高林将太さん/ジャズドラム/バークリー音楽大学ゲイリー・チェイフィー元教授・アンドビジョン特別プログラム/アメリカ・ボストン
音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、夏期講習会、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。
高林将太さんプロフィール
高校時代に、軽音楽部でドラムを始める。大阪音楽大学短期大学部ポピュラーコースでドラム・パーカッションを学ぶ。卒業後同大学専攻科器楽専攻ジャズに進学。卒業後は関西を中心にアーティストのサポートドラマーやドラム講師として音楽活動中。ボストンでゲイリー・チェイフィー先生のドラムレッスンを受講。 ローランド京都センターVドラム講師(京都)、田代音楽教室ドラム講師(奈良)。
— はじめに略歴を教えてください。ドラムはいつ始められたんですか?
高林 高校のときに軽音楽部だったんですが、そこでドラムがいなくて、じゃあ、僕が(笑)とドラムを始めました。高校卒業後、大阪音楽大学短期大学部に入学し、真剣に取り組むようになりました。
— 現在は何をされているんですか?
高林 大学卒業後、ドラム講師をしながら音楽活動をしています。
— 今回、留学されたきっかけを教えてください。
高林 高校のときに音楽の指導をして頂いた先生に相談をしたら、その先生も留学をした経験があって「一度見てきたらいいよ」とアドバイスをしてくださったんです。それから、両親も賛成してくれました。
— みなさんの後押しがあって留学をされたんですね。
高林 そうですね。
— 今回の留学でゲイリー・チェイフィー先生のレッスンを受講されましたが、先生はどのように選びましたか?
高林 ゲイリー先生は日本でも有名なドラマーで、先生の教則本は日本でも発売されている有名な本です。その本を書いている方っていうのが決め手でした。それから友人がボストンに住んでいることもあって決めました。
— ドラムを始めたときからその教則本を使っていたんですか?
高林 いえ。キャバレーの仕事に行ったときに先輩のドラマーの方にお勧めされたんです。
— 先生のレッスンの雰囲気はいかがでしたか?
高林 とても真剣にレッスンしてくださいました。
— 先生の叩くドラムは何か特別なものがありましたか?
高林 ええ、それはもう!
— レッスンではどのようなことを習ったのですか?
高林 先生の教則本を具体的に詳しく指導していただきました。
— レッスン中は教則本に沿って技術を教えてもらったのですか?
高林 はい、そうですね。
— 本に沿ってということですが、何か曲を使ってということはなかったんですか?
高林 「これはこういう曲で使うと良い」と曲を紹介してくれました。
— レッスンの場所はどういうところでしたか?
高林 先生のご自宅でした。
— やはりアメリカのプロミュージシャンのお宅といった雰囲気でしたか?
高林 そうですね。レッスンをしたのはお家の地下室でした。部屋には先生と世界中の一流ドラマーの人達との写真が貼ってあって感動しました。
— レッスンのときは通訳の方をお願いしたんですよね?
高林 はい、お願いしました。通訳の方も現地でミュージシャンをしている方だったのが良かったです。通訳の方と現地のライブハウスに出演するミュージシャンの情報など音楽の話をすることもできました。
— 先生とはレッスン以外で何か話されましたか?
高林 はい。日本以外からもレッスンを受けに来る方がいる事や先生が参加しているCDでお勧めのCDなど教えて頂きました。帰るときに先生にサイン入りのスティックをもらいました。嬉しかったです。
— 宝物ですね。
高林 はい。もったいなくて使えません(笑)。
— レッスンを受けて何か変わったことはありますか?
高林 はい。レッスンを受ける前から先生のプレイは知っていたのですが、すごく難しいと思っていたことが、「あぁ、あれはこうやっていたんだ」と理解することができました。難しそうに見えていたことが、実は教わったことを少し応用していただけ、ということをレッスンを通じて学べました。
— 細かいやり方を教えてくださったんですか?
高林 そうですね。
— 留学中はどちらで練習されていたんですか?
高林 ボストン市内です。
— 都市部ですか?
高林 いえ。「静かな場所だったので、こんなところにスタジオがあるんだ!」というようなところでした。スタジオに置いてある楽器がいい楽器で、休憩するところもとてもキレイで日本のスタジオよりもいい環境でした。それから、オーナーの方が日本語を話せる方だったのも良かったです。帰りにはスタジオのTシャツをいただきました。
— いろいろもらったんですね。
高林 はい(笑)。
— 向こうでレッスン以外の時間は何をされていたんですか?
高林 友人が通っている音楽大学を見学したり、ライブを見に行っていました。買い物も行きました。CDをたくさん買いました。先生のCDも買いました。
— あちらでしか手に入れられないような貴重なものもあったんですか?
高林 ええ、そうですね。
— 見学されたお友達の学校はどちらなんですか?
高林 バークリー音楽大学です。
— 見学されてみていかがでしたか?
高林 ドラムは生徒用の大きなロッカーがあって、ドラムの学生はそこから自分の楽器を持ち出して練習しているのを見て、さすが! と驚きました。
— 他には何か見学されましたか?
高林 学生のライブを観に行きました。
— 向こうで他にライブを観に行きましたか?
高林 はい。ボストンに住んでいる友人のライブを観に行きました。楽しかったです。僕と同世代の人たちでした。
— 留学中、何か思い出に残ることはありましたか?
高林 ストリートミュージシャンです。バケツをいっぱい並べてドラムスティックで超高速で叩いていました。他には通りすがりにドーナツをもらいました。レッスンに行く途中にバスを待っていたら話しかけられたんです(笑)。僕は英語を話せないので“ I can't speak English. ”って言ったらドーナツをくれたんです。
— ええーっ! なんだか聞いていると危険な印象を受けるんですが、こわい感じはなかったんですか?
高林 いえ、全然(笑)。留学する前にアメリカはこわいとか危ないという話を聞いていたんですが、留学中、危険だと感じたことは一度もなかったです。
— スリなどの被害に遭うこともありませんでしたか?
高林 大丈夫でした。危ないと感じることもなかったですね。いい人ばかりでした。一度迷子になってしまったんですが、年配の女性の方が目的地まで一緒に連れて行ってくれました。それ以外でも、困っているといろんな人が声をかけてくれて助けてくれました。
— 宿泊先からレッスンの場所まではどのように行かれたんですか?
高林 地下鉄とバスで通いました。
— 交通機関で日本との違いは感じましたか?
高林 乗車賃の仕組みと切符の買い方が違いました。僕が使っていた地下鉄はどこにいっても2ドルで、毎回切符を買うのではなくてカードにチャージして使っていく形でした。
— カードはどこで購入できるんですか?
高林 地下鉄の改札で購入できます。最初に買うときに少し戸惑いましたが、英語が話せなくても大丈夫だったので、困ることはないと思います。
— バス停もわかりやすいですか?
高林 はい。大きく“T”書いた看板がありました。
— 向こうで何か出会いはありましたか?
高林 友人に紹介してもらったナイジェリアの方にパーカッションを教えてもらいました。帰国した後もメールで連絡し合える友達になりました。ドラムショップの店員さんとも仲良くなって、連絡先を交換しました。
— きさくな方が多いですね
高林 そうですね。
— 海外の方とうまく付き合うコツはありますか?
高林 はっきりと意思を示すことだと思います。わからないならわからない、こうしたいならこうしたい、イヤならイヤとはっきり言うことが大事だと思いました。
— 海外の方と接していて何か困ったことはありますか?
高林 英語が使えた方がよかったですね。
— 英語の勉強はされて行かれたんですか?
高林 いえ、英単語が載っている本に目を通した程度です。その本は向こうにも持って行きましたが、とても役に立ちました。
— 他に何か持って行って役に立ったものはありますか?
高林 スリッパです(笑)。飛行機が長いのでスリッパだと楽でした。
— 留学してよかったことはありますか?
高林 レッスンを受けている間、受けた直後、その後の練習で自分の成長を感じました。今後どう練習していけばいいのか見えてきました。ゲイリー先生にはヨーロッパからも習いに来る人も多いんです。
— 機会があればまたレッスンを受講したいと思いますか?
高林 ええ、そうですね。
— 留学まえにやっておいたほうがよかったことはありますか?
高林 具体的な話になってしまいますが、先生の『パターンズ』という教本のうち『タイムファンクショニングパターンズ』という紫の表紙の教本をしっかりやっておけばいいです。
— 留学を考えている人に何かアドバイスをお願いします。
高林 迷っている人は、とりあえず行ってみたほうがいいと思います。
— 行くことで何か動き出すことがありますか?
高林 はい。世界で名前が通っている先生にレッスンを受けたことが自信になります。僕は生で先生の演奏を見ているし、レッスンもしてもらったという経験がとても大きなものになりました。それは一生心に残る良い経験だったと思います。
— 最後に今後の活動の方針を教えてください。
高林 今は関西中心なんですが、全国どこででも活動できるようになっていきたいです。ドラムはもちろん、色々なコースがあり、生徒募集もしていますので良かったらインターネットなどで検索してみて下さい。
— 今日はありがとうございました。
高林 ありがとうございました。
小寺佑佳さん/ピアノ/エコールノルマル音楽院/フランス・パリ
音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。
東京都出身。4歳からピアノを始める。東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校に在籍中、都内においてソロ、室内楽のコンサートを行う。2004年に高校を卒業後、ヴァイオリンやチェロを扱う弦楽器商に勤務。2005年、現在の師、パトリック・ジグマノフスキー教授と出会い、渡仏。パリ・エコールノルマル音楽院ピアノ科に在学中。
(インタビュー2005年12月)
ー 現在はパリのエコールノルマル音楽院にいらっしゃいますが、ご留学したきっかけというのは何かありますか?
小寺 きっかけは現在の師匠と出会ったことです。
ー それはどこでお会いされたのですか?
小寺 今年の夏に公開レッスンを受けてそこで出会いました。それがきっかけです。レッスン以降、先生とメールでコンタクトを取っていて、お許しが出たのが9月頭でした。
ー 今年の夏にレッスンを受けてもう10月にはフランスに行ったのですか?ビザはどうしたのですか?
小寺 ビザは先生の許可を頂いてから急いで準備に取り掛かったので発行までに1ヶ月弱かかりました。
ー 試験はどのように行われましたか?
小寺 エコールノルマルは少し試験が特殊で、ディレクターの前で任意の曲を2曲弾きます。異なった時代の。それを聞いてディレクターがその生徒の入学するレベル(階級)を決めるんです。なので落ちるということはありません。
ー 語学は1ヶ月間で集中して勉強したのですか?
小寺 何もやってませんね。急に留学が決まったので、準備に必死で。行けばなんとかなると思い込んでいたのもあって。これから大変です。一応英語は少ししゃべれるので、レッスンは英語で先生に教えて頂いてます。先生はフランス語と英語を話されるので。問題はないけどフランス人は基本的にはフランス語しかしゃべらないので...。
ー 別の先生だったらフランス語の勉強はしていったほうがいいですか?
小寺 はい。私の先生が特殊ですね。何もコミュニケーションが出来ないので意味がないと思います。
ー 学校の手続き書類も全部フランス語で書いてありますよね?それは誰かサポートしていただいているのですか?それとも自力でやっているのですか?
小寺 なるべく自分で辞書を引きながら四苦八苦やってはいるんですけど、ほとんど友人に頼りっきりですね。ついこの間なんて、書類と学費の提出が遅れてしまって私の名前が生徒登録から消されそうになったことがありました。その時は本当に助けてもらいましたね。こっちの手続きって時間通りにやってくれないんです、忘れてた〜とかそういう感じなんですけど。それに一緒になって私もだらだらやってたら、突然登録消去の警告をしてきたり。学費早く振り込めって感じで。お金に関しては結構厳しいと思いますが、とても外国人に親切な学校です。
ー レッスンはどのように進められていますか?
小寺 レッスンは基本的に週1回です。先生が忙しくてみて頂けない時は、次の週に2回入れて帳尻を合わせてくれます。
ー フランスで授業やレッスンを受けてみて日本と違うなという点はありますか?
小寺 人によりますね。意見の交換ももちろんそうですけど、あとはやっぱり演奏の中での映像のキャパシティーが広いと思います。
ー 自分としても勉強になるなと思いますか?
小寺 楽しんで勉強するようになりました。先生のする表現がまず面白くて。
リズム感が体にしみついているのも外人の先生の特徴だと思うんですけど、例えばショパンの英雄ポロネーズのタタタッタというリズムがあったとしたら、それをステップして踊ってくれるんです。横でわーって騒いでいるんです。それを隣でやってくれるとこっちもイメージが湧くんです。頭で考えないで体ですんなり感じることができます。
ー 先生のレッスンは週1回ですが、他に何か基礎的な授業はありますか?
小寺 はい。室内楽、楽曲分析、ソルフェージュ、初見などがあります。でも実技のみで学校に通っている人もいれば音楽科目の授業もちゃんととってやっている人もいます。
ー 日ごろ練習はどういうふうになさっているんですか?ピアノの付いている部屋を借りられましたか?
小寺 いや、ピアノは買いました。結構借りる人とか、ピアノを売って帰国しちゃう人のピアノを買ったりする人もいるんですけど。あとレンタル。私がフランスにいたい時間、こっちに滞在している時間がどの程度になるかわからないので、もしかしたら元を取ってしまうかもしれないので買ってしまいました。買ってもらいました!(笑)。
ー 練習はいくらしても大丈夫というアパートですか?
小寺 いえ。違いますね。音楽可能じゃない所です。こっちのアパートは音出し可能な所はないに等しいぐらいないんです。やっぱり隣人問題が多々あって物件情報誌に音出し可能と載っていても実際、音出しを許可するのは隣人なので、隣人と交渉なり、なんなりして物件を見定めるのが大変だと思います。私も最初は音出し可能と家主に聞いて入居したのですが、隣人から苦情が来て、駄目になってしまって。今は練習はサイレントピアノを使っています。ヘッドフォンオンリーで。
ー おうちを見つけるのは大変でした?
小寺 大変でしたね。困り果てていたところ、幸いにも知り合いのアパートを貸して頂くことになって、あとはトントン拍子でした。物件は日本にいる間に決まったんですが、不動産の関係で急遽11月からの入居になってしまったので、渡仏してから入居日までは友達のところで世話になっていました。
ー 学校はどういう国籍の方が多いですか?
小寺 アジア人ですね。日本人が特に多い。フランス人はもちろん、中国人、韓国人、イギリス、アメリカなど様々です。ノルマルは外国人が多い学校です。
ー 学校の掲示板は英語もありますか?
小寺 たまにあったりしますね。でもほとんどフランス語なので、必死です。英語でなんとか救われてる面も多いですが、実際暮らしてみてフランス語が読めなくてしんどいし、日本人以外の人とは会話ができないので、フランス語を真面目に勉強しようと思います。時間ができたらまた語学学校とエコールノルマルと両方やっていきたいですね。
ー いまおうちでは時間的にはどのくらい練習しているんですか?
小寺 日によって全くしない日があるんです。やる気がある時にはずっとトイレ以外はピアノにむかってます。間に合わなくて。レッスンの直前までかかってます。
ー そうすると先生にばれちゃったりしません?
小寺 ばれますね(笑)練習した?って言われて、返答にあたふたしてると、まぁ答えなくてもわかるけど!って言われたりしてびっくりします。
ー 学外コンサートなど学生さんはなさっていますか?
小寺 学生が学外でやる機会は多いと思います。試験でいい成績を取った人にはリサイタルをさせてくれたり、学生のコンサートも頻繁に行われたりしていて活気的です。
ー 1日のスケジュールはだいたいどんな感じですか?
小寺 何もない日はPCをいじって、語学勉強して、一通り終わったらピアノをさらいます。基本的にさらいだすのは毎日夜ですね。うちの環境は下の階が夜中から朝まで賑やかなバーなので、ガンガンうるさい時にヘッドホンをしてピアノをさらっています。レッスンがある日はたまにグループレッスンだったりするので、半日過ぎます。
ー グループレッスンはどんな感じですすむんですか?
小寺 みんなでそれぞれが受けるレッスンを聞き合います。その後、先生が聞いている生徒たちに質問をしたりして、意見を言い合います。人のを聞いて勉強するという感じですね。
ー そういうのは凄く勉強になりますよね。周りの人達の勉強態度は日本と違うことはありますか?
小寺 やる気のある人、ない人で違いますね。頑張っている人はやっぱり積極的に先生についていって反論したり自分の意見を言ったりとかします。悩んでいることを試してという形ですね。
ー 留学はずっと前からしたいと思っていましたか?
小寺 はい。漠然としたいと思っていましたが、進路に迷っていたのでそれがきっかけになって。音楽を続けることはお金もかかるし、色々考えなければいけないことがあったので、知り合いのところで働いていて、ピアノを一年半ほど休憩しました。
ー 今後はどういうふうになっていきたい思っていますか?
小寺 これから状況がどのようになるのかはわからないのでなんとも言えないのですが、できればこっちに拠点を置いて、できることを色々経験していきたいと思っています。ソロ以外にも室内楽、伴奏法など力をつけていきたいです。臨機応変に対応出来るように。
ー 留学して良かったと思う瞬間ってありますか?
小寺 以前より精神的にタフになりましたね。今まで日本にいて、実家暮らしだったので甘えがありました。母国にいれば文化の違いにショックを受けることも、言葉の壁を感じたこともなかったし、ただ生活することで苦労を感じたこともなかったですね。あとは留学してから、海外で勉強させてもらっている。という自分の立場に責任をもてるようになりました。あと、価値観が変わりますね。フランス人はルーズだし、気質も違うし、そういった点を受け入れないといけないですね。
ー フランス人と付き合うのは結構大変ですか?
小寺 そうですね。自己中でルーズでプライドが異常に高い人が多いので。中でも本当に勘弁して欲しかったのは、入学手続きのこと。、出願をしたら、学校側から送られてくる仮入学許可証があるんですが3、4週間待っても来なくって。それがないとビザの申請ができないので学校に連絡してみたら、「願書なんか届いてない」って言われました。その後、しつこく請求していたらやっと思い出したみたいで「あ〜、忘れてた!今から送る。」という返事。とても困りました。結局入学時期をオーバーしたんです。でも外国人だしビザの関係でしょうがないという感じで許可が下りました。
ー 学校の雰囲気はどのような感じですか?
小寺 凄く古くて、歴史ある建物です。そして世界的に有名な音楽家たちが創立し、輩出されている学校です。入学年齢制限がないので、子供から大人までいます。そういう意味で勉強したい者に対して壁はないですね。例えばパリ国立音楽院なんかは年齢制限が早いのです。ちなみに私はもうオーバーしています。確か入学当初、21歳未満じゃないと入学できなかったと思います。
ー じゃ今の選択はばっちりですか?
小寺 ばっちりですね。先生がどっか行っちゃわない限り。
ー ひょっとしたら、エコールノルマルに来た時には先生がいなかったという可能性もあったということですか?
小寺 ありますね。そこは先生とのコンタクト命です。留学する時に自分がつく先生とのコンタクトをまめにやらないと。つきたい先生がいる学校に行ってみたものの、その先生がその年、違う国の学校で教えるということになっていて、すれ違いになるということもありえますから。
ー 自ら動くというのが大事ですよね。
小寺 そうですね。きっかけはこっちからやらない限り何も起こらないとつくづく思いました。先生に呼ばれて留学したという話も聞きますが、生徒自身にやる気がなければ先生も呼び寄せられないと思います。先生も呼ぶならそれなりのケアをしなきゃいけないから、面倒なことですよね。もちろんやる気を見せれば喜んでみてくれますけど。
ー 自らアピールしていくことが大事ということですよね。
小寺 そうですね。外国に来て、日本人は少し遠慮がちな印象を受けました。こっちの人は我が強すぎて引いちゃうくらいです。やりすぎ?ぐらいがちょうどいいと感じるようになりました。
ー フランスに留学したいって人に何かアドバイスしておきたいことありますか?
