。

-最初に音楽の世界に入られたのはいつからでしょう?音楽に興味をもたれたきっかけはありますか?

葉玉  両親がクラシックをとても愛していまして、小さな頃から、親しんでおりました。母がピアノを、おばがバイオリンを弾いておりました。

-音楽一家だったのですね!

葉玉  そうですね。小さな頃から、色々な楽器を習いました。ピアノ、バイオリン、フルート、歌も大好きで、機会があれば色々なところで歌っていたんです。小さいときから、音楽家になることは、わたくしにとって普通のことだったわけです。

-たくさんの楽器の中から声楽をえらばれたのはなぜ?

葉玉  歌が大好きだったんですね、楽しくて。バイオリンは毎日6~7時間は勉強しないと、プロにはなれません。遊ぶ時間がなくなるので、バイオリンではプロにはなれないと思っていました。遊びたかったんですね(笑)。とにかくビバーチェ、活発な少女でした。スポーツもやりましたし、家の近くで蝶々取りや、木を登ることが大好きでした。オペラを歌うのには体の動きが重要ですので、スポーツ・体操のニュアンスも非常に大切です。日常生活での体の動きは小さなものだと思うのですが、オペラでは大きく動くことが大切です。
声楽というのは、高校に入るころ、15~16歳くらいでは、まだ早いんですよね、高校の3年生から正式に声楽の勉強を始めました。幼少時は、小さかったから声楽を勉強する歳になってなかったので、楽器を習ったということです。バイオリンやフルートは、レガートを勉強するのに非常に良かったです。イタリアでは、カンターレ・エ・レガーレ(Cantare è legare)と言うのですが、歌うのはレガートすることだ、と特に重要視します。のちに声楽を勉強しはじめたときに、感覚がもうすでに体の中に入っていたので、とても助かりました。

-昔やっていたことが全部つながって役に立っているんですね。

葉玉  呼吸法は、フルートが同じなんです。横隔膜を使う、長い、長い呼吸法ですね。色々な面で、楽器を経験していたのは有利だったと思います。

-声楽を勉強するにあたってイタリアに渡られました、イタリアのよい点は?

葉玉  イタリアは、全ての音楽の形式が生まれた国なんです、オーケストラ、シンフォニー、コンサート、様々な楽器…ここから生まれているんですね。イタリアで生活していると言葉自身が非常に歌にあった言葉だと分かりますし、歌を勉強する人は一度は勉強にいらしたほうがいいと思います。言葉そのものが音楽ですので。
弦楽器も全てここから始まっています。レガートを大切にする文化、声楽でも楽器でも音楽にはレガートがないといけませんし、楽器を弾いている先生たちもすごくレガートを大切にしますので、その勉強にはイタリアが一番だと思います。テクニックはアメリカなどが非常にありますけれども、楽器を歌わせることに関しては、イタリアが一番だと思いますね。アメリカはテクニックを非常に大切にする国ですね、イタリアでは、例えばリズムがちょっとおかしくても、(楽器が)すごく歌っていればそれを認めますので、レガートをすることが一番なんですね。とにかくまずはレガートを学ぶことが基本ですね。その上で、他の国をまわることも非常に有意義だと思います。
歌の場合は、大半のオペラはイタリア語ですので、イタリアで生活していないと、ニュアンスが出ないんです。言葉に沿って作曲家は作曲していますので。違った言語の人がオペラを歌うと、どうしても変になる。歌を勉強する方たちは一度はどうしてもイタリアで生活しないと、と思います。

-イタリアでも他の国の歌曲なども勉強されるんですよね?

葉玉  もちろん私もドイツの歌曲、フランス歌曲も教えます。こちらではフランス歌曲はとても重要視されています。でも、ドイツ歌曲ではメロディが一番大切になる。ドイツと比べますと、歌う方法が違う。ベルカントの唱法で息の上にのせる歌い方、というのがあります。呼吸、今はドイツもそれを取り入れていますが、20~30年前までは呼吸法が少し違っていました。ちょっと高い、支える場所がちょっと高くて、そのために声がちょっと硬くなるわけです。支える位置が低いほど、声が柔らかくなる。全ての共鳴腔を使いますのでね、柔らかくなるわけです。今はドイツでも、ヘルマン・プライ以降は、発声がすごく柔らかくなったと思います。

-イタリアの悪い点は何かありますか?