小寺 日本と違って物事がスムーズにいかないので、手続きは早めに。待っていないで積極的に行動した方がいいと思います。あとは、ちゃんとした目的がないまま留学しても意味がないので、何のために留学したいのか、よく考えることですね。リスクも誘惑もあります。サポートしてくれる周りの期待を裏切らないよう、自分自身しっかりすることが大切だと思います。
ー これからも頑張ってくださいね。
水間博明さん/ファゴット/ケルン放送管弦楽団首席/ドイツ・ケルン
「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はドイツの名門オケ・ケルン放送管弦楽団首席ファゴット奏者でご活躍中の水間博明(ミズマヒロアキ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学をすること」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2006年3月)
ー水間博明さんプロフィールー
ケルン放送管弦楽団首席ファゴット奏者。京都市立芸術大学卒。ドイツ学術交流学会奨学生としてデトモルト音楽大学に入学。ベルリンフィル・カラヤンアカデミー在学。マーストリヒト音楽大学大学院指揮科卒業。プラハの春国際音楽コンクール特別賞受賞。日本管打楽器コンクール入賞。ブレーマーハフェン市立歌劇場管弦楽団首席ファゴット奏者を経て名門オケ・ケルン放送管弦楽団首席ファゴット奏者となる。近年、指揮や作曲、後進の指導に力を注いでいる。
— 簡単な経歴を教えていただいてよろしいですか?
水間 日本の大学4年生の頃に奨学金制度を利用して、ドイツに行くことになりました。デトモルトに来たんですけれども、なかなかそこの先生と合わなくって(笑)。もう1ヶ月で見切りをつけたんです(笑)。この話、留学される方の参考になると思うんですけど、先生が全く自分の思っていた音楽をやる人じゃないと全然お話にならないんです。デトモルトというのは田舎で全くコンサートやオケを聞ける機会が少ないんです。
— そうなんですか(笑)。
水間 デトモルトは本当に田舎で人口が5万人くらいの街なんですけど、だからドイツに来たのに全くプロオケを聴く機会がなかったんですね。
— ドイツってどこの町もしっかりオケがあって、どこの街でも良い音楽を聞けるのかなという印象でしたが、そうでもないんですね。
水間 オケはあるんですけどね。でもそんなにレベルの高いことをやっていないから、ここにいると腐ってしまうなと思ってドイツに来て1ヵ月後に行動に出ました。まずは、ベルリンフィルを聞きに行ったんです。コンサートが終わってからファゴットの首席の方にお会いして、ひょっとしてレッスンしてくれますか?というふうにコンサート後にまるきり初対面でぶち当たって行ったんです。
— ノーアポですか?
水間 電話番号も知らなかった(笑)。それでぶち当たりまして、じゃ明日の朝来いと言われたので、それでレッスンに行ったんです。
— 何も問題なく受け入れてくれたのですか?
水間 何も問題なく。非常にいい先生でした。それでレッスンを受けましたところ、5分位吹いたら、「お前ひょっとしてベルリンで勉強する気あるか?」と聞かれたんです。これがこっちの思うツボでした(笑)。先生に夏からだったら取ってやると言われて、奨学金も出るしもう至れり尽せりでした。カラヤンアカデミーという所に入りましたが、当時全校生徒で26人です。それも選抜されたメンバーですので全員プロになります。そこではアンサンブルもたくさんやらせて頂きました。ほとんど毎月ベルリンフィルにもトラで出させて頂きました。そこで2年間みっちり勉強させて頂きました。
— デトモルト音楽大学はあんまり関係ないのですね(笑)。
水間 もうほとんど関係ないです(笑)。当時は情報があまり無かったので、奨学金も頂いたことだしとりあえずドイツに行ってそこで勉強しようと思ったのですが、やっぱりあまりにも自分の思っていた生活環境と違ったもので、それだったらこの町にいる意味もないなと思いました。そこから行動に出て本当に正解でした。
— カラヤンアカデミーに入るには先生に認められることが必要ですか?
水間 先生に認められるのがまず一番最初です。当時は今みたいに公募していませんでした。当時は先生がまず認めて、今度はベルリンフィルの木管楽器全員を集めてそれで入団試験をするんです。それで合格したらカラヤンアカデミーに入れたんですね。
— どのくらいの人数ですか?
水間 全員で26人だから弦楽器が5、6人かもうちょっといたかな。ファゴットは2人か3人ですね。やっぱり人間なんでもぶち当たっていくことが大事ですね。
— 自分の勢いが大切になるんですね。
水間 そうですね。若い頃は特に。
— プロになるためだけにドイツに行ったのですか?
水間 僕は日本帰ってくる気は無かったんですよ、最初から。ドイツ行った限りは必ずドイツで成功してみせると言う気持ちだったから。
— かっこいいですね。日本の武士という感じがします(笑)。写真でも本当に武士っぽいというか、厳しい心が表に出てるというか、そう見えますよね。
水間 実は武道が大好きです。小学校の時は柔道をやっていまして、高校の時から空手をやりまして、今はずっと剣道を続けているんです。
— じゃ本当に武士ですね(笑)。
水間 戦う音楽家と言われます(笑)。
— 本当に尊敬します。そういう方(笑)。
水間 いやとんでもないです。武道をやっていないと気がたるんでしまうんです。追求すると音楽も武道も一緒なんですよね。どちらも本当に楽しいんです。
— 音楽に興味をもったきっかけっていうのは何でしょうか?
水間 偶然の話なんですけど実家の3件隣にハーモニカの先生がいたんです。それで6歳くらいから20歳くらいまでずっとハーモニカをやっていたんです。
— ハーモニカですか?
水間 ハーモニカが一番最初の楽器です。それから小学校4年かな。京都市少年合唱団という合唱団に入りました。今、指揮で有名な佐度君*いますよね。彼も一緒だったんです。彼は当時からの付き合いで、今もよく電話くれるんですよ。彼は合唱団も一緒で、大学**も一緒なんですよね。(編集注*:指揮者佐渡裕さん・注**:京都市立芸術大学)
— そうなんですか。
水間 京都の大学で、彼はフルートをやっていました。京都は、指揮科はあったんですが誰も生徒はいないですから。彼は、どこも指揮科は出てないです。話を元に戻すと、小学校から中学校3年まで合唱団をやっていました。小学校から中学に入ったら吹奏楽部が無かったんですね。それで自分で吹奏楽部を立ち上げました。
— ないなら作れですね(笑)。
水間 楽器だけは倉庫で眠っていたんですね。だから楽器があるから人を集めようということで、十何人集めて小さいアンサンブル始めました。その時僕はラッパを吹いていたんです。僕が卒業と同時に吹奏楽部はつぶれましたけど(笑)。その後、今、全国大会にも出ていますけど洛南高校という所で1年の頃はクラリネットを吹いていました。
— 結構楽器が変わっていますね。
水間 ころころ変わるんです(笑)。それでクラリネット吹けるといったら勝手にサックスを吹けということになって、ジャズをやる時はサックスを吹かされました。それで例えば行進をする時にトロンボーン足りないというと、お前トロンボーン吹けと言われましたからいろいろ吹けてしまうんです(笑)。
— マルチプレーヤーですね。
水間 結構いろいろやらされましたね。クラリネットばっかりやっていて、十何人で合わせていてもあまり面白くないんですね。それで、「クラブは面白くないから辞めます」と先生に言いに行きました。そうしたら、「お前はファゴットやらしてやるから残れ」と言われたんです。だから高校2年からなんです、ファゴットやったのは。
— なぜファゴットをやらしてもらえるようになったのですか?
水間 当時誰もファゴットがいなかったんです。指揮者が宮本先生と言う元ファゴット吹きなので、ファゴットを教えて頂きました。そうするとファゴットは難しいから面白いわけです。
— 高校生が普通にやる楽器ではないですよね。
水間 そうですね。本当面白くなりました。それでもプロになろうとは夢にも思っていなかったんですけど、高校三年の時、その宮本先生が、「水間、ひょっとしてお前芸大を受ける気ないか」と言われたんです。最初は冗談を言っているのかなと思ったんです。でも、よく話を聞くと冗談じゃないみたいでした(笑)。それで宮本先生が、「俺も今まで人に言ったのは一回も無いんだけれども、お前はなんかプロになれそうな気がする」と仰っていただいたんです。
— ご自身では音大に入ろうとは思っていなかったのですか?
水間 全く無かったですね。高校を出たらすぐに就職しようと思っていましたから。当時はそろばんに簿記ですよね。それをやっていました一生懸命。そろばんも2級を持ってます(笑)。だから仕事として全く畑違いの音楽の世界の事を言われましたのでかなり戸惑いました、「冗談やめてくださいよ」と。それでも先生がそこまで言ってくれるんだったら、なんとか一回は挑戦してみてもいいかなと思いまして、高校3年からピアノを始めたんです。
— 高校3年からですか?出来るものですか?
水間 出来ましたね。実技はピアノもファゴットも楽に一年目で入ったんです。でも勉強の方がついていかなくって(笑)。当時は共通一次じゃなくて本当に難しい試験だったんです。それで英語で落とされまして、1年浪人いたしました(笑)。
— 音楽とは全然関係ないところですね(笑)。
水間 全く音楽の関係ないところで落ちるのは悔しいと思いまして、一年間英語をひたすら勉強いたしまして、それで翌年に京都市立芸術大学に入りました(笑)。
— ピアノもすぐに出来るというのは根本的に器用なのでしょうね。
水間 心の中にこう弾きたいというものがあるんです。この音楽はこう弾かなきゃ駄目だという固定観念がありまして、それに向かっていると勝手に指が動いちゃうんですよ。不思議なものですけど。
— ファゴットもそうだったんですか。
水間 そうですね。クラリネットからファゴットは、ただ口と指を変えれば一緒ですから。今でも講習会ではクラリネットもレッスンしているんですけど、クラリネットの先生に習うより良く分かると言われます(笑)。ドイツでもフルートレッスンしましたね(笑)。
— フルートをレッスンしたんですか?
水間 楽器はただ道具なだけであって、音楽自体はどの楽器も同じですし、フルートも練習したことがあるので(笑)。やっていないのはオーボエ、ホルンだけです。あとは全部やりました(笑)。最後にたどりついたのがファゴットなんですね。いまも時々バイオリンとチェロを練習しますが面白いですね。ほかの楽器から学ぶことも多いですね。
— ファゴットの面白さというのは何ですか?
水間 やっぱりこの音色ですね。最高に音色がいいです。
— その音色にはまってしまったんですか?
水間 そうですね。どうしたら次回いい音になるかと追求していくとやっぱりたまらない魅力です。
— 今でもやはり音色を追求しつづけているのですか?
水間 もう永遠ですねこれは。僕の目標は定年になる日に一番良い音出ればいいなと思ってやっています。
— 音楽をやるにあたってドイツの良い点悪い点はいろいろあると思うんです。それはどのようないうものでしょうか。
水間 僕はドイツで音楽をやるという事に関して、悪い点というのは見たことがないんです。オーケストラの中でも、やっぱり各人が個人主義ですから。日本は音楽をやる以前に人間関係のほうが大変なところが多く、音楽に集中できないことがよくありますね。
— なるほど。
水間 ドイツ人でも中にはそのような人もいますけれども、いい先生はやっぱり自由にしています。逆に、今度あいつの講習会があるから言って来いと言ってくれたりします。やっぱり一人の先生ではいろいろな事は習えないということを先生自体が知ってますから、いい先生はどんどんあちこち行かせます。ドイツは個人主義だから仕事が出来る人はみんな認めてくれますし、そういう点ですごく楽ですね。
— 悪い点があるとしたら自分が思っていた条件が整えられない時ということですか?
水間 ドイツでも下の方のオーケストラに行くといやいや仕事を適当にやっている人が多いんですね。ドイツには200ものオーケストラがあるのでいろいろなタイプのオケがありますね。昔吹いていたオケは、みんな全部自分が正しいと思っているので、人を非難ばかりしましたね。
— ばらばらなんですね。
水間 今のオケ*ならちょっとずれたらみんなが合わそうという気もあるし、ほぼ全員がチューナーを見て吹いています。それに常に自分を厳しくしています。だから音楽のレベルも高いですよね。(編集注*:ケルン放送管弦楽団)
— プロとしての意識も高いということですね。
水間 まるきり違います。僕らの場合は、放送局だからすべてライブで流れるんです。だから嘘をつくと視聴者に見られます。いいかげんな仕事は出来ないですね。
— 厳しいですね。
水間 オペラは一回限りで何をしてもすぐ終わりますけど、放送局のオーケストラは結果が残りますからやっぱり厳しいですね。
— ドイツを留学先にすることで一番重要だと思うことは何ですか?
水間 ドイツに関わらず何をしに留学に来るかというのが一番だと思います。ただ経験だけを積みに来るのか、必ずドイツで仕事をするために来るのか、それとも日本で仕事をするためにドイツに留学して勉強するのか。それを明確にする必要があると思います。僕の生徒でもあと1年頑張ればプロになれるのに、そこで彼氏ができちゃって練習をしなくなって駄目になった子いっぱいいますから、本当にもったいないです。だからきちんと明確に目的を設定しないといけないと思います。
— お弟子さんにもそういう話はされているんですよね?
水間 人間集中力と持続力というのはあまり続かないんです。必ずドイツに来てプロになってやると言って、みんな来るんです。だけど本当に3年間ひたすら練習するというのはすごく厳しいことです。
— 水間さんが直接、お弟子さんに言っても難しいのですね。
水間 難しいです。やるのは生徒ですからね。だから明確に目的意識を持ってドイツに来るというのが一番大事ではないかと思います。
— なおかつ持続的に固い決意を持って留学に望むということですね。
水間 日常の九割が誘惑ですから。その誘惑にどれだけ負けないかということですね。人間は厳しいことは嫌だけれど、楽しいことはすぐにのめりこみますからね。
— 仕事を始めるにあたって日本人として有利な点、不利な点はありますか?
水間 有利な点というのは全くないです。ゼロパーセントです。不利な点はもういっぱいあります。例えば仕事をするにあたってオーケストラから招待状をもらわないとオーケストラの入団試験を受けられないんです。例えば一つの席が空きます。そうすると最低でも今60から100の願書が届くんです。それで大体招待されるのが多くて20人。普通のオーケストラはドイツ人から選びます。ということは日本人に招待状が回ってくるのは3回目4回目くらいです。まずそこで不利です。僕は最初、ブレーマーハフェン市立歌劇場管弦楽団に入りましてそこから2年半の間、招待状を一通ももらえなかったんです。プロなのにです。それで3年目に始めて今の所属楽団であるケルン放送管弦楽団から招待状が来ました。もう一発勝負でした。
— 願書の段階で落とされるんですか?外国人だからという理由ですか?
水間 外国人だからという理由。だから全く不利な点だけです。
— ようやく来たのがケルンなんですね。
水間 それもたまたま今隣で吹いてる2番吹きの奏者が学生の頃から日本人の友達がいっぱいいて、日本びいきだったんです。だから招待状をくれたんです。普通のオーケストラだったらまずくれないですね。やっぱり放送局というのはドイツの顔ですよね。だからあんまり外人は座られたくないんですね。
— ドイツ人がいるのが当たり前ですもんね。
水間 ドイツ人が駄目だったらEU諸国です。それが駄目だったらアメリカやオーストラリア。要するに白人ですよね。それからどうしてもいないから呼んでやろうかという感じで呼んでくれます。
— 招待されるのにラッキーな部分というのはあるのですか?
水間 これは本当にもう偶然しかないんです。日本人は1回目2回目で呼ばれないというのは前提にあります。僕もコンクールはいくつか入っていますし、経歴からいえばかなりいい線いっていると思うんですけど、他の放送局では一通も招待状が来なかったですね。
— かなり肝を据えていかないと厳しいですね。
水間 もう命をかける気で、死ぬ気でやらないと無理です。先生が顔の広い場合は弟子が全国に散らばっていますから、先生に電話して頂いて受けさせてくれということもありますね。
— 大学などの学校の先生に付くということと、オケだけをやっている方に付くということとどちらがいいと思いますか?
水間 オケだけをやっている方に付くというのはビザの面でも無理でしょうね。どこかの大学に所属して、自分の好きな先生が他にいればその先生に付くというのがベストですね。うちに来ている弟子達も、どこかの学校には所属しています。
— ビザの問題があるので大学の先生を決めて、それに加えて自分がいいと思っている先生に付くというのが一番良いということですね。
水間 僕も先生に付いていたんですけれども、他のベルリンフィルの先生全員にレッスンを受けに行きました。ドイツはそういうことが出来るんです。
— 他の先生に気兼ねなくですか?
水間 みんな自分のレッスンに誇りを持っていますから。人が何を言おうと関係ないのです。僕は僕のことを言うだけだから、で終わりですね。
— ジャズや吹奏楽などをおやりになって最終的にはクラッシック音楽というものにたどりついたと思うのですが、クラッシック音楽というものは水間さんにとって一体どのようなものですか?
水間 一言で言ってしまうと自分の心の魂の表現ですね。心が安定していないと、音というのは自分もすごい嫌なんです。本当に心が静かで一生懸命努力して出た時の音は自分でも気持ちがいい音がするんですよね。
— 自分の心をそのまま反映してくれる鏡になるわけです。
水間 よく経験するんですけど、アマチュア音楽家でも技術的にはすごく下手なんですけど感激する事は多いんです。だけどプロでも技術的にはすごくうまいんですけど感激しない場合も多いんですよね。ということは、その人が純粋に音楽に取り組んでいるか取り組んでいないのかということが、うまい下手にかかわらず心に響いてくるんじゃないかと思うんです。
— 技術じゃない部分ですね。技術的には下手でも感動する時は感動しますよね。
水間 そうですね。だから人間心に波動を出して、それがお客さんに伝わるんじゃないかと思うんです。
— それは逆に舞台に立っているときも同じように感じますか?
水間 はい。今日こいつ調子いいなとか、こいつ家庭に悩みがあるなとか(笑)。やっぱり家庭に悩みがあると音が攻撃的になりますし、もう全然波動が違いますね。音でその人の性格が出ますから。
— 精神的なものですね。
水間 もう九割音というものは精神的なものじゃないですか?
— 九割ですか?
水間 本当に心の状態がいい時に出た音というのは、涙が出るくらい気持ちがいいですね。めったに出ないですけどね。
— 何回かしか経験がないですけど、聞いた時に涙が出る演奏というのは本当に震えるんですよね。そういう時は音楽家の力はすごいなと思います。
水間 ちょっと話がそれますけど、初めてベルリンフィルで吹いた時、涙が止まらなかったんです。後ろでラッパが鳴りまくって、こんなに素晴らしい音楽家の中で吹けて本当に幸せで幸せで吹きながら涙が出ましたね。
— それは感動ですよね、本当に。
水間 こんな経験ベルリンフィル以外では出来ないですね。
— 涙を流す演奏機会はドイツの方が日本よりも多いですか?
水間 ほとんどないですけどね(笑)。
— 日本のオーケストラはいかがですか?
水間 弦楽器はかなりいい線いっていると思うんです。だけど申し訳ないですけど、管楽器が下手です。
— 技術的な問題ですかそれは。
水間 技術的な問題もあります。
— 音楽的な問題ですか。
水間 音楽的な問題もあります。
— 音楽的な問題は、先ほど言われたように精神性ということですか?
水間 そうですね。トップの生活態度見たらおかしいですよね。警察沙汰になりかけている人がいっぱいいます。
— 人間性でしょうか?
水間 日本人の先生というのはすぐ権力をかさにきてしまう人が多いようですね。すぐ威張っちゃいますからね。厳しいのはいいと思いますが、威張るのはどうですかね。生徒にも教えてやっているじゃなくて、教えさせて頂いているという気持ちで生徒に接しないとだめだと思いますね。
— 音楽的な夢を教えていただいてよろしいですか?
水間 オーケストラの仕事が暇だったので、30過ぎからオランダの音大の指揮科に入りまして指揮を勉強したんです。当時卒業してからかなりいろいろなオーケストラで振らせて頂きました。お金を稼ぐんだったらこのまま指揮をやっていればいいなと思ったんですけど、仕事で指揮をやるとホテル暮らしになるので家族とも離れ離れになります。それからほとんど地元以外の仕事引き受けなくなったんです。今のオーケストラからも何回も仕事いただいて指揮になってくれという話もあったんですけど、そうすると今ちょっとやりたいことが別にあるので出来ないとお断りしました。指揮の勉強をすると作曲法も勉強しないといけないんです。そうすると指揮より作曲のほうが面白いということに目覚めたんです。作曲というのは自分ですべて作れますから。何の制限も無く。
— 指揮はあくまで与えられたものの中から構築していくということですからね。
水間 だから将来の夢は自分でシンフォニーを書いて自分で振ることです。
— それはぜ見てみたいですね。
水間 今指揮は指揮でやっていて、作曲も小さいオーケストラの曲は録音しているんですけど、両方一緒にやったことはないのでそのうちにやりたいですね。それが今のところの音楽的な夢ですね。それから日本のファゴットと木管のレベルを何とかレベルアップしたいなというのが夢なんです。
— 日本のですよね。
水間 世界はほっといても何とかやっていけますけど、日本はまだ鎖国状態なんで(笑)。
— 人生的な夢ということは別にあるのですか?
水間 ちょっとありすぎて困るんですけど、静かな心でありつづけるのが一番の目標ですね。
— 禅の心ですね。
水間 本当宗教の世界ですね。音楽というのはちゃらちゃらしていることが多いですから。名誉欲とか金銭欲とか地位とかそういう雑念が出てくると本当の音楽が出来ないです。その雑念を捨てて音楽に打ち込むという人間になりたいなと思っています。
— 素晴らしい!日本の講習会ではそのような話しをして頂きたいです。ところでプロとして音楽家として活躍する秘訣、条件はあると思いますか?
水間 ドイツでやっていこうと思えばまずドイツの習慣と環境に慣れることですね。頑固な日本人気質を持っている限りドイツで生活するのは厳しいですね。
— フレキシブルな心がないと、というところですね。
水間 そうですね。常に自分を磨いてまじめに集中力を持って練習してやっていかないとドイツでは難しいですね。環境になれない人は結構何年かドイツにいても帰ってしまいますね。
— 音楽的なことではない部分ですよね。
水間 ドイツ人は個人主義ですから、日本人から見たら寂しいところがあると思うんです。演奏会が終わっても誰も飲みに行こうと言わないとか(笑)。各自ばらばらに帰っていきますから。
— それが寂しいという人もいるんですね。
水間 慣れちゃってますからね。日本人は打ち上げ行くのが楽しみで演奏会やっている人もいますから。
— 最後に、読者に何かアドバイスがあれば教えて頂いてよろしいですか?
水間 これは一言、ドイツだったらドイツ、イタリアだったらイタリアに留学される目的意識を持って来られることですね。それが一番です。それがない人が多いですから。憧れだけで留学に来るという方が多いんですよ。そういう人は遊んで終わっちゃいます。30近くになって日本に帰って無職で何をしたらいいんだろうとなってしまいます。
— ずっと見てこられた重みがありますね。
水間 本当に九割そうですよ。ウィーンに行ってびっくりしたこともありましたね。。30才過ぎのひとに「何をしておられるんですか」と聞いたら「指揮者です」というんです。「仕事は何をされておられるんですか」と言うと何もないんです。そういう方が何人もうろうろしている。ウィーンには日本人は何百人行ってますよね。でも勉強しないで遊んでいる人も多いですね。
— もったいないですね。状況とか環境は非常にいいのに。
水間 やっぱり今の人は、皆さんお金持ちなんです。だからハングリー精神が無いんですね。仕事が無くても家に帰ったら親に食わしてもらえるとかね。
— 明日仕事がなくて、どうしようという条件にはならないということですね。
水間 そうなんです。それともう一つ、相撲と同じで、人の3倍練習しないといけない上には行けないと思います。プロを目指している方は、頑張って3倍やっていただければと思います。
— 長い間、ありがとうございました。
〜〜水間博明さんのコンサート情報〜〜
2008年トリオのコンサート情報です。
7/26(土) 群馬・水上温泉
http://members3.jcom.home.ne.jp/concert-higakihotel/E9.htm
7/29(火) 宮古市民文化会館大ホール(岩手・宮古)
http://miyako-hall.co.jp/index.htm
7/30(水) 伝国の杜置賜文化ホール(山形・米沢)
http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/pdf/hall_saiji/hall0807.pdf
8/1(金) スタジオ・エルミタージュ(東京・杉並区)
http://www.st-hermitage.com/consche/consche.cgi?mode=main
8/2(土) 神奈川県民ホール
http://www.kanagawa-kenminhall.com/
8/3(日) 長岡京記念文化会館(賛助出演)
http://sumaiprint.com/data/kijyu/A4_omote_0509.pdf
8/4(月) 元京都市立待賢(たいけん)小学校
京都市上京区丸太町通堀川西入る1筋目南西角
http://www.kcjcc.jp/whats-new/index.html
8/5(火) DAAD東京
http://tokyo.daad.de/japanese/jp_index.htm
8/7(木) 盛岡市(岩手)盛岡市都南文化会館キャラホール
http://www.mfca.jp/institution/kyarahall/index.html
8/8(金) 盛岡市(岩手)講習会、ならびに個人レッスン
小川原佐知子さん/ソノマ州立大学付属英語学校マーケティング/アメリカ・ソノマ
「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はいつもとは趣向を変えて、音楽家ではなく、「英語と音楽コース」を企画している、アメリカ・ソノマ州立大学付属英語学校小川原佐知子さんにお話をお伺いしました。高名な先生を登場させた、「グラミー賞受賞ボーカリストクリストファー・フリッチー先生のボーカルワークショップと英語レッスン」についてお聞きしました。裏方さんがどのような思いや秘話でコースを企画しているのでしょうか?
(インタビュー:2008年2月)
小川原佐知子さんインタビュー
アメリカ・ソノマ州立大学付属英語学校コース企画等のマーケティング担当。「グラミー賞受賞ボーカリストクリストファー・フリッチー先生のボーカルワークショップと英語レッスン」のコース企画を行っています。
― ソノマ州立大学というのはどんな所にあるのですか?
小川原 ソノマ州立大学は、北カリフォルニアにある、サンフランシスコから車で1時間から1時間半ほど行ったところにある大学です。この辺りはカリフォルニアワインの産地なので、ぶどう畑が広がる、とてものどかで美しい場所にあります。
― 治安はどうですか?
小川原 治安はとても良いです。
― どういう人種の方が多いのですか?
小川原 ほとんどが白人の方です。ときどきスペイン語圏の方もお見かけしますね。
― 小川原さんのお仕事について教えてください。
小川原 ソノマ州立大学附属の英語学校で特別プログラムを作って、各国にプロモーションを行っています。
― 英語学校にはどのような国の方々がいらっしゃいますか?
小川原 学期によって差はありますが、平均すると、65%がアジア、15%がヨーロッパ、15%が南アメリカ、残り5%が中東から、という構成になっていますが、最近は中国からの学生さんが多いです。
― 日本人の学生さんはどのくらいいますか?
小川原 日本人は、今学期は3名です。
― 3人というのは、英語を学ぶ環境としては最適ですね(笑)。
小川原 そうですね、日本語を話す相手がいないので最適だと思います(笑)。
― ところで、今回御校で「英語と音楽」というコースをご企画されました。英語だけではなく、音楽をプラスされたというのはどういった理由からですか?
小川原 最初は、この英語学校のディレクターが、「何か特色のある英語プログラムはないか」と本当は音楽と全く関係のないプログラムを考えていて、私がそのマーケティング調査を担当したんです。結構見込みのあるプログラムだったのですが、結果的にまだ時期が早いと判断し、報告書を提出しました。しかし、同じ「英語と別のものを組み合わせる」という枠組みを使って声楽のプログラムが作れそうな気がしたので、簡単な企画書を作って提出したら、通ってしまって、今回担当することになりました。
― どういったきっかけで声楽を選ばれたのですか?
小川原 私と声楽との出会いはまったくの偶然だったのですが、企画を提出する2ヶ月ほど前の冬休みの間に、自分自身が今まで学んでいなかったことを学んでみたくて、大学の冬休みのクラスを取ろうと検討していたんです。心理学か声楽のクラスが面白そうだと思っていたんですが、どちらの分野もそれまで専門的に勉強したことがなかったので、先生方に「初心者ですが、何か問題がありますか?」とメールを出してみたんです。そうしたらたった1人だけ返信してくれた先生がいて、しかも「welcome!」と書いてありました。それでその先生の声楽のクラスをとることにしたのですが、それが今回のコースの先生であるクリストファー・フリッチー先生だったんです。実は私は歌うのは好きだったのですが、ずっと「私には大きな声は出せない」と思っていたんですね。高校のクラス対抗の合唱コンクールなどでも、いつも指揮者に「もっと大きな声で歌って」と言われるくらいでした。でも、どうしても出ませんでした。それで声楽のクラスの一番はじめにクリス先生から「このコースでマスターしたいことは?」と聞かれたので「大きな声で歌いたい」と答えました。声楽の授業は4回あったのですが、その最後のレッスンの時に、リハーサル室全体に響き渡るような大きい声が、本当に、突然出たんです!ワークショップ形式のグループレッスンですから、実際に個人個人が指導を受けられるのは、1回の授業で一人あたり10分足らずなんですが、ちょっとずつ声が変わっていって最後に自分でも驚くほど大きい声が出たので、とても面白かったですね(笑)。びっくりしてしまいました。
― このコース企画には実体験がおありになったんですね。
小川原 そうなんです。本当に、先生から「こんな風に意識して」とか「ここを見て」とか「身体の使い方はこう」とか色々と指導されるままにやっただけで、突然バーンと大きい声が出たので、私もびっくりしたんですが、見ている周りもびっくりして(笑)。
― 自分でもどうして大きい声が出たのか分からない、という感じだったんですか?
小川原 そうです、今ではもちろん理論的なメカニズムも分かってきて、どうして大きな声が出たのか分かるんですが、その時はメカニズムについては教わる時間がなく、ただ先生の指導のままにやったら出来たので、まるで「マジックみたい」と思いました。
― それではもしも、小川原さんがご経験したように、メカニズムが分かっていない生徒さんが声楽のレッスンを受講されたとしても、先生の指導の通りにやっていれば、独りでに声が出てしまうということでしょうか?
小川原 声が出てしまうんです、これが(笑)。
― 不思議ですね(笑)。
小川原 そうですね、それがあまりにも不思議な体験で面白かったので、このクラスが終わったあとにも少しずつレッスンを受け始めたんです。そうしたら、やはり声がどんどん変わるんですね。今まで表現出来なかったことが、テクニックが付いて出来るようになるんです。本当に楽しくて。何が1番楽しいかというと「自分でも気付かなかった全く専門外の分野でさえこんなにどんどん成長できるんだ!」と思うと、毎日がより刺激的に感じられるようになったんです。
そういう体験が自分であったので、私は声楽の初心者だったんですけれども、声楽の初心者の方にも体験していただきたいと思いました。また、声楽の上級者への指導を見ていても、科学的でとても論理的に説明されているのが印象に残ったんです。ほんの2,3音歌っただけでも、すっと止めて「今の2音目が違うよ」と言われるんです。それで「こんな風に違う」と理由も言ってくれるんです。「こんな風に意識して、こんな風に身体を使ってごらん」と指導されるんですが、それで出来なかったら、「じゃあ、こんな感じで」「じゃあ、こんな感じはどう?」と次々に引き出しから出てきて、その人に合った指導にあった時に、声がガラッと変わるんですね。
― それは初心者の方でも、上級者の方でも変わるのですか?
小川原 はい、声が綺麗に響く一線があって、その線を越えた時に周りで見ていてもはっきり分かるくらい変わります。私は物事を論理的に理解したい方なんですが、先生に質問をすると、必ず的確で科学的な答えが返ってくるんです。
例えば「歌ったその時に発声器官で何が起こっているんですか?」と質問すると、「身体をこんな風に使うと発声器官にこんな影響を与えて、こんな声が出るんだよ。それをするためにはこんなエクササイズが必要なんだ」って3段階で答えが返って来て、「この人は凄い指導者だな」と思って、それでこの声楽レッスンを他の方にもぜひ経験して欲しくてプログラムを作りたくなったんです。
― なるほど。受講した人が何か問題があった時に、論理的に理解ができるので、自分で工夫できるということですね?
小川原 はい、そうですね。でも自分で工夫するというよりは、言われたとおりにやっていると自然に出来てしまう感じです。声楽を習っている人と話をすると、(先生に)「違う」と言われて、でもどうすれば出来るのかわからなくて、フラストレーションがたまったりするということがあると聞いたりします。私の場合、クリス先生のレッスンで求められたことを出来ないままに帰ったことがなかったので「そんなことがあるんだ」と逆に不思議でした。
― 凄い先生ですね。この先生はどんな方なんですか?
小川原 クリス先生は、2歳で初舞台に立たれました。ピーターパンというミュージカルのウェンディの弟が持っているテディベアの役で舞台を引き摺られる役だったのだそうです(笑)。その後7歳でギターを初めて、普通高校に通いコーラスで歌い始められました。その時に歌の楽しさに目覚められて、ソノマ州立大学の音楽学部で声楽を学ばれました。その時はテナーを歌われていて、色々なミュージカルでリードロールなどをされていたらしいです。卒業後、それまで遊びで使っていたカウンターテナーを、ある人に「貴方のカウンターテナーの音域はプロとしても通用するよ」と言われたのがきっかけで、レベルの高いアメリカのクラシック界のアカペラで最高峰にあたる、男性12人のアンサンブルグループ『シャンティクリア』のオーディションを受けて見事合格されたそうです。
以来11年に渡って、世界各国で1000以上のコンサートに参加されました。この間、来日公演も行われています。日本の歌で「さくらさくら」とか、「ソーラン節」とか歌われます(笑)。これらの音楽をクラシック的に歌われますので、とても面白いです。また、先生はシャンティクリアでグラミー賞を2回受賞されています。日本でも何枚かCDが発売されていますし、中世の古典曲から、ゴスペル、ポピュラー、スピリチュアル、ジャズまで、ほとんど何でも歌いこなすんですが、このシャンティクリアはそのハーモニーの完璧さから、「声のオーケストラ」と呼ばれています。私も初めて聴いた時に、「これは人間の声じゃなくて、楽器だな」と思いました。
― クリス先生の現在の活動というのはいかがですか?
小川原 2003年からはソロのアーティストとして活動される傍ら、ソノマ州立大学音楽学部声楽科で教えてらっしゃいます。また、2年前から新しいアンサンブルも結成されて、そちらでも歌われています。
― ますます活躍の場が広がっている感じですね。
小川原 そうですね、この間も新聞に写真が大きく載っていました。
― それは凄い方ですね。カウンターテナーの方なんですね。
小川原 はい。ソプラノの音域ですね。
― カウンターテナーと言えば、日本では米良美一さんですよね。
小川原 そうですね。カウンターテナーは特別な人だけが出せるという印象が強いですが、実は男性はだいたいその音域の声を持っているんですよ。気づいていないだけで。なので、クリス先生に習っている声楽科の男子学生はわりと平気でカウンターテナー音域を出しだりします。でも、先生はバリトンやテナーでも歌われます。音域によって全く違う音楽表現をされるのも面白いです。新聞の評論でクリス先生の声について「クリスタルのようなソプラノと叙情的なバリトン」と書いてあるのを見たことがあるのですが、うまい表現だなと思いました。
― クリス先生はどんなお人柄ですか?
小川原 とても穏やかな方です。声楽科の中でもとても人気のある先生ですよ。「クリス先生に習っている」と声楽科の生徒に言うと、大概の人から「あぁ、彼はいいよね!」と返ってくるくらいです。生徒がクリス先生への評価として共通して挙げるのは、「一人一人の生徒をきちんと尊重する姿勢をいつも崩さない」とか、「温かいユーモアのセンスが抜群であること」、「どのレベルの生徒に対しても、その生徒が理解して覚えていられるような指導の仕方をしているところ」こういうところが生徒の尊敬を集めているのだと思います。
― 例えば、レッスンの時に生徒が出来なくて怒ったりということはありますか?
小川原 怒ったりとかいうことはまるでないです。出来ないことはつまりその人にとっての課題点なので、どういう風にアプローチしよう、というのを一所懸命考えられるんです。出来ないのは別に私のせいではないし、そこは次のステップに行くために解決すべき問題だから、解決するにはどうしたらいいのか、一所懸命にアプローチされているのが分かります。
― 先ほど、初心者から上級者まで、と言われたのですが、例えば音楽をはじめたばかりとか、音大に行っていないという方の受け入れというのはどうなんでしょうか?
小川原 私が受け入れられたぐらいですから(笑)。
― このコースを受講したいと思った時に気を付けるようなことはありますか?
小川原 はい、失敗を恐れないことだと思います。初心者も上級者も、新しいことを学ぶ時というのは、試行錯誤は付き物だという風に思うんですね。コツを掴めるまでやり過ぎて失敗したりも当然します。変な声が出ちゃったりとか、声が裏返っちゃったりとかする時もあります。でも自分が無難にできる失敗しない範囲にとどまっていて思い切ってやってみることをしないと、次のステップにつながるような新しいことはなかなかマスターできない。このクラスでは失敗や間違いがどんどんできるようにとてもサポーティブな雰囲気が保たれています。それは、失敗や試行錯誤が必要だと考えられているからです。だから、思いっきり試行錯誤して、間違いながら学んでください。
― 日本人は「間違うのは怖い」という気持ちが強いと思うんですが。
小川原 そうですよね。でもよく見ていると、アメリカ人でもやっぱり間違うのは怖いと思っていることがわかります。だからちょっとひいてしまう様なところは誰にでももちろんあるんですけれど、クラスでは間違った人を笑うようなことはないし、がんばって間違ってください(笑)。
― そのほか、気をつけることはありますか?
小川原 英語力を問わないで参加してはもらえるんですが、先生の話をきちんと聞き取ったり、聞きたいことを伝えたりするには、英語力があるに越したことはないです。なので、出来るだけ英語力は付けて来られることをお薦めはします。
― 参加可能期間はどうですか?