葉玉  イタリアの悪いところは、政治が援助をしない点ですね。私が来た当初は、オペラ座はたくさん開いていてシーズンがあったんですけれど、今は本当に少なくなりました。オーケストラの数も少なくなりました。それは本当に良くないと思います。伝統的な文化にお金をかけないのは非常に良くないですね。国にお金がなくて、政治家には賄賂の問題がすごくあります。本来ならば、文化にお金を投資すると、旅行者などによってもお金が還元されると思うのですが、目先のことにのみ気をとられているというか、長い視野に基づいたプログラムができない国民なんです。

-どこもにたりよったりのところがあると思います。古い劇場のとりこわしに対しての署名運動など、日本も同じですよ。

葉玉  本当に残念です。

-イタリアを留学先として選ぶ場合、特に声楽の場合は選ばれる方が多いと思うのですが、準備などで重要なことはありますか?

葉玉  第一番としては、語学を勉強してきてください。イタリアの歌を歌うためには非常に重要です。語学が分かっていないと、イタリアの歌にはならないので。
加えて、映画でもテレビでも良いのですが、ヨーロッパ人の体の使い方を良く観て、研究して来てください。日本人とは全く違いますね。日常生活でも大分違います。何とかして真似るようにできると、本当に役に立つと思います。日本人は動作が小さいのですね。体を大きく開けて。そして絶対にしゃがまないように。例えば、何か物を落としたときに、日本人はしゃがんで取りますよね、それはこちらではサマにならないので、絶対にやらないようにしてください(笑)。腰を下ろさないで。足を曲げても良いですけれど、いつも背筋をまっすぐにして、おしりをぐーっと下に下ろさないこと。日本から来た若い子を見ていると、何か書くときになど、すぐにしゃがんじゃうんですね(笑)。
それとやはり、体づくり。何かひとつ、体操、スポーツなどをして、横隔膜を強くしてこちらに来ると、ベルカント唱法が楽に自分のものになるはずです。

-そもそも、会話をするときの声の大きさなども違うイメージがありますが?

葉玉  イタリア人は、横隔膜を使ってしゃべりますね。イタリア語自身が顔の前面にあたるようになっているんです。ずっと共鳴腔を使いますので、それが大きな声という感じがするってことなんです。響かせるってことです。日本語の通常の感覚では、横隔膜を使わずに、喉だけで発音するようになってしまうんです。横隔膜を使って話すことがとても難しい。日本語はすべての音に母音がある点は良いのですが、普段は母音を使わない発声なんですね。「もー」と言うとき、「もおー」とお腹を使うようには言わないと思うんです。日本語とは子音も違いますし。
必要なことは、言葉の準備、体の準備―横隔膜を鍛えることですね。

-イタリアに来るにあたって、気持ちの面で覚悟してきたほうが良いことはありますか?

葉玉  日本人は、正直さに慣れているんです。イタリア人は正直ではありません、ウソはあたりまえ、悪いことだとは思っていないんです(笑)。その点に本当に気をつけていただかないと、国民性が違いますのでね。日本人は正直でまじめでしょう?イタリアはそうじゃないんです(笑)、反対なんです(笑)。それを頭の中に入れて来てください、それでも皆だまされています、まあ些細なことですが、平気でだますのでね(笑)。たとえば、何か小さいものをお買い物に行きますでしょう、イタリア人は、おつりを少し少なく渡してきます、お勘定を確認するとおつりが足りない、それを言うと、おー間違えてしまいました~すみません、と当たり前のように言います(笑)。気がつかなければそのままですね。だから、ちょっと疲れますね(笑)。

-なるほど(笑)。イタリアでお仕事をされていますが、働くにあたって日本人が有利な点・不利な点はありますか?

葉玉  歌手の場合は、日本人はマダムバタフライ・蝶々夫人を必ず自分のレパートリーとしてください。日本人じゃないと歌えないので、非常に有利です。必ず日本人を見ると、マダムバタフライが歌えるか?と訊かれます。プロの歌手として成功するには、体の動きをヨーロッパ人のようにできるようにならないと貧弱に見えます、動きを大きくしないといけません。カリスマ性、人の目をずっと自分に惹きつけておく力、それは生まれつきが多いので、教えようと思ってもなかなか難しいものですが、元々その力がある方は表現の方面にはお勧めですね。

-カリスマ性というのは、後天的にも培うことができるものでしょうか?

葉玉  そうですね。育った環境も影響しますね。たとえば、学生の中でもひとりだけ何か違って目がいってしまう、事務所の中のある一人の人にどうしても目がいってしまう、ついその人を見てしまう、などの例があると思うのですが、生まれつきそういったカリスマ性を備えている方がいます。生まれつきではなくても、環境の影響や、本当にひとつの勉強に集中、それだけを愛して勉強しているとカリスマ性が出てきます。突然変わっていく歌手も沢山見てきました。常に、前進しよう、良くなろう良くなろう、と思っているとカリスマ性が出ますね、自信も必要ですね、最初はなかったけれど、だんだん自信がついてくると、カリスマ性が大きくなります。その点は人種や出身は関係ないですね。
あらゆる場所で、日本人でプロとして働いている人たちの真面目さ、正確さは、素晴らしいと思います。日本人は国民性が素晴らしい(イタリア語で●)と言います、まじめで正直で、評価されますね。イタリア人も真面目で正直であることは良いことだと思っているんですよ(笑)、でもイタリア人はちょっとごまかせるチャンスがあると、すぐやっちゃうわけです(笑)。日本人のような性質は素晴らしいと思うけれども、そうはできないと(笑)。各ジャンルで働いて成功している日本人の方は非常に尊敬されているんです。イタリア人も、どの点が素晴らしいのか分かっているはずなんですね。

-日本人がステージに立つ上で、何か不利な点はありますか?