小川原 5週間完結プログラムなのですが、最短1週間から参加できます。
― レッスンは週に何回ですか?
小川原 週1回、1時間50分のワークショップと、週2回のプライベートレッスンです。
― それでは日本の受講生の方に一言お願いします。
小川原 このプログラムは未経験者から音大以上のレベルまで受講者のレベルは問いません。また、音楽のジャンルも問いません。参加条件は歌うことが好きで、能力を伸ばしたいと思っていること。先日、「このクラスを通じて伝えたいことは?」とクリス先生に聞いてみました。「歌うこと、歌のテクニックを伸ばすことというのは、レベルとか年齢に関わらず誰にでも出来ることです。貴方がやりたいと思っているのであれば、貴方のこれまでの音楽や声楽の経験に関わらず、とてもやり甲斐があるものだと思います」と言われていました。
― ながい間ありがとうございました。
千々岩英一さん/ヴァイオリン/パリ管弦楽団副コンサートマスター/フランス・パリ
「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はフランスでパリ管弦楽団副コンサートマスターとして、パリ地方音楽院およびパリ市立音楽院教授としてご活躍中の千々岩英一(チヂイワエイイチ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2009年3月)
ー千々岩英一さんプロフィールー
東京芸術大学音楽学部附属音楽高校を経て同大学を卒業後、フランス政府給費留学生としてパリ国立高等音楽院に学び、審査員全員一致の一等賞を得て卒業。田中千香士、数住岸子、ピエール・ドゥカン、オリヴィエ・シャルリエ、フィリップ・ヒルシュホルン、ワルター・レヴィンの各氏に師事。1998年よりパリ管弦楽団で副コンサートマスター。パリ国立地方音楽院およびパリ市立音楽院(パリ13区モーリス・ラヴェル音楽院)教授。ソリストとしてドナウエッシンゲン音楽祭(ツァグロセク指揮フランス国立管弦楽団)、パリ・シャトレ座のパリ管弦楽団定期演奏会、東京シティフィルハーモニック管弦楽団の定期演奏会などに出演した他、室内楽奏者としてベルリン芸術週間、「パリの秋」音楽祭、ルーヴル、オルセー美術館室内楽シリーズ、イギリス・オールドバラ音楽祭など多数演奏。CDはスカルコッタス作品集 (Bis) 、ノーノ、ラッヘンマンの弦楽四重奏曲(仏Assai)、マルク・アンドレ・ダルバヴィの協奏曲(エッシェンバッハ指揮パリ管、仏Naive)などが出ている。
-初めに簡単にご経歴をお願いします。
千々岩 1969年に東京に生まれ、5歳からバイオリンとピアノを始めました。10歳からバイオリンに専念するようになり、東京芸大の付属高校、東京芸大と進み、その後、パリ国立高等音楽院に留学しました。音楽院在籍中にパリ管弦楽団の副コンサートマスターになって、今年で11年目です。
-バイオリンを始められたきっかけは何ですか?
千々岩 はじめにピアノを習った先生のお姉さんが、芸大をオーボエ専攻で出た方だったんですが、バイオリンも教えておられていたんです。それで、せっかくだから両方習ったらいいのではないか、ということで、始めました。僕は、習い始めてすぐに、「自分はピアニストになる」と決めていたんですが、8 歳くらいのときに、ピアノの先生から、「ピアノで食べていくのは難しいから、バイオリンに専念したほうがいいのでは」と言われて、バイオリニストの先生(小林久子氏)について仕方なくバイオリンに集中するようになりました。
-そんなに早くからプロになる道を考えていたんですね!
千々岩 音楽家の家系ではないのですが、父親も母親もとても熱心でした。音楽に憧れがありつつも自分ではできなかったという想いがあったのだと思います。僕自身、バイオリン、ピアノに関わらず、小さい頃から音楽がとても好きだったので、「これを職業にしたい!」と思ったのも、だいぶ早かったですね。
-それでは、8歳のときに先生から「ピアノでは食べていけないわ」と言われたときは、ショックでしたか?
千々岩 先生(平尾はるな氏)はパリ音楽院で勉強されて、プロの世界をよく知っている方でした。先生からしたら、男がピアノでコンサーティストをやっていくには、よっぽどの飛び抜けた才能がないと難しいと感じたのではないでしょうか。その点、バイオリニストなら、オーケストラでも弾く機会があるので可能性があるのではないか、という話だったんです。もっともそのころはオーケストラなんて、TVで見るくらいで生で聴いたこともないし、興味ありませんでしたが。
-そこからは、もうバイオリンを中心に学んでいかれたのですか?
千々岩 そうですね、10歳からはバイオリン一本でした。ピアノは高校の副科で再開するまでは先生には付かず、自己流で弾いていた程度でしたが、今でも、本当はピアニストになりたかったという恨みは残っています。やはりレパートリー的には魅力的な楽器ですから。ピアノをあきらめたときは悲しくて激しく泣いたことをいまだに覚えています。
-パリにご留学されたのは何歳のときですか?
千々岩 大学の四年生のときです。卒業するまで待つとパリ国立高等音楽院の年齢制限に合わなくなるので四年の秋に入試を受け、その時には芸大の必修単位は卒業試験以外ほぼ取り終わっていたので、半年間のうちに数回パリと東京を往復して芸大も卒業しました。
-ご留学を考えるようになったのは何歳のときですか?
千々岩 国際コンクールを受けるために、18歳のときに初めてヨーロッパに渡ったときにヨーロッパの文化に初めて接し、その空気の中で生活したいという気持ちを強く持ったんです。それから、講習会などに参加するようになり、留学を具体的に考えるようになりました。
-初めからフランスへの留学を希望されていたんですか?
千々岩 最初はロシアへの留学を考えていて、大学時代はロシア語も学んだりもしていました。ところが、当時のロシアでは、留学の学生ビザが下りなかったんです。他の可能性を考えたときに、初めて教わったピアノの先生や大学でのバイオリンの先生(田中千香士氏)がパリに留学されていたこともあってフランスには親近感を覚えていたので、ロシア以外だったらフランスを留学先として自然に考えるようになりました。
-どのように師事する先生を探されたんですか?
千々岩 国内の講習会で、ピエール・ドゥカンというパリ国立高等音楽院の教授と知り合いまして、留学を大学3年と4年の間の春休みに決めました。パリのオペラ座のコンサートマスターを長く勤められた方で、講習会で接した演奏も素晴らしく、留学が決まったときはとても嬉しかったです。東京では壁にぶちあたっていたので、心機一転、いちからやり直す気でした。
-パリ国立高等音楽院というとトップレベルの学校ですが、入試はどんなものでしたか?
千々岩 年齢制限があって、バイオリンの受験資格は22歳までだったんです。僕は、当時2か月ほど22歳を超えていたので本来なら資格がなかったのですが、先生が音楽院と交渉してくださったんです。その結果、特別に許していただいて入試を受けることができました。フランスの場合、なにか規則に引っかかって実現が無理なように見えても、交渉次第でなんとかなることがよくありますね。入試は、そんな事情もあったので他の受験生がだいぶ若く見えました。
-留学前にフランス語の勉強はされていたんですか?
千々岩 大学の第一外国語をフランス語でとっていました。学校で学ぶフランス語は文法中心で、会話のテクニックはほとんどこちらに来てから覚えたという感じです。
-そうすると、入学後に語学の面で少し苦労されましたか?
千々岩 フランス語はなかなか発音が難しくて、自分では文法的にきちんと話しているつもりでも、通じていないことがあったり(笑)。いまではパリ音楽院の入学資格の条件のひとつにフランス語能力もあるようですし、当時の音楽院のカリキュラムでは、フランス語を習う時間というのはまったくなかったので、友だちと会話する中で、実地で学んでいったという感じです。
-ご留学後、日本の音楽とフランスの音楽で感じた違いは何でしたか?
千々岩 日本だと、合奏をしてもまず縦の線を常に意識するところがあると思うんです。パリ音楽院の選択授業でグレゴリオ聖歌を一年間やったときに、横に流れていく音楽を実感しました。そのとき特にフランスでは、縦の動きよりも横の動きへの志向が強いのかもしれないということを肌で感じました。
-フランスの音楽というのは、色彩的できらきらしているイメージがありますものね。
千々岩 そうですね、それはドビュッシーやラヴェルが活躍した時期が、印象派絵画の最盛期だったのでそれらが短絡的に結びついて、フランス音楽イコール印象派という先入観をあたえるからかもしれないですね。僕はとくにフランスものだけが色彩感が豊かというわけではないと思います。
-なるほど。パリ国立高等音楽院は何年間、在籍されていたんですか?
千々岩 いわゆる普通の大学のコースだと当時のカリキュラムとしては卒業のために最低3年、最高5年かかりました。そのあとに日本語に直訳すると完成科という課程がありました。その課程を直接受験することも考えたのですが、そこは大学院というよりもむしろディプロマコースのような感じで、バイオリンだけに専念するコースだったのであまり興味がわかなくて、まずは本科で3年間学びました。専門楽器のレッスン以外に楽曲分析、室内楽、オーケストラ、合唱(混声合唱、またはグレゴリオ聖歌)が必修、在学中にシステムが変わってオプションで指揮や即興、エクリチュール(書法)など興味に応じて単位を取ることができるようになりました。バイオリン科を卒業した後、バイオリンの完成科に2年いて、その後、カルテットで室内楽の完成科に2年いました。
-計7年の間、在籍されたのですね。
千々岩 日本を発つときから、将来はいずれフランスで仕事を見つけて食べて行こうと思っていたので、様子を見るためにもなるべく学校には長く在籍した方がいいなと思っていたんです。やはり、すぐに食べられるようになるわけではないし、学生をしながら少しずつ演奏活動をして、仕事に繋げていこうと思っていたんです。さいわい両親も協力的で、フランス政府の給費が三年で終わった後も援助を続けてくれました。結局、6年目にオーケストラに入って、音楽で食べて行けるかどうかとても心配していた両親を安心させることができたことが、何よりも嬉しかったです。
-一番最初からパリ管弦楽団ですか?
千々岩 はい。最初から今のポストで入団しました。
-すごいですね。フランスでオーケストラに入団したいと希望する方は多いと思いますが、履歴書を送って推薦状をもらってテストを受けられるという感じですか?
千々岩 ドイツなどはそうだと思いますが、フランスの場合は割ともっとオープンで、誰でも受けられるんですよ。例えば、オランダなど他のヨーロッパの国では、ヨーロッパの市民権を持っていないと受けられなかったりもしますが、フランスではそんなことはなくて、外国人でも誰でも受けることはできます。例えば、日本に住んでいて紹介状がなくても受けられます。要は楽器さえ弾ければ入ることができるんですよ。
-募集の情報は、どういったかたちで手に入れることができますか? 大々的に公表していますか?
千々岩 音楽雑誌に掲載されていたり、音楽院に行くと募集のポスターが掲示されています。あとは、今はインターネットで見ることができるようになっていますね。どのオーケストラのウェブサイトにも求人のコーナーがあります。
-千々岩さんが受けたオーディションはどのような様子でしたか?
千々岩 僕が受けたのは、ソリスト(首席)のオーディションだったので、受験者自体がそれほど多くありませんでした。一次でイザイの無伴奏ソナタ、課題のオーケストラスタディを弾いて、二次はブラームスのコンチェルト、さまざまなスタイルのオーケストラのソロ、三次試験でバッハの無伴奏ソナタとオーケストラスタディ、ソロを弾きました。パリ管で既にトゥッティで在籍しているひとが10人くらい一次免除で二次試験から加わったと覚えています。
-そもそもパリ管弦楽団のオーディションを受けたきっかけは何ですか?
千々岩 どうしてもパリ管に入りたかったというわけではなく、あと1年しか学校に籍を置けないことがわかっていたので、その
間にとにかく空いている席を受けないと、フランスを去らなければいけなかったんです。ですので、切羽詰まって仕方なく、ですかね(笑)。
-では、当時、他のオーケストラのオーディションも受けられていたんですか?
千々岩 オペラ座のオーケストラの第一コンサートマスターの席も受けました。そのときはうまく弾けなくて、途中で落ちてしまいました。そのちょうど2か月後が、まったく違うプログラムでのパリ管の試験でした。二回の試験の間にアパートで部屋の模様替えをしたときにギックリ腰になって一週間くらい動けなくて辛かったことを覚えています。オーケストラの募集について言えば、自分が受けたいときに自分に適した席が空いているかどうかわかりませんし、せっぱつまれば火事場の馬鹿力も出てくるし、運の善し悪しがかなりあると思います。
-ドイツではオーディションのときにカーテンがあるという話を聞きますが、パリ管ではいかがでしたか?
千々岩 ないですね。他のオーケストラでもあったりなかったりだと思います。そのあたりは、毎回変わると思います。
-例えば、日本人が有利な面や不利な面はありますか?
千々岩 試験官の立場で審査するときに、とくに人種差別があると意識したことはありません。ただ、先入観は働くでしょうね。日本人の場合、クリーンに弾ける以上に何かないと難しいとは思います。
-そうなんですね。
千々岩 受かっても、その後半年から一年の間、試用期間があるのですが、その間にアウトになる人もけっこういるんです。外国人だとコミュニケーションの問題がある場合が多いんですよね。
-なるほど。そういう意味で、演奏以外のパーソナリティも重要視されるんですね。
千々岩 そうですね。パーソナリティと言われても、何をしていいか分からないから、本人は結構きついです。フランス人の場合、初めにエキストラで弾いて、ある程度オーケストラ独自の雰囲気が分かってから試験を受けて入ることが多いと思うんです。エキストラに呼ばれるためには一度入団試験を受けて好成績を残したり、先生からの紹介などが必要になります。僕の場合は、オーケストラの中に一人も知っている人がいなかったので、心細い感じはありました。ただ、その前にフランスの現代音楽のアンサンブルで仕事をしていたので、そこでの経験がオーケストラに入ったときに役に立ちましたね。それがなかったら、多分、中に入っていくのが難しかったのではないかなあと思います。
-今では、パリ管弦楽団の仕事の他に、パリ地方音楽院、パリ市立音楽院でも指導されているんですよね?
千々岩 はい、パリ地方音楽院(CNR改めCRR)は3年前にパリ管の首席コンサートマスターのドガレイユさんのポストを引き継ぎました。また、パリ市の音楽院でも教えています。パリ市には20区まであって各区に音楽院があるのですが、13区で指導しています。ここはパリのなかでは規模、レヴェルともに一二を争う学校のようです。
-いろいろな国の生徒さんに教えてらっしゃるのですか?
千々岩 日本人の生徒さんもいます。CRRは初めたときは6人生徒がいたのですが、そのうち3人が日本人で、あとはフランス人が2人、アメリカ人が1人でした。市立音楽院ではフランス人4人。
-アメリカ人の生徒さんに教える場合は、授業は英語ですか?
千々岩 いえ、フランス語です。英語は以前にくらべて話せなくなってしまいましたね。話してもフランスなまりの英語になってしまいます(笑)。
-今でも日本人の生徒さんは多いのですか?
千々岩 どこかの音楽院に登録して滞在許可をもらっている学生が、プライベートで僕のところにもレッスンを受けにくるという感じです。最近は、日本人に限らずオーケストラの入団試験の準備に来る人も多いです。
-なるほど、なるほど。
千々岩 せっかくフランスに来るのですから、フランス人の先生にフランス語で習うというのは、妥当なことだと思います。フランス人の先生とフランス語で話すというのは大切なことなんですよ。フランスに来てレッスンだけの学校に入ると、グループレッスンでもないかぎり音楽の話をフランス語でする機会というのが極端に少なくなってしまうんです。フランス人は、わりと排他的で、外国人の友だちを積極的に作りたいと思っている人はあまりいません。こちら側から積極的に話しかけていかないと、なかなか向こうからは仲間に入れてくれません。
-千々岩さんはどうされていたのですか?
千々岩 僕の場合は、室内楽をフランス人と演奏することで、だんだんと人の輪が広がっていった、という感じです。
-千々岩さんにとって、音楽とは何でしょうか?
千々岩 僕にとって音楽はコミュニケーション・ツールです。フランスに来たばかりで、言葉が出来ない頃でも、音楽を通してだったらコミュニケーションがとれているという実感はずっとありました。ですので、音楽も言葉の一つという意識が強いです。
-長い間、パリで活躍してこられたわけですが、これから先の目標があれば教えてください。
千々岩 実は、自分がやりたかったことは、もうほとんど実現してしまったんです。現代音楽をすることもできたし、カルテットをする夢もかないました。それから、コンチェルトを弾くという目標も果たすことができました。これまでに自分が積極的にしてこなかったことで言えば、録音を残したいなと思っています。自分の企画でアルバムを残したいですね。これが、外面的な目標です。もっと内面的なことで言えば、演奏の際に音楽とよりいっそう一体化できるように、深めていきたいと思います。
-最後に、留学を考えている方にアドバイスをお願いいたします。
千々岩 自分で求めることがあれば、環境が整えば得ることができます。でも、何がやりたい、と具体的に求めることがないと、どうにもなりません。それは日本でも同じだと思います。とりあえず行けばなんとかなる、ということはありません。
-具体的にやりたいことを定めてから留学をしたほうがいいということですね。
千々岩 言葉が通じないなど、外国に来ると壁が立ちはだかることもあるかと思いますので、そこで味わう辛さにくじけない強さが必要になってくると思います。今は、情報がかなりあふれている時代で、留学生のブログなどを目にすることもあるかと思います。そこに書かれているのを読むと、おいしいもの食べて、コンサート聴きに行って楽しそうだな、なんて思うんですが、負の部分は、なかなか目にすることができないのではないかと思います。また、留学をしたからといって、それでいきなり自分がグレードアップされるわけではないということも、肝に銘じておかなければなりません。
-千々岩さんご自身は、そういった留学後の言葉が通じない辛さはどうやって乗り越えられましたか?