葉玉  動きが小さいこと。そして、言葉が伝わらない限りは、どうしても舞台で歌っても伝わらず、観衆は受けてくれないんです。聴いていて言葉の意味が判らないと、表現として伝わらない。

-先生として活躍されるにあたっては、日本人であることはどのように影響していますか?

葉玉  イタリアの国立音楽院における、日本人の声楽の選任教授はわたくしだけです。声楽は言葉が土台になっているでしょう?イタリア人の歌手たちは、声楽は自分たちにしか理解できないという、自負があります。日本人が、どうしてベルカントを教えるのか?という壁は非常に大きかったです。他の人より10倍くらいは勉強しないといけなかったですね。言葉のニュアンスなど全てが分かっていないとオペラを歌えないのにという考え、それそのものは正しいと思うのですけれど、外国人がどうしてイタリア人に教えるのか、と。その壁を乗り越えるまでに非常に色々な障害がありました。大半の生徒さんはイタリア人なので、最初にわたくしと接触する際には、日本人がどうやって教えるのか?という訝しげな態度であることも多いのですが、教えていくうちに、私の中にどれだけの豊かなものがあるのか、ということが分かってくる、そうすると今度は反って、葉玉先生じゃないといやだと言ってくれるようになります。どうして?と最初は言われますね。

-でも教授しているうちに信頼を寄せられるのは素敵ですね!入学時から葉玉先生をご指名される生徒さんもいらっしゃると伺っています。

葉玉  留学してくるときから、わたくしをご指名される方もいらっしゃいますよね。大学院では教授を選ぶことができるんです。たくさんのイタリア人の生徒さんがわたくしを選択してくれます。それは本当に嬉しいです。やった!という感じです(笑)。クラスは全部で15人くらいですが、日本人の生徒さんも3人います。イタリア、ルーマニア、フィンランド、ブラジル、中国、アルジェンチンなど世界中から生徒さんが集まります。男性のほうが少ないですね、歌を歌う人口が女性のほうが多いですからね。最後におこなったサマースクールでは、12カ国から来ていました。それぞれに国家を歌ってもらって(笑)。のちに全員、勉強させて、サンタチェチリア音楽院入学させました。大変国際色豊かです。学ぶ分野としては、サンタチェチリア音楽院ではオペラと歌曲、ドイツ歌曲、フランス歌曲、それが主ですね。

-日本人として不利な点は、自ら克服されたということですね。

葉玉  そうであることを祈っています(笑)。そうはいっても、やはり今でも日本人の癖は出ますし、舞台の上ではやらないように気をつけていますがね、日常生活では日本人だと思います。体の動きなどはもう克服していると思うのですが、メンタリティが。

-まじめで正直なところをキープされているんですね(笑)、それはもう鬼に金棒ですね!先生にとって声楽・歌はどんなものでしょうか?

葉玉  そうですね、声楽を深く勉強したことによって、他の分野にも視野が拡がりました。文学、科学そういったものでも本当に分かるというか、理解できるようになると思います。ひとつのジャンルですごく深く勉強すると、他のジャンルのこともだんだん分かってくると思います。最初は音楽だけで、他のことには興味がなかったんですが、今は全て、歴史、科学など、知りたいと自然に思いますし、解剖学などは非常に勉強しました。様々なジャンルについて分かってきたようなかんじがします。

-深く、そして広くなっていくということですね。

葉玉  深くだけやっていたつもりでも、いつのまにか拡がっていて。わたしにとってはそうですね。それぞれの人によっても違うとも思いますが、声楽が全部の根源になっているということですね。

-これからの音楽的な夢などございましたら教えていただけますか?