千々岩 僕は、逆に日本にいる頃、居場所がない感覚を感じていたんです。だから、居場所をどうしても見つけなきゃいけないという思いで日本を出たので、言葉が通じないという状況に対して、あまり辛いとは感じませんでしたね。試練の一つと思っていました。ただ、振り返ってみると、僕は友だちに恵まれていたんです。外国人の友達、そして日本人の友達。よく「言葉を覚えるために、わざと日本人とは関わらないように努力する」なんて話も耳にしますが、僕は、日本人の友達もすごく大事だと思います。やはり苦労を共にする同志ですから。無理して排除するのは、気張っていて大変だなぁ(笑)と思います。
-偏らないのが大事ですね。
千々岩 本当にそうですね。若い生徒たちを見ていると、初めは友だちもいなくて、暗い顔をしているんですが、みんな伸び伸びとやっていますよ。それぞれ交流ができて、だんだん明るくなってくる、パリがだんだん自分の庭になってくる、それが目に見えて分かるんですよ。
-そういった精神的な成長とともに音楽も変わってきますよね。
千々岩 うん、それはあると思います。僕は日々を生きるうちに感じること、見聞きすることのひとつひとつすべてがフィルターになって音に表れると思います。個性というのは、無理矢理見つけなくても自分の中から滲み出てくるものだと思います。だから、普通に自然体でやっていくのがいいと思います。
-今日は本当に貴重なお話をありがとうございました。
注)パリ国立高等音楽院を目指す方は最新の情報を必ずご確認ください。2008年に改革がありカリキュラムが大きく変わっています。
坪井悠佳さん/ヴァイオリン/チューリッヒ国立高等音楽院ザハール・ブロンアシスタント/スイス・チューリッヒ
「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はスイス、チューリッヒ国立高等音楽院で世界的名教師ザハール・ブロンのアシスタント兼講師/演奏家としてご活躍中のバイオリニスト坪井悠佳(ツボイユカ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「ヨーロッパで学ぶバイオリン」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2005年9月)
ー坪井悠佳さんプロフィールー
東京生まれ。4歳よりヴァイオリンを始める。14才でイギリスのユフディ・メニューイン・スクールに留学。メニューインに認められメニューイン指揮フィルハーモニア・ハンガリカとモーツァルト協奏曲第三番を共演。メニューインの80歳記念コンサートやウィグモアホールでのコンサートに出演。メニューイン設立の慈善財団に所属し病院や施設などでコンサート活動を行っている。そのほかスイス、イタリア、スペイン、イスラエル、オーストリア、シンガポールなどで演奏会を行う。スペインのサラサーテ国際ヴァイオリンコンクール第二位、チューリッヒ、キヴァニス・コンクール・ヴァイオリン部門第一位、パドヴァ国際音楽コンクールソロ部門、室内楽部門共に優勝、ヤマハ奨学金、マイスター奨学金受賞など数々の国際的な賞を受賞。ロンドン王立音楽院を経て現在スイス、チューリッヒ国立高等音楽院で世界的名教師ザハール・ブロンに師事しアシスタントを務める。また弦楽四重奏GALATEA QUARTETを結成しヨーロッパ各地で出演予定。ウィーン・マスタークラスとモーツァルテウム夏期アカデミーで教える。現在最も優れたバイオリストであると同時に後進を育てる教育者でもある。
ー 坪井さんの経歴をごく簡単にご紹介していただけますか?
坪井 最初桐朋学園の子供のための音楽教室に行っていたんですね。それからイギリスのメニューインスクールというところへ14歳のときに行きました。それは全寮制の音楽学校でした。そのあとに卒業はしなかったんですけども、3年間英国王立音楽院に行きました。そして現在チューリッヒの国立音楽院でザハール・ブロン先生のアシスタントをしています。
ー ずいぶん早い時期から海外にでているのですが、何か興味を持ったきっかけがありましたか?
坪井 小学校卒業した時は日本にいたんですけど、そのあとシンガポールにうちの父が転勤になったんですね。それでシンガポールに中学校から2年間行っていたんです。小学校は桐朋だったもので、そのあと中学校に戻って桐朋の高校の音楽科を受ける予定だったんですが、外国にかなりちょっと興味を(笑)。
ー もうもっちゃったんですね(笑)。
坪井 はい。いろいろ知り合いの方に聞いてもらって、イギリスに全寮制の音楽学校(*注:メニューインスクール)があるというのでそこに行きました。
ー それは音楽をやりたかったんですか?
坪井 そうですね。私から行きたいと言いました。
ー 何かきっかけみたいなのはありましたか?
坪井 桐朋の高校の音楽科を受験するつもりだったので、夏期講習を受けに日本に帰ってきたんですね。そのときに昔ついていた先生にお願いしたんですけども、その方にずいぶん日本にいた時と変わっているし、もう帰ってくる必要ないわよって言われて(笑)。もう私が留学しているということは伝えてあったんですけれども、その学校を先生もご存知で、行ってみたらということになって、イギリスに行くことになりました。それで母がお友達でドイツに住んでいる方に聞いて手紙を書いたらオーディションに来ないかという返事が学校から来まして、すぐイギリスに行ったんです。
ー 音楽というといろいろジャンルがあって、通常、若い時期って、若い時期というか子供の時期って、結構ポップとかロックとかに惹かれていくと思うんですが、そうではなかったんですか?
坪井 そうですね。イギリスの学校は寮で、いつも部屋をシェアしていたんですね。同世代の女の子たちと一緒に生活していたんですけれども、その子の影響でラジオや今はやりの音楽は聞いていましたけど、クラシックが小さい時から自然なものになっていたのでそういうほうに興味がありました。もちろんポップスなど聞くのは楽しかったですけれども興味は湧かなかったですね。
ー ご両親は音楽家でした?
坪井 そうですね。うちの母は音楽学をやっていてピアノも弾いていたので小さい時は一緒に弾いていたりしました。
ー じゃ、本当に小さい頃から音楽が身近にあったのですね。
坪井 そうですね。割とそうかもしれない。うちの家族は音楽を聴くのは好きです。
ー 坪井さんはイギリスとスイス・チューリッヒの2ヶ国に留学されていますよね。実際に留学するにあたってそれぞれいい点と悪い点とあると思うんです。イギリスだったらこういう所とか、スイスだったらこういう所とか、そういう事があると思うんですけれども、それぞれ簡単にこういう所が良かったなとか、こういう所が悪かったなとかそういう所があったら教えていただいてよろしいですか?
坪井 メニューインスクールというのは全寮制の学校で、みんな一緒に生活するんですね。その中で普通の授業もありますし、大学などの機関もその中でやっていたのですけども、とても密度の高い留学生活というかみんないつも一緒にそこにいるので。
ー ずっと一緒ですもんね。
坪井 そうですね。だから普通、留学したらどこかに住んで大学に通うとかそういうことですよね。ここは全寮制なので本当に密度の高い、いつもなんというか音楽に触れているという感じですね。最初の頃は、本当に良かったなと思います。友達も音楽をやっているので。
ー もう音楽づけという感じですか。
坪井 づけですね。
ー そのあとに行かれたロンドン王立音楽院はどうでしたか?
坪井 ロンドン王立音楽院に行ったのは、先生についていった形でした。それ以外は、私はそこにあまりいい思い出はないのですけれども(笑)。メニューインスクールというのは本当田舎にあるんです。ロンドンから電車で3、40分行ったところなんですね。そこの駅からずいぶん遠いところで本当に田舎なんですね。王立音楽院というのは街の真中にあって、コンサートに行くにも美術館に行くにも何をするにも近いところでした。そういう意味ではカルチャー的にいい環境だったと思いますけれども、そこでは普通の音楽大学生活を送ったと思います。
ー メニューインスクールでは日本人はいらっしゃいましたか?
坪井 私が行った当時は全部で50人くらいの学校でした。8歳から18歳までの。日本人の方はあと3人くらいいました。
ー その方はどうやってこの学校を選んだりしたのですか?
坪井 大体親御さんが誰かを通じてこの学校を知ったという、そんな感じでしたね。
ー ロンドン王立音楽院は、いい思い出が無かったというのはあんまり学校に満足しなかったのですか?
坪井 そういうわけではないですけれども、留学期間が長くなってきて、このままイギリスにいるのか、それとも他の国に行くのかというのを迷った時期だったんですね。イギリスは、大体10年間いると労働許可を申請できるんです。5、6年いたところでこのままイギリスにいるか、また先生のことも悩んでいてもうちょっと違う先生にしたいなと考えていたんです。それでイギリスで探すのか、どこか違う国で探すのか迷っていた時期でした。
ー スイス・チューリッヒの学校が浮かんできたのはどうしてですか?
坪井 ドイツの夏期講習に一回行ったときに習いたい先生に会ったと感じました。その方が新しいクラスをチューリッヒの音楽院でするのでよかったら来ないかということで、そちらに行きました。私もあともう一年でロンドン王立音楽院を卒業ということだったんですけども(笑)。三年間行ったんですが、結局それも無視して(笑)。
ー もったいないといえばもったいないですよね。
坪井 そうですね。でもチューリッヒのほうで卒業できたらしたいなと思ったので。王立はやっぱりあんまり好きじゃなかったんでしょうね。それで教師の資格をとって、そのままチューリッヒに今もいます。去年の9月にやっとソリストディプロマをチューリッヒで取りました。その前の学歴は小卒だけだったんですよ (笑)。
ー 師事する先生を選ばれたのは、知っている先生がいて夏期講習を受けたのですか?
坪井 メニューインスクールで会った先生で、いい先生だなとその時も思っていました。王立に行くときについていった先生が、前にお世話になった、すごいいい先生だという話をしていてそれで夏期講習に行ってみようかなと思いました。
ー スイスを留学先とすることで何か重要なことはありますか?
坪井 先生をやっぱり見極めることが大事かな。私がチューリッヒで習った先生はもともとミュンヘンで教えていたらしいのです。本当に気に入って教えてくれるのならミュンヘンに行こうかなと思っていたんですけど、たまたまその先生がチューリッヒに行ったのです。夏期講習などを利用して先生と知り合うなり、友人を頼りにしてどういう人がいるのかを知るのが一番いいですね。
ー スイスには、日本人の方は結構いらっしゃいますか?
坪井 チューリッヒと隣のウィンタートゥーアという町があるんですね。そこの学校がオーケストラなどで一緒にプロジェクトをしたりします。チューリッヒには、日本人は20人くらいですね。結構チューリッヒに住んでない方もいらっしゃって、他の国から時々通っていらっしゃる方もいますし、ウィンタートゥーアのほうはちょっとよく分からないのですけど20人近くいるんじゃないですかね。
ー スイスいいですものね。
坪井 中都市なりにもいろいろな催し物があるのでその点はいいです。
ー ヨーロッパは音楽的に盛んな国、例えばウィーンやドイツなどがあると思うのですが、特にどこかの国でやれば良いとか、どこかの町でやったほうが音楽的に有利とか、そういうのはあるのですか?
坪井 もちろんウィーンなどは本当にいろいろコンサートもたくさんあり、代々音楽家が活躍した場で、もちろんそういうのに触れて音楽活動するというのは夢のようですね。ただ、留学にあたっては、私にとってはいい先生についてそこから音楽活動するという事が重要でした。そういう意味でオーストリアやドイツもちろん魅力的ですけれど、別に国や街はあまり関係なく、音楽的に密度の高い環境にいる事が重要だと思います。
ー 現在は、スイスが主なお仕事の場所でしょうか?
坪井 それがまた元の話に戻るんですけれども、スイスへ師事したい先生についていたのですが、彼女が1年後に突然病気になってしまったんです。それで彼女についていた9人の学生もみんな路頭に迷っている感じになってしまいました。それでどうしようかウィーンに行こうか他の国にもあたってみようかと思っていた最中に、非常に有名な今の先生のザハールブロン先生がチューリッヒにいらっしゃることになったんですよ。
ー それはすごい。もちろん、今までザハールブロンはいなかったのですよね。
坪井 はい。彼はケルンとマドリッドの音楽院でずっと教えていたんですけども、結局友人の方の紹介で今度スイスにいらっしゃることになったということです。今までメニューインスクールにもいらしてたし、お友達も先生に付いていたので、先生のお話はもちろん聞いていました。ただ、有名な先生なので私にあうかかなり心配だったんです。ロシア流のなんとかとか、いろいろどうなるか心配だったんです。でも実際ついてみると、本当に基本を極めるじゃないですけど、音楽の原型を崩さずにどうやって教えるかというのを極めていらっしゃる先生だったのですごく良かったです。
ー じゃ本当に基本を忠実にして土台作りをしっかりしようという教え方なんですね。
坪井 そういう教え方ですね、基本的に。なんというかな、音楽のエッセンスをどうやって伝えるかという教え方だったので。もちろん自分の理論を押し付けるという面はまあちょっとありましたけれども(笑)。でも、それを自分で選択できるという形にはなっていたので、先生が言っていることでいいなと思っていることはやるし、別に必要ないと思ったことはあえてやらなかったし。
ー ディスカッションをしながらやっていく感じですね。
坪井 そうですね。先生も日本に何回も何回もいらした方だし、日本語もかなり達者なので。その中でいろいろ楽しみながらディスカッションという感じですね。それで現在は、先生のアシスタントなんですね。
ー 通常オーケストラや室内楽などもスイスで行っているのですよね?
坪井 私は弦楽四重奏をかなり積極的にやっていて、スイス人の方と結構頻繁にしています。
ー 留学をする方は、留学することが目的の一つであると思うのですが、その後に仕事をしたいと思う方は多いと思うのです。スイスで仕事をするにあたってどういうふうにすればプロとして活動できるのですか?
坪井 そうですね、私のカルテットの場合で言ったら結成した後すぐにコンクールを受けました。そういう機会を与えてくれるコンクールなどに入賞すると結構連絡があります。また、新聞に載るのでそれを見てもらうなどですね。でも、結構人づても多いですよね。もしかしたら大体人づてかもしれません(笑)。
ー やっぱり人なんでしょうか、一番は。
坪井 クラシックを好きな方は結婚式とかパーティーでクラッシック音楽をやってくれないかというのがあるのです。チェロの人が、そのような仕事をやっている仲間だったんですね。それが延長して、コンサートなどの連絡を受けて契約書作ってというようになっていきましたね。やっぱりスイスではかなり人づてが多いと思います。
ー スイスで仕事をするにあたって、日本人が有利な点もしくは不利な点はありますか?
坪井 日本人の方はだいたい時間に遅れてきたりするなどはまずありません。皆さん、一生懸命練習してくるので、変な演奏をしないというように信頼さていることもあります。演奏の面でなくても、まじめさという面で日本人というのはだいたい信頼されていますね。
ー 僕のイメージだとスイス人も含めてドイツ系というのは結構硬いですよね。それでも遅れてくるような人がいらっしゃるんですか?
坪井 スイス人は大体時間どおりに来ますね。スイス人は本当にそういう面ではきちっとしてます。でもその他の人種がねー(笑)
ー ラテン系ですか(笑)
坪井 そうですね。すごいですよ。人によるんでしょうけど(笑)。
ー 坪井さんはクラシック音楽を小さい頃からやってきたと思うのですが、そういう方にとってクラシック音楽ってなんでしょうか?
坪井 小さいときから慣れ親しんだのですが、クラシックはいろいろな事がまざって人が作り出したという感じがすごい好きですし、本当に出会ったことに感謝しています。
ー 少し話をもどさせていただくのですが、いろいろな国があってスイスを決めるという部分。先ほどウィーンなども引き合いに出しましたが、スイスを留学先に決めることで何か良かったと思うところはありますか?
坪井 学校からいろいろ頼まれたり、本当にいろんな事をさせてもらったのでそれはすごく良かったと思います。イギリスでは私はあんまり大学でそういうことをさせてもらったことはなかったので。メニューインスクールでは何でもやったんですけど、そういう面でも人づてというのはあるんでしょうけどね。
ー なるほど。
坪井 人を通して知り合ってそこからいろいろ始まるというのが。
ー あるということですね。ところで坪井さんの将来の夢を聞かせていただいてよろしいですか。
坪井 学校で先生のアシスタントという教えることを始めて、それが意外なことにすごく好きになっています。今はアシスタントなので、先生がいないときに補助をするという形です。自分がいろいろな方の役に立てるのは本当にうれしいと思っていますので、今後、自分でもこの部分を伸ばしていきたいと思っています。将来的にどこにいるにしても、今と同じように大学などで教えることを基本にやっていきたいと思っています。
ー 演奏活動をメインにするよりは、教えることをメインにしていくということですか?
坪井 両方ですね。でも教えることは本当に興味があります。二つの夏期講習会に先生と一緒に行ったのですね。そこでかなり興味も沸いたし、いろいろな人と知り合えるのは良かったです。
ー 先ほどから聞いていると人と知り合うことがお好きなようですね。どういう形であれいろいろな人と知り合っていくことで自分がどんどん面白くなっていくという事ですね。
坪井 そうですね。でも人と知り合うには、やっぱり語学力も必要ですね。最初にスイスに来た頃は知り合いも少なかったですし。
ー ドイツ語ですもんね。
坪井 ええ。だんだん慣れていって信頼を得るというか。信頼関係ですからね。
ー だいたいどのくらいかかりました。ずいぶん友達も多くなってきたなと思ったのは?
坪井 そうですね。最低2年ですね。
ー その位は必要ということですね。
坪井 スイス人は、イギリス人も同じところありますけど、最初はあまり信用しないですよね。遠めで見ていて、ああ、あいつは大丈夫だ、みたいになっていくと思います。そうやって試しているのでしょうね。多分。ラテン系の人だともうちょっと最初からフレンドリーだと思いますけど、ドイツ系の方はちょっとまあ離れて見ていますね。
ー 坪井さんにとって海外で、ヨーロッパというのですか、ミュージシャンで活躍する秘訣みたいなもの、成功する条件みたいなものはあるとお考えですか。日本人として。
坪井 海外ならもとの話になりますけど人と知り合うことですね。人脈を他の面でも広げていきたいのだったら本当にインターナショナルな環境に恐がらずにいることです。いろんな方と知り合うというのにはいろんなプロジェクトに参加するなり、面倒くさいことでも色々やってみて友達になって、その輪を広げていくとか。そういうことも大切だと思います。
ー やっぱり輪を広げていかないと物事って何も進まないですもんね。いろんなところから仕事も入ってこないだろうし、人間的にも大きくならないですよね。
坪井 電話番号回してもらうじゃないですけど、いろいろなところに可能性を広げていくとか、本当にそういうのがうまい方っていらっしゃるんですよね。でも押し付けているんじゃなくて、わきまえてちゃんとやっている方というのがいらっしゃって、見ていてすごいなと思います。まあ、あんまりやると….ですけど(笑)。でも面白いと思います。
ー 面白いですよね。どんどん人が広がっていくのって。スイスの場合でもイギリスの場合でも能動的でないと、自分のコネクションを広げられませんか?
坪井 それはそうですね。もちろんその場にいることも大切です。その場というのはいろんな事があると思うのですけど、コンクールなり、集まりなりそういうことに自分から働きかけていかないと、来てくれるわけでもないですからね。来てくれる場合もあるでしょうけど、いろんな方に話しかけたり、まめな方がかなりいいですね。
ー まめな方でないと結局いろんな人を知ることはできないですからね。最後に今後留学される方にアドバイスを頂いてよろしいですか?
坪井 とにかく自分ということをしっかり持って留学することが一番だと思います。いろいろな失敗をしても自分で選択したことだと思うと後悔しないと思うのですよね。何かやり遂げたときは自分でやったと思うと成長したなと感じるでしょうし。留学する時点になって友達などに頼る面があっても、それからは自分でやっていかなきゃいけないので、まず自分からというのが一番大切だと思います。
ー 分かりました。日本人は性格的に、消極的になりがちで、それが美徳になっています。坪井さんはスイスで教える側の立場に立って、そういうのが見えていると思うのですが、典型的に見て日本人はヨーロッパでは消極的な感じがしますか?
坪井 やっぱりそうですね。向こうの子達というのは本当に良く質問してきますし、そういう意味では違う性格だとは思います。しかし、それを無理に積極的にするように押し付けるようになっても日本人のいいところはいいところだと思います。そういうところが外国人の方達に気に入ってくれるかも知れないですしね。そういうものは結構大切にした方がいいと思います。でも、そればっかりだと何にも出来ないですけれども。控えめなところは控えめにして、それでも自分でちゃんとやっていくということでしょうね。
ー 今後の演奏会の情報を教えていただいてよろしいですか。
坪井 パドヴァというヴェネチアの近くの町でリサイタルがあります。(2005年)11月、12月は結構カルテットのコンサートがあります。一つがドイツのシュトゥットガルトです。来年の1月にはチャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルトをアルメニアで弾きます。1月に施設のコンサート、2月、3月はピアノとデュオのリサイタル、4月はチューリッヒトーンハレで室内楽のコンサートがあります。
ー わかりました。本当に最後に留学する方にこれだけは言っておきたいなというところはありますか?