葉玉  大きなおおきな夢があります(笑)!イタリアの各地に非常に綺麗なオペラ劇場があるのですが、かなりの数が閉まっているわけですね。1700年代、1800年代に作られた美しい劇場、大中小たくさんありますので、その中の1つを使ってオペラシーズンをやりたいんです。使わないのはもったいないです!1つの劇場を開けて、わたくしのオペラシーズンを行いたいなあ、というのがわたくしの夢です。そして、そこで毎年、新人の歌手がデビューできるようになる…大きな夢ですね。実は既にスポンサーを探したのですけれど、現在は経済危機がひどく、皆さんお金がないんです(笑)。タイミングを待っているかんじですね。

-生徒さんがデビューして、活躍して…

葉玉  大勢の様々な評論家やマネージャー、エージェントを招待して、たくさんの歌声を聴いていただいて、その中の誰かを世界中にデビューさせたいという夢ですね。
わたくし自身は、舞台からは引退しています。
わたくしは、教えることと歌手であることは両立できません。歌手は自分のことだけ考えないといけないので。歌手活動と教授活動を同時におこなった時期が最初の1年か2年あるのですが、そこでできないとわかりました。
歌手として、どういうことに気をつけるか、どういう表現をするか、どういうことを観客に提示できるか、それを勉強するには24時間でも少なすぎるぐらいなのです、自分のことだけを大切にしないと成り立ちません。
でもその状態では、生徒に何かをあげるという姿勢が全く生まれない。それだとお給料を貰うためだけに教えに行っているという感じです。教師というのは、自分の経験、持っているものを全てあげるんです。ですので、わたくしは完全に止めました、歌うのを。自分の持っている経験・豊かになったものをあげる、全てをあげないと良い教師ではないわけです。
私にとっては全く両立できることではないですね。勉強は常にしています、新しい曲にあたったりすると勉強しますが、あくまでも生徒にあげるためにです。わたくし自身が舞台で歌うためではありません。
今現在、生徒さんがいっぱいついてきて下さっている。先生のように、たくさんのものを、経験をあげたい、全部をあげたい、という先生には今まで会ったことがないと言われます。全てを、自分の持っているものを全て生徒にあげたいです。

-生徒さんにとっては非常に貴重な存在ですね!色々なところで、先生と歌手と両立されている方をお見かけいたしますので、それはスタンダードなことかと思っていたのですが、先生のお話を伺って、目からウロコでした。

葉玉  わたくしにとっては、ふたつを両立できる方は不思議ですね。完全に仕事の性格が違いますのでね。
先生として、シーズンを行うことが夢ですね、大きな夢です(笑)。もし実現できたらご招待いたします!

-ありがとうございます!イタリアで教師として活躍する秘訣というのはありますか?

葉玉  語学が完全に自分のものになっていること。そうでなければ、生徒たちと交流できませんのでね。そして、ヨーロッパ人の10倍くらいの豊かさを持っていないとたちうちできません。彼らは文化の素養を自然に体の中に持っているのでね、私たちにとって、それは外から入ってきたものですからね、やはり勉強はいつもしていないとだめだと思います。勉強とは、文化を感じることを含めてですね。たくさんの展覧会に行くことや、演劇を観に行ったりすることは、大切な勉強ですね。歴史を調べたり、解剖学などを学んだりする家の中で行なう勉強もさることながら、ファッションの歴史的な違いを観に博物館に出かけることなども全て勉強の中に入っています。日常生活全てですね。
常に生徒に何を教えようかと考えています(笑)。日本の文化では、特に哲学、禅や柔道・剣道は、集中力を育てるのに大変助けになります。わたくしはイタリアに来てから始めたのですが、日本には集中力を強くするための色々な哲学、体系がありますね。

-イタリアに限らず、海外に出て勉強しようと思っている人達にアドバイスがありましたら、ぜひお願いいたします。

葉玉  第一番に留学先の語学を勉強すること、そして良い先生をみつけること。先生の選び方を間違うと成長しないんです。

-先生の選び方というのはどのようなものがありますか?

葉玉  歌の場合は、50分や1時間のワンレッスンのあと、喉が疲れていないかどうかで分かります。喉が疲れない、体の気持ちがいい、それは良い先生です。悪い先生ですと、1時間歌わせると、声が出なくなったり、喉が痛くなったり、体が疲れちゃったり。それは、テクニックの問題、発声法の問題ですね。それは人によって違うということはありません。息を吸って吐く、それが正しく行なわれていれば絶対に疲れません。それと、もうひとつ、どこに行っても、必ず国立の音楽院に入るようにしてください。競争者が沢山いる、人に会う機会がたくさんある、歌だけでなく器楽もある、音楽史、音楽学も勉強しなければならない、色々な刺激が受けられますでしょう、人間が豊かになるんです。国立の学校ですと、教授陣が非常に良く吟味されている、長いキャリアを持って教えていらっしゃる先生が大半ですのでね、やはりレベルが高いと思うんです。それと、もし留学したいという希望があるならば、なるべく早く出発して下さい。若いほど筋肉も、頭も柔らかいのでたくさんの吸収力があります。できるだけ早いほうがいいですね。どうしても大学を終えてから、という場合では、22歳ではぎりぎりですのでね、大急ぎでいらしてください。

-年齢におけるハンディはありますか?

葉玉  もし、上手になれたとして、良いマネージャーについてもらうには、若いほうが有利ということはあります。やはり、年齢によって、例えば30歳だと歌手でお金を儲けることができる時間が少ししかない、とマネージャーが判断するかもしれない、常にマネーの問題はついてきますからね(笑)。若いとそれだけ活動期間が長いですからね、マネージャーはより若いかたをみつけようとするのは現実的です。

-なるほど(笑)。ローマという街は日本人の学生は多いですか?

葉玉  ミラノのほうが多いですね、ミラノはローマの約5倍くらいいるのではないのでしょうか?ですがベルディ国立音楽院は入るのが大変難しい。ローマサンタチェチェリア音楽院も入学試験が難しいですので学生の大半は個人レッスンだけで過ごしていると思いますが、もったいないですね。

-ビザの関係からだと、個人レッスンだけでは非常に厳しいですよね。

葉玉  その通りです。やはりできれば私立の音楽院に入って、ビザを貰って…ということですね。できることならば、国立に入って簡単にビザを貰うほうがいいですが、入学試験を受けることができるレベルになるには、準備として最低5ヶ月くらいはかかります。語学の試験もありますのでね、試験の前に現地に来て、入りたい音楽院のレベルまで何とかして届くように上げて、なんとか入学にこぎつける、そのためにはやはり事前に5ヶ月は必要です。どこの国に行っても同様に大変だと思います。

-先生は留学先を決めるにあたって、イタリア・ローマだけがみえていたのですよね。

葉玉  そうですね。イタリアオペラを聴いていると気持ちが良くて、オペラを歌いたいと思っていましたので(笑)。ミラノは気候が悪くて…寒いのと湿気が多いのと、空気が悪いんです(笑)。ローマは交通量も多いのですが、海の近くなので、空気をふぁーっと、海風が綺麗にしてくれるんですね、日光もたくさん差しますし(笑)。ミラノの音楽院もすごく良いですが。

-大変楽しくお話を伺わせていただきました。本日はお忙しいところ本当にありがとうございました!

中嶋彰子さん/声楽/オーストリア・ウィーン

中嶋彰子さん 15歳でオーストラリアに渡り、シドニーで音楽教育を受ける。1990年の全豪オペラ・コンクール優勝を機に、シドニーとメルボルンのオペラハウスにてデビュー。1999年、ウィーン・フォルクスオーパーと専属歌手契約を結び、その卓越した歌唱力と演技力、華やかな存在感で圧倒的な人気を獲得。一躍劇場のトップスターに。イタリア・ベルカント・オペラからモーツァルト、シュトラウス、ヴェルディ、そしてフィリップ・グラスなどの現代作品まで、幅広いレパートリーも魅力のひとつ。

 