坪井 将来のビジョンって自分の中でいろいろ変わってくると思うんですけど、私なんかも全然変わってきちゃったんですね。でも細部は変わったけど大きいビジョンはあまり変わっていないように思います。そういうことを思い描くことも大事かと思います。例えば何年留学したいのか、日本かもしくは海外の活動を広めていくのか、演奏でやっていきたいのか教えるのかそれとも両方か。この二つでなくとも色々な可能性はあります。私がシンガポールにいたころは大きい夢だけを頭の中で描いていたような気がします。
ー ビジョンが大切ということですね。ありがとうございました。
霧生貴之さん/トランペット/イタリアフィルハーモニー管弦楽団/イタリア・ピアチェンツァ
「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はイタリア・スイスでご活躍中のクラシックトランペット奏者・霧生貴之(キリュウタカユキ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「イタリアでクラシックトランペットプレーヤーとして活躍するには?」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います(インタビュー:2005年8月)。
ー霧生貴之さんプロフィールー
桐朋学園大学トランペット科卒業。G.二コリーニ国立音楽院卒業。チューリッヒ国立高等音楽院卒業。桐朋学園大学在学中から国内のオーケストラにエキストラとして出演。第5回カザルツァ・リグレ国際コンクール管楽器部門及び独奏部門総合1位、第10回リヴィエラ デッラ ヴェルシリア国内コンクール2位。イタリア音楽院在学中からピアチェンツァのイタリアフィルハーモニー管弦楽団で演奏するようになる。現在はミラノ・ジュゼッペ・ベルディ交響楽団、パルマ市立歌劇場オーケストラ、チューリッヒ交響楽団などのオーケストラで演奏する一方、ソロやアンサンブルなどでもイタリア・スイスを中心にヨーロッパで活躍中。今秋(2005年)より北イタリアを代表する金管五重奏団Golliwogg Brass Quintettoメンバー。現在最も有望なクラシックトランペット奏者である。
ー 音楽に興味をもったきっかけは?
家は音楽家の家庭で、母がピアニストで父もトランペット奏者だったものですから、僕の場合は母がトランペットをやらせたかったというのがありますね。僕も周りの環境で音楽家になるんだと小さい頃から自然に思うようになりました。だからすごく必死にやるとかそういうのはなかったですけど、英才教育で天才少年とかいうのでも全然なかったんですけど、小さい頃からなんとなく、いずれ音楽家になるんだろうな、と思いながら育っていましたね。僕は一番最初にトランペットという楽器を手に持って試したって言う記憶がないんです。気がついたら楽器が家に転がっていて、気がついたら吹いていたという感じですよね。だから最初吹くのが大変とかそういう記憶もないんです。
ー 最初からクラシックだったんですか?
父親がクラシックのトランペットプレーヤーだったので、ジャズなどは個人的には好きですけど、僕は一度もそちらの方に関心を持ったり、プロフェッショナルとして興味を持ったことはないですね。ピアノなんかもわりと小さい頃から始めましたけど、それはもう音楽大学に入るためにピアノをやっておかないといけないからという事でやっていたような感じでした。あんまりまじめにやってませんでしたけど(笑)。
ー 日本の大学にいかれたんですか?
最初日本の音楽高校、桐朋学園に入って、大学まで卒業しました。その後、大学の先生がドイツで勉強をしていたので、その影響を受けて留学するつもりでドイツのほうに行きました。でもコネクションがなかったので、僕の興味のあった人が、来日したときに楽屋に駆けつけてあなたの元で勉強したいんですけど、と言ったら、じゃあとにかく住所を渡すから、演奏のテープを送ってくださいと言われてました。それで、演奏テープを送った後に連絡を取り合っていたんですけど、ドイツのカールスルーエというところで、入学試験を受けたんですけど、受からなかったんです(笑)。
ー なにか受かりやすいとかあるんですか?
今言いますと、そのドイツのカールスルーエというのは多分ドイツの中でも一番入るのが難しいと思うんですよ、トランペットのクラスになると。本当にドイツで一番有名な学校で、僕はそのときまだそこまで難しいものだというのは理解していなかったんですけど、まあ、自分が好きだというのの一心で行ったんです。その人に師事したかったので。その後、日本に帰ってきたんですけど、親と喧嘩をして僕は家を出ることになったんです。大学在学中からフリーランスで日本のプロフェッショナルのオーケストラのエキストラの仕事や、他の仕事はあったので、一人暮らしをしながら生活を続けていたんです。ただ僕にとっては留学というのは僕にとっては必要なことで、親とは喧嘩はしましたけど、親も僕もその点については意見は同じだったので、1年半ぐらいたって、親が「そろそろもし留学をしたいんだったら、もう一回チャンスをやろう」という話になりました。それで、もう一度何とか勉強できるところを探そうということになりました。
ー すでにプロでやっているのに再度留学したいと思ったのはなぜですか?
僕の場合、トランペットを吹くという点で根本的に問題があって、それがどうしても日本では解決できなかったんですね。音を出すということに問題があったんです。日本では、いままで勉強したやり方で何とか仕事はこなしてましたけど、そのやり方では何年も伸びてなくて、限界があったんですよ。トランペットの奏法って言うのはいろんな方法があるわけです。簡単に言えば正しい吹き方をしていれば伸びますけど、どこかに問題あるわけですよ。それを修正するためには一度やりなおさないといけない。仕事をしながらというのは難しいですね。仕事での失敗は許されませんから、必然的に今までやった奏法のほうが安全なわけです、リミットがあったとしても。仕事をするためにはある程度吹ければ良いですけど、自分の音楽性をもっと伸ばそうとしたらそれ以上のものを要求しますので、そこの壁にあたっていたのですね。
ー 仕事では挑戦ができないということですよね。
そうですね。いい奏法に挑戦するというコンディションは日本で仕事をしながら作れなかったわけです。それが一つの理由であるのと、母親が音楽家でやっぱり留学をしていましたから、ヨーロッパに来ることが、音楽家として勉強にもなるし、欠かせないのでは、と言うことでした。
ー 実際留学しようとしたときはどこに決められたんですか?
そのときはまだちゃんと決めていなくて、まずは先生探しの旅行をしました。旅行にあたって、何人かの人を訪ねて、ドイツのトロッシンゲンの音楽大学の先生とコンタクトが取れて、そこに夏に来てもいいよということになったんですね。その後に人生を大きく変える出来事がありまして、母親が教えている音楽学校がイタリアのピアチェンツァという町の音楽学校と交流を結んだのです。母親がその音楽学校の校長先生がいらしたときに会食をする機会がありまして、ある日突然母親から「イタリアのコンサルバトーリオ(音楽院)に校長先生を知っているんだけど、イタリアというのはどうなの?行ってみたらどう?」といわれたんですね。その時点で僕にとって留学のスポンサーは母親です。ここで「いや、でもイタリアっていうのは知らないし、いいよ」と言って、機嫌を損ねるとまたこの話がおじゃんになるかも、というのが頭を掠めたんですよ。そこで「うん、わかった。じゃあとりあえず行ってみようか」と思わず言ってしまったんです(笑)。そういうことってないですか(笑)?子供は子供でプロジェクトを立ててるけど、でも、そういうときに限って親が全然違うプロジェクトを持ってくる。日常でもたくさんあると思うんです。それで、ドイツに行く前にイタリアに行くということになったんです。ここでもすごく不思議なケースだと思うんですけど、その校長先生に連絡をとって、音楽院にいい先生はいらっしゃいますか?と聞いたら一人先生を紹介してくれたんですね。その先生にコンタクトとったら、その先生というのが自分で金管アンサンブル(トランペット、トロンボーン、ホルンとチューバ)を自分で持っていて、自分で演奏会を企画したりして、すごくアクティブに活動している方だったんですね。それで、何月に来るんだといことで、8月の何日と何日、9月の何日と10月にはベルギーで演奏旅行があるので、今トランペットが足りない状況だから、是非それに出て欲しいと突然いわれたんですね。一回プロフィールみたいなのは送りましたけど、僕はそれまで演奏テープを出してもいなかったので当然驚きます。ただイタリアなので、どこまで本当か分からないけど、行ってみる価値はあるんじゃないかと。あんまりひどいようだったら、イタリアに絶対いなきゃいけないわけではないし、ピザでも食べて、オペラでもみて、また移動すればいいだけの話だ、ぐらいに思っていたんです。
ー 実際に行かれたんですよね?
ええ。そうしたら、逆にとても興味深くて、最初のうちは演奏会とかありましたけど、やっぱり時間がとても自由でリフレッシュする時間がすごくありましたね。イタリアはある意味何もないので、頭の中を真っ白にして、もう一回立て直すというか、僕にとってもそういう時間がとても必要だったんですね。
ー イタリアは良かったんですか?
そうですね。とりあえず僕にとっては良かったですね。この状況を続けることは悪いことではないな、と。すごく将来のことが見えていたわけではないんですけど、今のコンディションがすごくいいので、続けることは悪いことではないなと。その間にいい友人にたくさん出会ったりしましたし、イタリア人の友人と出会って、すごく助けていただきました。僕の先生にあたる人が、面倒見てくれよということで少し英語の話せる人を何人か紹介して頂いたんです。今の一番親しい友人になっていますけど。
ー 最初にかなり多くの人に助けていただいたんですね。
日本人の方は全く知り合いがいなくて、一人イタリアに長く住んでらっしゃる方がいて、コンタクトを取るときにいくつか手伝っていただいた程度で、後はほとんどイタリア人の方に助けて頂きました。ピアチェンツァの街には日本人がほとんどいなかったので、周りのイタリア人たちも初めての経験なわけですよ、外国人を助けるというのは。
ー 珍しかったんですか?
そうですね。しかもトランペットというのは僕もイタリアに長く留学していますけど、まず聞きませんから。
ー 通常トランペットというのはドイツが多いのですか?
間単に言いますと、オーストリア、ドイツ、フランス、アメリカですね。いろんな派があって、メソッドがありますので、日本でどんな先生についていたかとか、どういう影響を受けたかによっても変わってきます。だからイタリアというのは非常に珍しいですね。イタリアのコンサルバトーリオは4月に入学願書を出して、試験が6-7月ないし9月にあるんです。僕は8月に来ているので当然入学願書も出してないし、入れなかったので、一年待つことになったんです。ただそこで、校長先生が許可を出してくれました。聴講生システムというのはイタリアのコンサルバトーリオではありえないんですけど、校長先生の許可というレベルで、授業やレッスン、その他の全てのものに参加する許可を出してくれたんです。次の年に入学するという条件の下に。ただ。ここでちょっとしたハプニングがありました。一年間待って準備した入学試験の日にその頃仕事をしていたウディネフィルハーモニー管弦楽団の仕事と重なってしまったんです。ウディネはピアチェンツァから400キロ以上離れています。それを先生に話したら“しょうがないな、何とかしてみるよ”と言ってくださってなんと無試験で入学させていただきました。(笑)
ー 結構とんとん拍子に進んでいますね?
そうですね。ただ警察のことで大変だったりしました。僕はツーリストビザでイタリアに入国していたので、滞在していい期間が3ヶ月なんです。それで警察にもう3ヶ月イタリア人からの招待があったので、伸ばしたいという事を申告しようと思ったんです。それをやるのに、ピアチェンツァから朝4時半の電車に乗って、6時から8時半に警察の門の前に並んで中で再び並び終わるのが12時、イタリア語もほとんどわからない状況で、それを3回やる羽目になったんです(笑)。蓋をあけてみると、やらなくても良かったんじゃないかという気もしますが、あの時点で不法滞在になる可能性を考えるとやるしかなかったんですよね。
ー その後音楽院に入られて、どのくらい通われていたんですか?
イタリアの音楽学校というのは科目によって通う年数が違ってくるんです。イタリアの音楽学校は音楽大学ではなくて、音楽院なので、ピアノだったら10年、ヴァイオリンだったっら8年という年月を勉強しないといけないんですが、飛び級ができるんですね。トランペットに関しては5年ですね。歌は6年かな。でもそれはどういうことかというと、学校入学時に楽器が演奏できる状態じゃない人も入るわけです。逆に言えば5年でトランペットが吹けるようになって、卒業しないといけないんですね。
ー 最初に演奏できない方も来ているてわけですね?
イタリアのシステムでそこに問題があることもありますが、そこで天才的に伸びる人も中にはいますよね。
ー 人によって、年数は違うということですね。
そういうことですね。僕は結局長くいたいということで、3年で卒業したのかな。(トランペットのコースは)5年のところを3年で卒業しましたね。
ー その後卒業されてオーケストラに入ろうということだったんでしょうか?
98年の11月から今のオーケストラの仕事をいただくようになりました。ドイツなど場合は、システムがイタリアに比べてすごくしっかりしているんですね。どんな街にもオーケストラがあって、まあ就職先ということになると思うのですが、給料がもらえて、そこに就職したら、生活ができるということになります。でも、イタリアはそういうシステムがほとんどないに等しいんですよ。ピアチェンツァのオーケストラに所属してますが、毎月の給料としてはもらえないんですね。要するに歩合制ということです。もちろんオーケストラのメンバーなので、何か用事があって演奏ができないときは自分がこの日はいけませんと事務局に言いに行かなくてはいけなんです。すごく簡単にいうとフリーランスに近いので学生でも実力があれば可能なんですね。
ー オーケストラの仕事を取るためにどういうアクションを起こしたんですか?
団長というか、一番偉い人が、ピアチェンツァのファゴット科の教授をしていました。彼はオーケストラの中ではもう演奏はしていないんですけど、オ−ガナイズをしていて、彼のコンセプトの中にでピアチェンツァ出身の人で集めるオーケストラというのがあって、ピアチェンツァのコンサルバトーリオの中でめぼしい人がいると、必ずチャンスを与えてくれるんですね。たまたますぐにチャンスがあったわけではなかったので、あなたのオーケストラで仕事をしたいのですがオーディションの機会はないですか、と自分からインフォメーションをしました。彼はオーディションはないけれど君がいることは知っているから、電話番号を残してくれれば、もしかしたら機会があるかもしれないと言われたんです。しばらくそのままだったんですけど、チャンスがあったとき話を下さったんです。
ー 実際に日本とか他の国のオーケストラでの仕事を考えたりはしますか?
もちろん世の中何があるか分からないですから日本の事は常には考えていますが、現実的に日本に今すぐ帰るかというと難しいですね。実際今ピアチェンツァのオーケストラで仕事をしていますけど、他のもたくさんのオーケストラで仕事をしてるんです。有名なオーケストラだとミラノ・ジュゼッペ・ベルディ交響楽団からよく仕事を頂きますね。この間お辞めになったのですが、リカルド・シャイーが指揮をしていた楽団です。97年の11月に新国立歌劇場のこけら落としで、ワーグナーのローエングリーというオペラをやったときに1ヶ月エキストラでオーケストラに戻ったんですが、それを機に日本に帰らなくなってしまいました。97年から今まで(2005年8月)、唯一帰ったのは2003年10月にベルディ交響楽団日本ツアーがあったときに連れて行ってもらっただけですね。
ー 日本よりイタリアの方がやりやすいというのがあるんですか?
良く分からないですが、仕事でもコンクールでも自分で取るものではないと思うんです。コンクールに勝つ、と言いますが、頑張ったから勝ったわけではないと思うんです。自分の意思ではなくて他の人があなたが勝ったんだよ、って言うわけですよね。仕事だって、あなたに仕事頼みますよ、って他の人が言うわけです。結局普通に生活している状態で、もちろんただ家で練習していたら、電話がかかってくるという単純な問題ではないですけど、そういう部分があると思うのです。結果として僕にはイタリアにいれば仕事は確実にありますから、今日本に帰るよりも確実にイタリアにいるほうが仕事があるわけですね。
ー イタリアのオーケストラに外国人はかなりいるのしょうか?
イタリアの場合、外国人の多いオーケストラと、イタリア人ばかりのオーケストラとに分かれます。外国人がオーガナイズしているオーケストラもあるわけです。これは変り種なんですが、ある時期ミラノにたくさんのロシア人の人が来る時期がありました。そういう人たちが地元に根をつけていくと、ロシア人で演奏会を企画するようになって、彼らの所に直接仕事が来るようになります。僕がそのようなオーケストラに行った時はイタリア人の優秀なバイオリン奏者が一番後ろの方にいて、コンサートマスターとか、チェロのトップの人などの主要な人は全員ロシア人で、練習中もみんなロシア語という感じでした(笑)。イタリア人もここは一体どこなんだという感じで、その中ではおとなしくしているしかないですよね(笑)。
ー そういう風にいろんな国の人と演奏してきてイタリア人に一番影響を受けたことはどのようなことですか?
一番大事なことは、どのようなスタイルで演奏するかという事です。キャラクターが演奏する作品にあっているかどうかということが彼ら(イタリアのオーケストラ)にとって一番最初にくることなんです。一番最初に来るのが、音程でもリズムでもないのです。僕たちがやっているのは音楽です。ということは、どういう音楽を演奏するかというところから始まるわけです。楽譜に書いてあることを正しく演奏するというところから入るのではなくて、どういうキャラクターの音楽をこれから演奏するのかというところから入るんです。
ー 日本の場合はどうでしたか?
日本は楽譜に書いてあるとおり正確にという感じですね。正確というのはメトロノームがいくつ、シャープがいくつ、十六分音符があったらそのとおりの音をとります。でもそうじゃなくて、どういう音楽だからこの十六分音符を詰まらせなきゃいけないとか、そういうところから判断するわけです。
ー みんなでディスカッションするのですか?
まあ、それをまとめるために指揮者がいるのですが。でも、そのオーケストラの癖もありますし、ベルディはみんながうるさくなります。特に僕の住んでいる所からベルディが生まれた所が近いのということもあると思います。パルマでの仕事もありますが、パルマはほんとにベルディにうるさいですね。パルマのベルディは、ウィーンでいうウィンナワルツみたいなものですから。
ー 日本にいる時とイタリアにいる時と大きく違うのは気持ちの部分から入るということですか?
基本的にいろんなことが違いますけが、仕事をしていて一番違うなと思うのは、日本のオーケストラは練習の1回目の時がものすごく良いんです。そのあとに指揮者がいろいろ言い出すとだんだん悪くなっていく(笑)。要するにみんなが集中して完璧を目指した時が一番良くできるわけです。それが何回も繰り返していくうちにだんだん新鮮味がなくなっていくというのでしょうか。イタリア人は初日の演奏は本当にひどいですよ。1回目にうまくいかなかった人が2回目も同じように悪かったりしますから。音を間違えてメージャーの和音のところを1回目にモールで吹いて、2回目もまたモールで間違えることもあります。その代わり 1日目から2日目へ行くときに全然良くなりますし本番の時に一番良くなるようにみんなもって行きます。
ー やっぱりそこを目指して山が上がっていくという感じですか?
それは意識的なものではないと思います。彼らがそこまで意識的に考えているとはとても考えられません(笑)。やっぱり音楽を演奏するというのはとてもエネルギーのいる作業です。それは本番で出すもので、練習のときはあまり出さないものなのでしょうね。自分が演奏するという段階と練習しているという段階との意識の違いだと思います。
ー 音楽活動をしていく上でこだわりを持っていることはどのような事ですか?