- まずは簡単な経歴から教えて下さい。
中嶋 北海道で生まれて10歳までは釧路市で育ちました。工学博士の父の仕事の関係でその後は東京、15歳からはオーストラリアのシドニーへ移住しました。音楽好きの父の影響で、小さい頃から音楽がそばにありましたね。シドニー音楽大学在学中に、専門の指導者のもとで声楽の個別レッスンを3年間受けました。1990年、日本人では初めてなのですが、全豪オペラコンクールに優勝したのです。その時の副賞としてヨーロッパに行くチャンスがあったのですが、オペラハウスにデビューをしたので1年間オーストラリアで活動していました。その後、イギリスのアカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックからお仕事が入り、シドニーオペラハウスに2カ月の休暇を頂いてロンドンへ渡りました。もちろん、ロンドンでもじっとしていられなくて、コンクールやオーディションを積極的に受けて回りました。
- 直接ウィーンではなくロンドンだったのですね。
中嶋 はい。まずはロンドン、そしてオランダへ行って国際コンクールにも出場しました。ヨーロッパでのレベルがどのくらいなのか、力試しで受けてみたのです。
- その時の結果はいかがでしたか?
中嶋 3位入賞でした。お陰でいろいろな先生からお声を掛けて頂いたり有益な情報を教えて下さって、次はイタリアに行こうと思ったのです。それで、イタリアでは自分で直接劇場に行ったり、電話をしてオーディションをしていないか問い合わせしました。
- それは、飛び込み訪問のような感じですか?
中嶋 はい、随分と驚かれました。普通はエージェントがいて交渉事をするのですが、私の場合は新人で誰も助けはいませんでしたから、この際試してみようと思い、勇気を出して「オーストラリアからきた26歳の日本人です。エージェントはいません」という感じで、直接交渉でした。
- すごい! 積極的ですね。
中嶋 そうなのです。色々ありましたが、4,5軒の劇場でチャンスが到来しまして、気づいたらオーストリアで2件イタリアで3件仕事が入ってきました。突然転がって来た仕事もありました。インスブルックのバロック音楽祭に関わっているイギリス人の指揮者は「声楽家を育てる」ということを、オランダのコンクールで教えてもらい、レッスンしてもらいたく電話帳で相手を探してアポイントを取り伺いました。するとレッスン中に先生が主役の方が降板するお話をし始め、私に主役として参加する気はないか?と話が転換しました。音楽祭の芸術監督兼指揮者だった事も知らずにレッスンしてもらっていた私は腰が抜ける思いでしたが、毎日コーチをしてくれるなら頑張ると約束し、ヘンデルのオペラ「アルチーナ」のタイトルロールを2週間で暗譜し、舞台に立ちました。とても大変でしたが、何も知らない=恐れ知らず、みたいな、今思えば貴重ないい経験でした。(笑)
- 何だかとてもドラマティックで、オーストラリアを出て2年の間にすごい展開のお話ですね。
中嶋 今思うと、そうですね。2か月の予定がロンドン、ナポリ、インスブルックとあっという間に数年がたった感じです。ヨーロッパへ拠点を移すきっかけとなったのが、インスブルックの小さな劇場での専属契約のお話だったのですが、正直いって迷いました。シドニーオペラハウスは国際歌劇場で、ステータス的にははるかに上でしたから。
- 決心された理由はなんでしたか?
中嶋 実は名の知れない小さな地方歌劇場に専属歌手になるなんて!と誰もが反対しました。でも私はオーストラリアで音楽の教育を受けた日本人・・・語学的にも文化的にも私はまだまだ勉強不足だと知っていました。オーストラリアでは将来を約束される大役が待っていて、キャリア的にはそれを捨てるなど、とんでもない事だとは分かっていましたが、若い今を使わなければ、本物にはなれないと直感したんです。初めて来たヨーロッパで、こんなにたくさんお仕事のチャンスを与えられたのは、きっと運命だろうとも思いました。オペラを生んだヨーロッパをもっと知ってみたい、オペラで歌う語学をしゃべりたい。この土地に腰を据えて生活し、人々と語り合い、本当の文化人になりたいと思ったのが理由です。
- オーストラリアへは、ぜんぜん戻られなかったのですか?
中嶋 全然戻っていないですね。1996年に一度だけバズ・ラーマンの「ラ・ボエム」のムゼッタ役のため出演しました。
- 流れがとても急なのですが、そのような中で特に気を付けていた事はありますか?
中嶋 国際的な仕事場は甘くありません。実際は戦場の様なものです。甘く見ていると直ぐに隣や後ろに構えている歌手に自分のポジションを狙われます。そんな中、身体の大きな欧米人とどう渡り合っていくか、そして自分なりに、かつ社交的に、しかし無理をして体調を壊さず毎日の仕事をこなして行くかなど、気を使う事はたくさんです。健康が第一でした。休む時は休み、仕事は精一杯楽しくするよう心がけていました。
- その戦い方は、ご自身で試行錯誤のような感じですか?
中嶋 そうですね。私が進んだ道には目印が無かったですから。シドニーに移った15歳の頃から、どうすれば国際社会で溶け込んでいけるのかというのは大きな課題でした。学校内でもイジメはありましたし、揉まれ方が全然違います。頑張りすぎて失敗する事もよくありました。
- 日本と海外との違いはどのようにお感じなりましたか?