一番大事なのは、音楽に対してどういうコンセプトを持ってやっているかということが自分の頭の中でクリアかどうかだと思います。バロックをやるときはバロック、ロマンティックをやるときはロマンティック、モダン音楽の時はモダン音楽のようにそれぞれどういうものが必要かということです。例えば、ウィーンの音楽をウィーン風にウィーンの人たちが納得するように演奏することができるかどうか分からないのですが、そういうことではなく自分の中でウィーンの音楽はこういうコンセプトなんじゃないかということが自分の頭の中にそれがあることが重要ではないかと思います。 霧生貴之さんトランペット奏者
ー 音楽活動しているときに最も興奮することがどういうことでしょうか?
オペラが好きなのでいい歌手と演奏しているときで、特にイタリアオペラの盛り上がるときは興奮しますね。オーケストラの中でトランペットを演奏しない時間もたくさんあるので、そんなときはピットの中にいならがものすごい興奮してますね(笑)。聞き入っています(笑)。
ー お客さんの拍手はそんなに影響はないですか?
オペラなどのピットにいる状態というのは、あまり影響はないですね。
音楽家として僕はこういうふうに考えているんです。オーケストラももちろんやっているのですが、トランペットとオルガンや金管五重奏などのソロや室内楽の活動を行うときが結構あります。音楽家としての演奏活動というのはそういう所でやる音楽なんです。オーケストラというのは、プロフェッショナルなものだと思うんです。仕事なわけです。オーケストラで演奏する事に対して思い入れがありすぎると、破綻がくることがたくさんあるんです。例えば、指揮者の要求と自分の好みがあわなかったり、同僚がよく吹けなかったり、いろんな場合があります。自分の調子が悪いとか、そんな場合に破綻がくるんです。
ー オーケストラの場合は一人でやるものではないですからね。
そうですね。オーケストラというのは本当に会社と一緒だと思います。役割があってそれをいかにちゃんとこなせるかということです。一番重要なのはオーケストラでは他の人達と同じ感じ方が出来ているかということだと思います。自分がうまく演奏できたかどうかというはそんなに重要ではないんです。全体的なものなのでそれがうまくはまっているかどうかということだと思うんです。全員が同じように感じれなかったらオーケストラはうまく機能しないと思います。
ー やっていて面白いのは、オーケストラというものはないんですね?
やはり留学などをして何を勉強しているかというのは、オーケストラではなくてソロのレパートリーに対しての音楽的解釈を高めるとか自分の新しいレパートリーを広げていくとか、新しいジャンルの新しいスタイルを身につけるとか、そういうことを僕はやりたかったんですね。ソロやグループの時は音楽的なディスカッションができるんです。オーケストラというのは時間も限られているし、人数もたくさんいますからそう簡単に自分の意見を言うべき場所でもないと思うんです。そういうことをまとめるのが指揮者の仕事ですから。もちろんパートをまとめるに当たって言わなければならないこともたくさんありますけど。
ー 霧生さんにとってクラシックや音楽とは何でしょうか?
トランペットを演奏して音楽を感じて音楽を楽しめるということは、自分の人生の中で「生きる」ということの一つだと思います。「生きる」というエネルギーの中に含まれる一つのパーツだと思います。これが全てではないですけれどもね。
ー 将来の夢というのを聞かせていただけますか?
夢というのは難しいですよね。僕はあまり夢というふうには考えたことないんです。どうしてかというとまず最初はここ半年、数年やらなくてはいけないプロジェクトがありますよね。そういうことを考えるという事が僕が夢を考えるという事と繋がります。夢というのは動かないものではないわけです。ある場所にいるときに、その方向で一番遠くにいけるのはどこかなって考えるのです。そして一番のびそうなところを伸ばしていきます。だからその場その場によって変わってくるわけです。そこに行った時にどうするかということが大切だと思うのですね。僕にとって一つの所を目指してそこに行くというのはかえって進むのが難しいことになるんじゃないかと思います。夢というものは物事を固定してしまうのでは、そのような固定するという観念が僕にはなんじゃないかと思うんです。
ー なるほど。遠くに何かを持って進むというのではなく、今この場で一番遠くに飛べる場所をたえず選んでいるということなんですね?
そうですね。それが僕にとって音楽活動をするにあたって現実的なことなんです。自分にとって自分が満足できることが夢の最終的なコンセプトではないのかなと思います。夢はなんのために持つのかというと夢に到達できたら幸せになれるとることや満足できるということなわけですよね。ということは何が夢かということではなくて、自分がその活動によって満足できるかということだと思うんです。
ー 海外でミュージシャンとして活躍する成功する条件というのは何かあるとお考えですか?
海外かどうかは分からないんですが、音楽家というのは人間的に成熟していない方が多いのではと思うのです。僕が言いたいのは、音楽家も社会人じゃないですか。音楽家だろうが画家だろうが警察官だろうがペンキ塗りだろうが社会人なわけです。ペンキ塗りだから社会性がなくていいというわけではないわけです。社会人であれるということがやはり仕事に繋がると思います。音楽家は、すごい欠けてるわけではもちろんないのですが、いろんな小さな所でどこかが抜けているということはあると思います。それぞれ抜け加減が違うのです(笑)。演奏活動をするということですが、音楽的演奏の追求とは全く違います。演奏会というのは企画しないといけないわけです。エージェンシーが常時ついてくれるわけでもなければ自分がそこに行って演奏だけすればいいわけではないんです。そうなったときに他の仕事の事も自分でできないと仕方ないです。誰もやってくれませんから。例えば伴奏する方を探して呼ばなくてはいけません。それでどういう人がいいかという時に、いい演奏家でもその日にくるかどうか分からない人を呼ぶんだったらきちんと来てくれる人を呼びたいわけです(笑)。来ない人と言ってしまうと語弊がありますけど。まあ、実際には、来ない人もいると思いますけど、本当に来ない人というのはあんまりいないですよね。仕事に関するディスカッションにしても自分が思ったことをいつも正直に言うということも都合が悪い場合がたくさんあるわけです。自分が思っていることを言ってはいけないという意味ではなくその時に必要な事をみつけてきちんと言えなくてはいけないと思います。仕事をとるために、仕事をくださいとあちこちで言えとは全然思わないのですが、自分に仕事を下さったときにその仕事はできますよという回答ができて、この人に仕事を頼んだらこの人は仕事ができそうだな、と相手に思わせることが必要だと思います。やはり人と人とはコミュニケーション、話すということでしますからね。ヨーロッパは特にそういう社会人であるということは厳しいのではないかと思います。イタリアで学校を卒業したあとスイスのチューリッヒにある高等音楽院に3年間勉強しに行ったんですね。現在もスイスにも仕事でよく行きます。その時に思うことは、イタリアとスイスはどちらも社会のルールが違います。そういうのを敏感に感じるとれるということは非常に大事だと思います。
ー 海外で留学したいという方にアドバイスはありますか?
留学した人をたくさん見ましたけれど、留学すること自体は大いに結構だと思います。しかし、勉強するのは自分ということを忘れないで欲しいと思います。それは、どんなにいい先生でも、どんなに悪い先生でも結局やるのは自分なんです。先生達がうまくしてくれるのではなく、先生達はよくなるアイディアはくれるかもしれないですが、自分がどうやってやるかということをまず見つけることが大切だと思います。それが分からなければどこにいても何をやっても空回りしてしまうと思います。大事なのは自分がみつかっていればその先はどんどん見えてくるのではないかなと思います。留学ということに関しても留学をしないということを選択した時でもそうじゃないかなと思います。
ー 単純に音楽は留学したほうがいいとお考えですか?
それは非常に難しいです。日本で何をやっているのかもありますしね。ただ僕が一つ言えるのはせっかく生きているのですから、地球があるのだったら、地球のいろんな場所に行ってみることは人生経験として悪いことではないんじゃないかなと思います。もちろん人生経験が豊かでなくていいという人がいるかもしれませんが(笑)、いろんな所にいくのは簡単で非常にいろんな経験ができることではないかなと思います、単純に。
ー 今後の演奏活動を聞かせてください。
8月はバカンスになるのですが、8月の後半から演奏会がクレモナの教会であります。金管五重奏もあります。9月・10月はオペレッタの演奏がスイスであります。その間に室内楽の演奏会がいくつか入っていますね。イタリアはスケジュールが入ってくるのが遅いので、今の段階だとまだ早いのです(注:インタビューは2005年8月1日に行われました)。オペレッタはスイスの仕事だから早いのですけどね(笑)。例えば、4月に友達から電話のメール(SMS)が来ました。11月30日と12月3日と5日空いていないか、教えて欲しいと言われたんですね。ああ、メッセージが来たなと思っていたら15分後に、またメールが来て、できれば今すぐ知りたいんだけど、と言われましたよ(笑)。
ー 本当にお国柄ってありますね(笑)。イタリアはそんなことないでしょうね(笑)。
そうですね。イタリアのスケジュールはまだだからよく分からないんです(笑)
後藤裕美さん/声楽オペラ/プライナー音楽院/オーストリア・ウィーン
音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。
大分県大分市出身。大分県立芸術文化短期大学卒業後、武蔵野音楽大学に編入学、卒業。2001年よりウィーン在住。現在、ウィーンのプライナー音楽院 (Prayner Konservatorium)、オペラ科に在学中。2005年、第7回『別府アルゲリッチ音楽祭』大分県出身若手演奏家コンサートに出演。
(インタビュー 2005年12月)
— 簡単な自己紹介をお願いします。
後藤 四歳からピアノを始めました。ずっとピアノの道で進もうというか音楽教師になりたくて、大学受験まで頑張りました。でも、音楽教育で国立の大学を受けるのは、ピアノだけじゃなくて声楽も必要だったんです。そこで声楽を始めたのがきっかけで、今声楽の道に進んでいます。結局、大分県立芸術文化短期大学に進みまして卒業後、3年次編入で武蔵野音楽大学に入り卒業。それから2年間くらいは東京でまだ声楽の勉強を続けていたんですけれども、やっぱり留学したいということで2001年からウィーンに留学してきました。
— もともとは先生になろうと思っていたのですね?
後藤 そうですね。ピアノをいかしていきたいとは思っていたんです。音楽の先生は、ピアノ弾きますから。
— 転機は大学に入ってからですか?
後藤 声楽という世界を知った大学受験です。高校2年から声楽の勉強を始めたんですけど、ピアノと違って、歌っているとストレス発散になります(笑)。ピアノというのは本当に何時間も練習して部屋にこもってやるというイメージだったので、音楽を楽しむというよりは、少しストレス気味な事もあったんですね。声楽を始めた時にああ音楽って本当に楽しいなというのを感じて、受験にしろ、声楽を始められるきっかけがあったのがよかったです。
— 声楽のほうが圧倒的にご自分にあっていたという事ですね?
後藤 はい。性格的なものなんでしょうか。基本的に目立ちたがり。もちろん舞台に立つ時は今でも緊張するんですけど、人前で歌うことの喜びというか拍手をもらった時の感動というのが病み付きになります。今までいろんな勉強をして、自分が楽しいと思えるものは他になかったですから。
— 留学したきっかけというのは特に何かありますか?
後藤 私の声楽の先生が、若いころウィーンで勉強されていて、ドイツなどの劇場で歌っていました。そういう話を聞いているうちに私もぜひ本場で勉強したいなと思いました。同じ門下生で留学した人の話も聞いて、さらに勉強したい意欲は高まりましたね。
— 日本で大学に入ったことから留学したいな思ったのですね?
後藤 入学した当初はまったく留学のことは頭にありませんでした。日本でずっと育ってきて、海外へ出たこともなかったので、日本から離れるのが怖かったんですね。ただ、卒業後も歌の勉強はもっと続けたい!と思ってはいました。そこで、先生の話や知人の話を聞いて留学のことを考えはじめたんです。
— 大学をご卒業してからしばらくはどうしていたのですか?
後藤 東京で2年間ほどアルバイトをしながら先生の家にプライベートレッスンに通っていました。勇気がなくて、なかなか留学するのを踏み切れなかったんですね。ドイツ語学校には通っていました。
— では語学も日本で勉強してその後にウィーンに行かれたのですか?
後藤 はい。留学する半年前にドイツ語学校に毎日通っていました。でも毎日だったので勉強はなかなか追いつかなかったですけど(笑)。復習も出来ていないうちに先進んでしまう。やっぱりゆっくり勉強したほうがいいだろうなと思いました。
— 日本で半年勉強してだいぶ力はつきますか?
後藤 文法を重点的に勉強したんですけど、聞き取りとかしゃべることは、なかなか上達しませんでした。学校の先生はドイツ人の先生だったんですけど、生徒はみんな日本人ですし、しゃべれなくてもそんなに困ることもなかったですから。
— 留学当初はかなり言葉などで戸惑いましたか?
後藤 戸惑いました。本当に語学学校の帰りは泣いて帰るみたいな日もありました。先生が何言っているか分からないし、語彙力もないので言いたいことも言えなくて。さらに、街にでれば、ウィーン訛りのドイツ語。まったく違う言語かと思いました。それに、外国に住む寂しさもあったんでしょうね。
— どの位たったら慣れましたか?
後藤 半年以内にはもう慣れていたと思います。私は幸いにも同じ時期に留学してきた日本人の方がいたので、その彼女と一緒にペンション生活して。ドイツ語もあまりしゃべれないのに、「なんとかなるだろう」と思うようになりましたね。
— 今通われているプライナー音楽院はどのように見つけられたのですか?
後藤 私のウィーンでの声楽の先生の門下生の方から教えていただきました。その彼女が通っていた学校だったので、見学させてもらったんです。それで自分も気に入りました。
— 最初は語学の習得を目指して、あと先生探しという形だったのですか?
後藤 語学の習得が目的ではなくて、やっぱりウィーンに来て何が問題って、意思疎通が出来ないと学校に行っても何も出来ないと思いました。それで、とにかく集中して語学を初めだけはやってしまおうと思ったんです。日本で私は、先生や学校の情報がなかったので、学校や先生を探す時間が長くかかったんです。もし日本で学校を知っていたらもちろんすぐ通えたと思うんですけどね。
— 学校は、試験は特になくて入れるものですか?
後藤 うちの学校はクラスの先生の前で歌うという形です。その先生がいいと言ったら入学できるみたいな感じです。このVorsingen(オーディション)で、入学は出来ましたね。
— 実力がないともちろん落とされる方もいらっしゃるんですよね?
後藤 私も一体何が基準か分からないんですけどね(笑)。ちょっとオペラをやるには早いんじゃないか、もうちょっと声楽の技術を身に付けてからもう一度いらっしゃいということで、落とされる人はいました。
— 学校のコースもいろいろ分かれていますか?
後藤 声楽だけでも、リート・オラトリオ科、オペラ科、声楽科と分かれています。作曲、ピアノ、楽器、演劇、ジャズなども学べます。
— 同じレベルの方をまとめてレッスンしているのですか?いろいろなレベルが混ざっているのでしょうか?
後藤 混ざっていますね。日本人の方も何人かいるんですけど、日本で大学を卒業してきた方ばかりですね。
— レッスンは大体どういうふうに進められていくのですか?
後藤 私の学校のオペラクラスでしたら週に3日ありまして、月水金の月曜日と金曜日が舞台稽古で、演出をつけて勉強する時間です。水曜日は、コレぺティションといって音楽稽古の時間です。
— 毎回何時間くらいですか?
後藤 月曜日、金曜日が3時から6時。水曜日が3時から7時です。あとはフェンシングと体操のクラスと演劇、オペラの歴史の授業が、2週間に一回あります。私は、日本の大学の単位が(プライナー音楽院で)認められたので、他の授業はなかったのですが、他にも和声などの授業もあります。日本の音大と一緒ですね。
— やっぱりオペラだからグループでやっていくのでしょうか?
後藤 そうですね。グループですね。
— ほとんどプライベートレッスンみたいなものがないのですか?
後藤 また別です。結局みんな他の人たちは声楽の先生は別にいて、学校の先生についている人もいれば、学校以外で声楽のレッスンに通っている人もいるし。声楽のテクニックだけは、みんな別で勉強していく形です。オペラクラスに限って言えば。
— 学校ではオペラの動きなどを勉強していくのですか?
後藤 そうですね。私はオペラクラスですから。声楽科(gesang)といって本当に歌のテクニックを勉強する科もあります。
— もし歌を重点的にやりたい方は声楽科に行ったほうがいいのでしょうね?
後藤 そうですね。学校に自分のつきたい先生がいればですね。
— 学校はどういう雰囲気ですか?日本とはやっぱり全く違いますか?
後藤 違いますね。本当に開けているというか、みんなが自由に音楽を楽しんでいる感じが伝わってきます。日本だと音楽と言ってもやらされている、これをや らなければならない、課題としてこなさなきゃならないという気がしていたんですけど、私の場合ですが(笑)。あとやる気のある人、勉強してくる人に対して すごく先生が熱心です。だから本当にやる気がない人とか、勉強してこないと、どんどんおいていかれる。自分からどんどん動いていかないと、勉強できないな と思います。
— 具体的にはどういうふうにしていったらいいのですか?歌を歌っている時にいろいろ意見を言う、ということですか?
後藤 オペラクラスの授業で、同じ役の人が何人もいるわけですね。それで例えばそこで自分から歌いたいと言わないと絶対歌えない。日本だと順番に、という ふうに大体なるじゃないですか。ここでは、そうじゃなくてたとえ同じ人が何回もやろうがやりたいといった人が勝ち、あとは演出の先生に対して、ただ「はい はい」と言っているだけじゃなくて、どう自分が思うかを言っていかないと相手に伝わらないんです。そうでないと、ドイツ語が分からないのね、と言われてし まうんです。あとは、日本人の遠慮は伝わりません。日本人はすべて、口で伝えなくても、『言わなくてもわかるでしょ?』という気持ちが常にあると思うんで す。でも、言いたいことがあるときは全部、直接口で伝えないと、誰も分かってくれませんね。
— それって最初はかなり戸惑いますよね。
後藤 そうですね。日本とかなり違うと思います。
— その辺は日本の美徳じゃないけど、遠慮がちな部分は捨ててどんどんアグレッシブにということの方がいいのでしょうね。
後藤 やりすぎくらいで丁度いいかもしれません。
— それでへこんじゃう人もいそうですね。
後藤 いそうですね。でも基本的に歌をやっている人というのは、そういうのは少ないんじゃないでしょうか。割と性格的にも明るい人達が多いですからね。
— 学校では主にオーストリアの方が多いのですか?
後藤 そうでもないですね。それはうちの学校だけではなくて全体的に言えると思うのですが、外国人が多いです。オーストリア人ももちろんいるんですけど、外国人の方が多いですね。日本人、韓国人は多いなぁと思います。
— アジアから来ている学生同士も、ドイツ語でコミュニケーションを取っていますか?
後藤 韓国人や中国人の友達とドイツ語で話していたら、周りの人がどうして母国語でしゃべらないの?っていわれますね(笑)。見た目は似ていても違う国なんですよーって言いますけどね。
— いろんな国の人達と交流していて、大変なことはありますか?