中嶋 過去に強く感じた時は、例えばオランダのコンクールの最終日です。私は母国語と英語ができるので国際的な場面でも上手くやっていけると浅く思っていました。ところがそこにいたロシア人、スウェーデン人、トルコ人、メキシコ人などは母国語、英語はもちろん、優れた語学力で何カ国語も交わし、社交的な最終日の場所では冗談を言ったり、社会問題を口論し合ったりと上手に対応できる芸術家のひよこ兼社会人達でした。それに比べ、内気な日本人は日本人同士で固まるか、冗談などはもちろん飛びませんし、情報交換など国際人としての自覚が薄いので上手くできず、せっかくの交際のチャンスを失ってしまいがちでしたね。教科書で勉強する語学とコミュニケーションをしたくて伸びる生きた語学力の違いでしょうか、大きな違いを感じましたね。プロの歌手も割合的に海外に日本人が少ないのも才能というより、そう言った所にも問題があるのではないかと私は思います。
- 20年のキャリアからなる言葉ですね。
中嶋 やるべき事は技術だけではなく、芸術家としての姿勢がどうであるかということで自分らしさを素直に表現するに尽きると思っています。そこで自身が持て、道が開くのではないでしょうか。
- 芸術家としての姿勢を教えることは、難しく感じますが。
中嶋 いえ、実はそんなに難しくないのですよ。先を見ている人がほとんどですから。どこの国の方でも、海外で頑張って勉強をするとなると、相当な覚悟していらっしゃいます。正しい鍵があればドアは簡単に開くといった感じかしら。また教える立場としては、天性的に優れた歌手からいい生徒は生まれないといわれますし、苦労をしている声楽家の方がいい先生になれるとも言われます。
- 教える方も大変ですね。
中嶋 声楽の場合は、身体が楽器ですから、その人それぞれに合った技術を考えるのが大切な事ですね。新しい技術を取り入れることでも今迄のものが崩れたりします。例えば、ドラマチックな歌手がレッジェーロな歌手に私のやる通り歌いなさいといってもそれは無理です。理想は悪い癖や、恐怖感などをほぐし、自然体に戻してあげる事だと私は考えます。歌手の勉強は語学、発声、発音、反響盤である体の仕組みの理解など教えることは欠かせませんが、それだけではなく時代や地位の違う役柄の理解、哲学的な事にも触れて教えます。
- 努力がまったく違うのですね。
中嶋 そうですね。ただこちらのシステムもいいと思いますよ。音大に行かなくても、本当に習いたい先生に習うシステムはいい事だと思います。わたしも経験者です。
- 中嶋先生には、春にもウィーンの講習会でお世話になる予定です。ところで、音楽はお父様の影響だとお聞きしましたが、声楽を選ばれた理由はなんでしょうか?
中嶋 歌好きは父譲りなのかもしれません。まだ北海道にいた幼い頃に、よく大自然の中で自作の歌を口ずさんでいました。具体的には中学2年生の頃に、全校生徒の前でシューベルトを歌う機会があって、その時に声楽に目覚めたのだと思います。ただ、オペラはうんざりというか好きではなかったですね。
- まさかこんな展開になるとは、ですね。
中嶋 そうですね、いいオペラに出くわしたというのか、自分が知っているものとは全然違っていたので衝撃を受けました。それからです、もっと知りたいと。
- ウィーンで声楽家として活動されていていい点と悪い点はありますか?
中嶋 いい点はウィーンには常に音楽があり、声楽家である事は市民に尊敬され、大切にされる事です。劇場に通うお客様は毎日のようにいらっしゃるので「今日は昨日とくらべて」なんてお客様同士で情報交換されるので、毎日がチャレンジであることは歌う方も刺激になり良い事だと思います。悪い点というのか、時折演技者の方でアドリブが入ることがあるのですが、私は対応が出来ないのでやめて下さいとお願いしています。もちろん、プロですから台本通りには舞台の上では進めるわけですが、たとえば日本人だから訛りがあるなんて許されることではありませんので、しっかりとコーチングを個別でレッスン料を支払って受けます。
- たいへんですね。
中嶋 舞台裏はそのようなものですね。言い訳は一切ダメです。
- 日本人として有利だったことはありますか?
中嶋 ないです。まず舞台に立つ時、私が日本人であるといった意識が特にないというのもありますが。日本人観光客の方たちが来られて、応援して下さるなど嬉しい事もありますが、日本人だからと特別扱いは一切ありません。
- ウィーンで成功を勝ち取られた理由はなんでしょうか?
中嶋 毎日の地道な努力や研究に尽きますね。また、そう言った勉強を楽しんでいます。興味があるから続けられる、やりたいことをやれる幸せなことだと感じています。ここウィーンは音楽好きがたくさんいます。皆さん親しみをこめて声を掛けて頂いたり、アドバイスを頂いたり幸せな環境です。
- 好きだから続けられる、ということですね。
中嶋 もちろん、そうですね。
- 逆に好きでもできないことはありますか?
中嶋 人との関係です。たとえば演出家であったり、パートナーであったり、合わないと感じることもあります。あとは、体調を崩した時ですね。もちろんプロですから、仕事として責任感があるわけです。ましてソリストはピラミッドでいうと頂点の存在です。選ばれた人として、責任を果たさなくてはなりません。なので、役は好きでも指揮者や演出家との絡みの問題で満足な仕事ができないと思った時はきちんと断ります。そしてムリをしないことです。ムリをすると体調を崩し結局は他人に迷惑を掛けます。皆さまに満足をして頂くためにも、この2点は必ず守っています。舞台人は常に心身共にベストを尽くすよう心掛けるのが大切です。
- なかなか難しい境地だと思いますが。
中嶋 よく仲間と話をしますが、音楽家と芸術家の違いはなんだろうと。ただ音を出すだけではなく、表現をしなくてはだめだと思うのです。限られた音符でいかに表現するか、楽譜では表現しきれない音をどう伝えていくのか、です。
- とても深い内容ですね。やはりそれは海外での音楽活動から得られた境地ですか?
中嶋 大きな劇場では同じ出し物を何年も繰り返し上演します。よって同じ役をたくさんの歌手が歌います。自分なりの音楽が無ければ仕事は回って来ません。劇場に選んでもらえる歌手になるには、勉強は机の上だけではない分けです。ですから海外留学の場合は特にその国にしっかりと浸っていろいろなものをみて吸収してほしいですね。旅行者の視点ではなく生活者として経験する事は貴重な経験になると思いますです。おしゃべりしたり、考え方の違いを発見したり。国によって音色も違うのですよ。何にインスピレーションを受けたか考えたりしましょう。すると音楽を深く理解できます。
- ウィーンで日本人の学生をみて、もったいないと感じることはありますか?
中嶋 日本人同士でかたまってしまう傾向があることですね。現地の友人をたくさん作ればいいと思います。たとえばペンフレンドでもいいのです。細く長く付き合えるような。その思い出は必ず自分に何かを残していきます。
- ウィーンを楽しむ何か秘訣のようなものはありますか?
中嶋 自分でウィーンを探すことです。ガイドブックに頼らないで、自分しか知らないウィーンを見つけて下さい。自分で探せるところがたくさんあるのですよ。私も日本に行った時は、自分の足で日本を探します。
- 自分で体験する大切さですね。
中嶋 好奇心は大切です。
- これからの音楽的なビジョンをお聞かせ下さい。
中嶋 私今40代後半なのですが、50代の声楽家は何をすべきなのか、を考えています。役柄もどんどん新しい役をレパートリーに入れていますが、最高の演出家とオペラの大役を徹底的にこなしたいです。それとは別に、これからは制作や演出も手掛けていきたいなと思っています。
- クリエイティブの血がさわぐ…という感じですね。
中嶋 今年は演出作品が2本あります。その1つは、シェーンベルグの「月に憑かれたピエロ」とお能を混合した舞台作を12月に予定しています。この夏には、群馬国際アカデミーで600人ほどの子どもたちの詩や作文を素材に脚本とした音楽劇を公演したのですが、とてもいい経験になりました。
- すごいですね。そのきっかけはなんでしょうか?
中嶋 昨年3月の震災以降、しょんぼりというか元気のない前向きになれない日本の様子にジレンマを感じてしまい、今後のために何かしなくてはと思ったのです。そして日本人は元気だよと、世界にアピールしたかったのです。
- 大がかりですね。いかがでしたか?
中嶋 子どもたちと一緒に汗をかいて何かをやり遂げたという大きな達成感はすばらしいものでした。ワークショップも大成功で、DVDの発売やテレビでも10月に放映される予定です。
- これからも何か企画はお考えですか?
中嶋 音楽の力をベースとして、根本的な何かを伝えていく、歌ってよかった聴いて良かった、と観客の皆さんと感動を共にできるような企画をしていきたいですね。また、技術ばかりではなく、また技術があるからこそ聴かせられる音声表現、そして自分の持っているものや持っていないものを全てさらけ出せる、勇気を持って自分を表現出来る、そんな素晴らしい音楽家を育ててみたいと思います。
- 中嶋さんにとって一言でいうと音楽とはなんでしょうか?
中嶋 哲学的なのですが、音楽とはスピリチュアルな「生きる」という意味を感じさせられるものだと思います。生きている瞬間を感じさせるというのか考えさせる力が、音楽にはあると信じています。それは神への感謝に近いものかもしれません。私は北海道という大自然の中で育ったのですが、寒い時に太陽の暖かさに感謝するような、あるいは孤独さ、切なさ、生きているから感じる思いが音楽に存在する、そんな感覚です。それは理屈ではなく生きているものには必要な何かだと思うのです。
- そこには何か答えがあるのでしょうか?
中嶋 いえ、ないと思います。感じる者それぞれが個人であるから。だから、私は壁のない音楽家になりたいと思っています。壁がなければ、音楽家の魂がふっと出ていくことが出来ます。また、そんなことが出来る技術を磨いていきたいし勉強をしていきたいですね芸術を文章にすることはとても難しいのですが…。
- むずかしいですね。では最後に、海外で勉強をしたい若い生徒さんへ何かアドバイスをお願いします。
中嶋 海外に出てみることは、絶対大切なことです。視野も広がりますから。またその経験によって見えることもありますし、日本の良さも感じるでしょう。そして海外へでたら他人を頼らないで自分で頑張ってみる、自分で道を開いていくことを心掛けて欲しいです。どうぞ、羽を拡げて外へ出てみて下さい。
- ありがとうございました。

 

 

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