後藤 何を話していても、「あなたはどう思うの?」ってすぐ意見を求められることです。日本で、そんなに自分の意見を言う機会がなかったものですから、大変です。『同じです』って言えませんから。
— 視点も広がる感じですよね。
後藤 日常生活から学べることも多いです。いろんな国の友達と話したり、パーティしたり。感情表現が豊かになる気がします。毎日を精一杯楽しむっていう感じが好きですね。感情表現ってすごく大事だからそういう意味でも留学して良かったかな、と思います。授業で、怒る演技をやってみなさい、と言われてやったら、それじゃ何か分からないわと言われたんです。なぜかというと、やっぱり私達は、体で感情を表現することがないからだと思うんです。だから、とても難しい。普段、外国人の友達と話したり、遊んだりすると感情表現の仕方がオーバーアクションだなーとよく思います。でも、そこから日本人とは違うんだなと思って。勉強になります。
— そういう日常から学ぶことって多いですね。
後藤 気がついたら私もオーバーアクションになっていたりとか(笑)。うつっちゃうんですかね。日常生活がオペラです(笑)。
— 日ごろ練習はおうちの中でもするんですか?
後藤 私はピアノを借りていまして、オーストリアにいる日本人の調律師さんから借りて、家で練習できるようにしています。一応夜9時まで大丈夫です。
— 学校行く前にも練習して、帰ってきてからも練習するのですね?
後藤 そうですね。新しい曲だと音を取るのに時間がかかったりしますね。もちろん調子が悪い時には声を出さないで歌詞の意味を調べたりだとか。声を出すだけじゃなくてそういう時間も必要かなと思います。
— やっぱり歌の背景を分かっていなきゃいけないとか、そういう宿題みたいなものも出るのですか?
後藤 宿題はないんですけど、結局やっていないと自分が困るだけじゃないでしょうか。とにかく来週はこれをやるからと言われたらその時に出来なきゃいけないな、と思いますから。理想ですけど。
— 授業が発表の場ですね?
後藤 だといいんですけど。やっぱり一番勉強してくるのは日本人ですね。
— 他の国の人はどうなんですか?
後藤 家にピアノがないから練習できるわけないでしょ?と言われたときびっくりしました(笑)。ここで今音取るんですかとか、授業中ですよ。そういういいかげんさも日本人にないなと思いますね。すべての人がそうというわけではないですよ。本当にいろんな人がいるということです。だからおおらかでないとやっていけない。いちいちカチンときたりしていたら駄目ですね。暮らしていけないですね。
— ウイーンもそうなんですね(笑)。
後藤 うーんそうですね、ウイーンでも(笑)。もちろん学生だからというのもあるんでしょうね。仕事だと、もちろん通用しませんよね。
— でもそのほうが伸び伸び出来る感じがしますね。
後藤 そうですね。伸び伸びやっていますね。
— 学校以外でセッションやコンサートなどの活動もあるのですか?
後藤 割と気軽にみんなコンサートはやっていますね。区で持っているコンサートホールが安く借りられたりしますから。ちょっと何人かで集まってコンサートという形で結構やっています。
— チャリティーコンサートみたいな?
後藤 かごを置いておいて、お願いします、という形でやっていたりとか。もちろんお金をとってやったりする場合もありますね。
— 何か面白い事、良いことが起こった事はありますか?
後藤 私の学校の先生は、ウィーン国立オペラ座で現役で働いている方なんです。それで練習場がウィーン国立オペラ座ということがありました。そういう所でミーハーな私としては非常に嬉しい(笑)。あとは、プロの練習風景を見せてもらったりもしました。フィガロの結婚だったでしょうか。
— 話は変わりますが、ウィーンの物価は日本と比べてどうですか?
後藤 昔は安いと思っていたんですけど、ユーロになってから日本と同じ位なのかなと思う時もあります。
— 食費も同じ位ですか?
後藤 日本と安い物が違うんですね。野菜は安いです。でもレストランとかそういう所に行くとああ同じくらいかなと思うことが多いんですね。でもオペラのチケットとか演奏会のチケットは安いと思います。日本でこれを聞くとなると、いくらするんだろう?ってよく思いますから。オペラを見るのは、いつも立ち見ですが、2ユーロです。
— そんなに安いんですか!
後藤 もう本当に安いんです。毎日通っている方も多いみたいです。日本でいえば300円もしないくらいですよね。それで一流の音楽が聞けるというか、本当にありえないことですね。
— やっぱり音楽環境が圧倒的にウィーンの方がいいですね。
後藤 もう町に根付いているというか、誰とでも音楽の話が出来るっていう感じがするんです。日本だとクラッシックって一部の人たちがやっているものという感じじゃないですか。そういうのではなくて、音楽をやっていない普通のおじちゃんおばちゃんも、モーツァルトの音楽くらい知ってるよみたいな。みんなでそういう音楽の話が出来るというのがいいですね。当たり前に生活に根付いているという感じがします。立ち見でよく会う方におじいちゃん、おばあちゃんっているんですけど、この年でもやっぱり立ち見で頑張りますかと思う時あります。
— 今は大体どのくらいの頻度で行かれているのですか?
後藤 9月から(12月まで)3回くらいしか行っていないですね。ウィーンに来た年はそれこそ毎日のように見ていました。今は、見ていない演目とか、演出が変わった時に行っています。
— 留学して良かったと思える瞬間はありますか?
後藤 演奏会後などに、お客さんですが、知らない人に演奏を褒められたときでしょうか。
— 留学なさってみて日本にいた時よりもこんなところが成長したなというような事は何かありますか?
後藤 自分の意見が言えるようになりました。昔も言っていたと思うんですけど。というよりはイヤなことがイヤと言えるようになったことです。昔は、イヤというかそういう気持ちを出すことが良くないと思っていたものですから。自分ひとり反対意見だったら、どうしようと思うことがなくなりました。結局それで言ってみて、同じような意見の人がいたりとかもありますしね。あとは感情を出せるようになったことです。それはオペラを通じてだと思います。やっぱり恥ずかしさがなくなったということだと思います。
— いろいろ言えるようになったりすると生活自体も楽になってきますね。
後藤 そうですよね。いろんな考えが変わると思います。前向きにというか。
— 日本に戻って来たりすると周囲の人に変わったねとか言われますか?
後藤 どうなんだろう。昔からそういう傾向はあったのかもしれないですけど(笑)。でもやっぱり歌を歌うと変わったと言われますね。
— 歌の表現の仕方というか?
後藤 そうですね。何かそれで感動して泣いちゃったわと言われると、ああやってて良かったと思います。
— それは感情の表現の仕方とかそういうものが変わったということなのでしょうか?
後藤 ある意味楽に歌えるようになりました。
— 声楽だと声をつぶしてしまうというのが割と良く聞くのですが。
後藤 よく聞きますね。私も。私は今のところ大丈夫です。何が良かったと考えたとき、もしかしたら、語学を全部理解していなかった事が良かったのかなと思うときはあります。先生の出す声とかしぐさとかで自分が感じたことをやって、それでオッケーサインが出たらいいということじゃないですか。そういうのを例えば言葉で細かく説明されて、例えば横隔膜を開いて喉をちょっと開けてなんて言われていたらもしかしたら出来なかったかもしれない。そういうことがストレスで歌えないという人もいますから。そういう意味で、テクニックは。感覚で感じ取ったほうがうまくいくんじゃないですか。あくまで、私の場合です!(笑)
— そのへんは個人の差というかとらえ方ですよね。
後藤 自分の先生を信じるということですね。信じることの出来る先生を見つけるのが、難しいんですけど。新しい先生についた時というのは発声の仕方が今までと変わるということなので、絶対に一度は良くなると思うんです。それで、良くなった!と一瞬思うんですけど、それが持続するかはどうかはわかりません。半年位ついてみないと本当にその先生が良いかどうかは分からない、と私は思います。
— そうなると見極めが難しいですね。
後藤 そうですね。そういう意味で、大学のほうに聴講に行ったりたくさんしました。いい先生がいると聞けばその先生のレッスンに行きました。あと決め手になるのは先生のクラスの発表会です。そういう所でやっぱりいい生徒さんがたくさんいるということは、その先生のテクニックはいいんだなと思います。
— 他の人の演奏を聞くというのも非常に大事ですね。
後藤 本当に勉強になります。
— 今後の進路はどのようにお考えですか?
後藤 今職探し中です。これからいろいなオーディションを受けていきたいと思います。今はまだこっちでやれることをやりたいという感じです。いずれはもちろん地元に戻って自分の勉強したことを演奏の場で表していきたいんですけど。とりあえずはこっちで頑張りたいです。
— 最後にこれから留学する人にアドバイスをお願いできますか?
後藤 語学は勉強してきたほうがいいと思います。そして、やる気を維持させながら、海外でしか勉強できないことをたくさん学んで、音楽の幅をどんどん広げて欲しいです。
— 今日は有意義なお話をいろいろとありがとうございました。
神田望美さん/フルート/王立モンス音楽院/ベルギー・モンス
音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。
フェリス女学院大学音楽学部卒。ベルギー王立モンス音楽院卒業。現在ベルギー王立ブリュッセル音楽院教職コース在中。
— 今までの略歴を教えていただけますか?
神田 フルートをきちんと始めたのは16歳の頃、高校一年の終わりからです。それからフェリス女学院大学音楽学部に入り、その後ベルギー王立モンス音楽院に留学して去年卒業しました。
— フルートを始められたきっかけは?
神田 小学校のブラスバンドにフルートがあって、かっこいいと思って小学校五年生の時から始めました。でも、きちんと学ばなかったのでそのまま卒業と同時にやめてしまいました。ブラスバンドが盛んな高校だったのでブラスバンド部に入って、一年目はホルンを吹いていました。でも、フルートで音大に行きたいと思うようになったのでフルートを本格的にやるようになりました。
— フェリスをご卒業してすぐにベルギーに行かれたのですか?
神田 そうですね。在学中からずっと考えていたので。
— 在学中にベルギーの学校の先生とお知りあいになったのですか?
神田 直接先生は知りませんでした。ただお名前だけは知っていて、こちらに来てからコンタクトを取りました。
— ベルギーに留学したきっかけはありますか?
神田 もともと海外交流や言語にとても興味がありました。私は、外国の人たちに囲まれて外国の中で暮らしたいと当時は思っていたので、日本人がたくさんいない所にしようと考えました。ベルギーはそんなに日本ではメジャーではないのでベルギーで先生を探してみたらいい先生がいらしたので、彼のところに行こうと決めました。
— 実際にベルギーはどうですか?日本人はそんなに多くないですか?
神田 日本人はいますけどそんなに多くはないですね。ブリュッセルには同じフランス語圏の学校でもブリュッセル音楽院、リエージュ音楽院、モンス音楽院と三つあるのですが私が行っていたモンス音楽院は、日本人が一番少なくて数人しかいませんでした。ピアノで二人、フルートが私一人でした。クラリネットとギターに一人いました。
— 学生は現地の人がほとんどですか?
神田 現地の学生と先生によっては留学生がいます。クラリネットの先生が有名な先生だったので、外国人の子がいっぱい来ていました。ピアノも歌もたまに留学生がいます。ギターの先生も有名な人で1-2名の日本人の方がいました。
— 授業は何語ですか?
神田 授業は全部フランス語です。レッスンは先生が英語ということもありますが、一般の音楽史などの講義の授業は全部フランス語でした。
— フランス語はずっと勉強されていたのですか?
神田 大学の授業で少しやった程度です。留学する前の半年位プライベートレッスンを受けました。あとはこちらに来てから一年半位語学学校に通いました。
— 語学学校は音楽院に入る前ですか?
神田 私は6月にベルギーに来たので2ヶ月間の夏休みに語学集中講義を受講しました。音楽院が始まってからは音楽院と平行して語学の夜コース、週2回の昼コースに行っていました。
— そうすると最初の音楽院のレッスンはいかがでしたか?
神田 全然分からなかったですね(笑)。先生とは英語でやりとりしていたので問題はなかったのですけれど、フランス語の普通の授業は作曲家の名前位しか分からなかった。全然分からなかったです(笑)。
— 大変ですよね。
神田 眠くなっちゃう(笑)。
— そういう分からない状況からどうやって乗り切っていかれましたか?
神田 一年目は本当に先生が優しかったです。一般の大学に比べたら話せなくても、まあまあみたいなところが音楽院にはありました。外国人の生徒には追試をしてくれるなど親切なことをしてくれたのでどうにか乗り越えることができました(笑)。
— 音楽院はどのようなシステムですか?
神田 音楽院には高等課程というのがあって最初はそれに入ります。高等課程では2年目から卒業の資格試験を受けることができ、4年目までにいつでも「私は今年資格をとります」と宣言して資格試験を受けることができます。私は4年間通って卒業し、今年は教職コースに入りました。教職コースは二年間で、音楽院のオプション授業みたいなものです。
— 「卒業の資格試験をとる」という宣言をするとどうなるのですか?
神田 「資格をとる」というと試験の曲数が変わります。普通の試験では4曲なのですが資格試験だと12曲になります。
— 試験は厳しいですか?
神田 そうですね。プルミエールプリ(一等賞)という高等課程の前のものだと、一回落ちても五回までチャレンジできるようになっているようです。しかし、高等課程では一回落ちたらそれでおしまいとだそうです。
— それは怖いですね。
神田 私は十二曲準備することに集中していたので落ちるという怖さを考えていなかったのですが、あとで落ちた人がいると聞いてびっくりしました。あとで聞いてよかったと思っています。先に聞いていたら落ちる事があるという恐怖にとらわれていました。
— 試験は公開で行われるのですか?
神田 公開です。コンサート形式です。
— 教職はどこで勉強されているのですか?
神田 教職コースはブリュッセル音楽院で受講しています。以前はブリュッセルからモンス音楽院まで通っていましたが、ブリュッセル音楽院の方が近いので教職コースはブリュッセル音楽院で受講することになりました。
— フルートの教職ですか?
神田 コンセトヴァトワール(音楽院)に入る前の音楽学校(公立の学校やヤマハとはまたちょっと違う)があるのですがそういう所で教えるための教職免許です。
— その教職免許があればいろいろなところで教えられるということですね。
神田 そうですね。ブリュッセルだと、区に一つ音楽学校があります。他の市でも町とか村に一つ程度は音楽学校があるみたいです。
— ベルギーの子供達はどうですか?
神田 一回産休の代理人をやったことがあるのですが日本の子とは違います。本当によくしゃべります。日本の子だとハイハイと聞いていると思うのですが、ベルギーの子は自分の意見もどんどん言ってきます。音楽的には日本の子供の方が一般的に練習するというか、親が練習させるところがあるみたいです。こちらの子はあまり練習してこないようです。きちんと親御さんが子供を見ているかどうかだと思いますけど、大きくなっても音楽を続けている子は楽しさが先行している感じですね。日本の子だとやっぱり音大受験など大変さの方が先行してくる気がしますが、こちらの子は楽しそうにやっている気がします。
— それは土壌の違いがあるのですか?
神田 そうですね。それにそんなに入学試験そのものは難しいわけではないからだとも思います。
— 音楽院の試験はどのようなものですか?
神田 音楽院の試験は最初から曲を二曲くらい提出しておきます。エチュードの曲と、それ以外を合わせて三、四曲準備します。当日、試験官より曲を指定されてエチュード一曲と曲一曲を吹きます。丸々じゃない場合もありますし、長い場合もあります。私はそんなにたくさん吹かなかったですね。
— 筆記試験はいかがですか?
神田 筆記は無かったですね。高等課程前の段階だとソルフェージュなどもあるみたいですが高等課程の試験では筆記はありませんでした。
— ベルギーのビザ申請は大変ですか?
神田 何度か大使館に行く手間はありましたが書類さえ準備すればそんなに大変なことはなかったです。
— 学校の入学許可証は必要ですか?
神田 学校の入学許可証、戸籍謄本などの類を揃えれば大丈夫でした。私は六月くらいにベルギーに行っていたので入学許可証はありませんでした。九月に入学試験がありすぐに入学なので音楽院の試験を受けてもいいよという紙を学校から送ってもらいました。そして仮ビザを出してもらいました。学校に入るとベルギーの区役所から滞在許可証がもらえるのですが、それはそんなに苦労なく取得出来ました。フランスにいる友人が半年経ってもまだ滞在許可証が来ないという話を聞いたことがあるのですが、私はそんなことは全然ありませんでした。朝早くから並ぶのが大変ですが、一年に一回なので我慢すれば全く問題なく出してもらえます。実はベルギーに来た時、保証人が必要でした。その当時、私はよく分かっていなかったのですが、先生が一緒に役所に来てくれて保証人になってくれたみたいです。後々、書類をよく読んだらそういうことでした。当時は良く分かっていなかったのですが、凄いいい先生でした。
— 凄いですね。
神田 本当に先生には面倒を良く見ていただきました。ベルギーの高等課程に入れたのも、先生が書類を全部やってくださったからです。
— 学校はどのような雰囲気でしたか?
神田 モンス音楽院は建物が非常に古く、雰囲気はいかにもヨーロッパの学校の雰囲気を持っています。先生によって生徒さんの雰囲気は全然違っています。ギターの先生は有名だったのでたくさん生徒がいました。クラリネットやピアノ、歌も同じです。私の先生も有名なのでたくさんの生徒さんがいました。例えばオーボエやファゴットは地元の子が中心でした。雰囲気は割とのんびりした感じだと思います。
— 競い合う感じではないのですか?
神田 多少は競い合いますが、ギスギスしているのが外に見える感じではないです。全体としてのんびりした感じです。
— 一クラス大体何人くらいですか?
神田 クラス数は先生によって全然違います。16人いるクラスもあれば、2名というクラスもありました。フルートは大体15人くらいだったと思います。全部で九年生になっているのですが、一学年13人〜15人くらいだと思います。
— フルート科の先生はお一人?
神田 一人の先生とアシスタントです。
— そうすると年間三、四人しか入らないということですね。
神田 そうですね。ベルギーは一千万人しかいないので、外国からやってこない限りは割とゆとりはあります。
— 日本とベルギーの学校で大きく違う点はありますか?
神田 カリキュラムで違う点は、室内楽の授業が日本だとない大学もありますがこちらは室内楽科の教授もいます。私の大学では室内楽は、半年間で一週間に一日90分の授業が一枠ありましたが公開授業でした。こちらでは室内楽の教授と何人かのアシスタントがいて、室内楽もレッスンです。室内楽の先生のところに行って室内楽の授業を受けます。試験も普通の試験と同様何曲か準備します(通常五曲くらい)。日本人が室内楽のクラスに行くと始めは他の楽器と合わせることを知らないというか、馬車馬的に演奏してしまう部分があるようです。いかにして他の音に混ぜるかという室内楽をベルギーに来て学んだと思います。
— いろいろな楽器と行いますか?
神田 一年目は、チェロとピアノとフルートの曲、それにビオラとフルートの曲、ビオラとフルートとコントラバスの曲などいろいろやりましたね。
— 先生がだれだれと組みなさいと決めるのですか?
神田 室内楽の先生のところに行ってどんな曲をやるのかということで決めていきます。
— 一番違うのは室内楽ですか?
神田 室内楽は相当違いますね。あとは学校の雰囲気が全然違います。私の時の授業は音楽史と分析と和声だけだったのですが、今はいろいろな科目を取らなくてはいけなくなりました。全部フランス語なので、それが結構大変だそうです。和声もすごい違いますね。私の受けた和声の試験はかなり厳しく五時間部屋に缶詰にされてしまいました。日本だと90分の枠の授業でぽんと入っているだけでしたがベルギーでは個人レッスンか少人数制で出来るようになるまでやらされます。
— なぜそこまでやるのですか?
神田 ピアノだと即興が出来るようになるようです。管の場合は下級コースだけでいいのですが、バイオリンは中級コースまで、ピアノは上級コースまでやらないといけません。上級コースになると寝泊りしてレッスンや試験受けたりするようです。
— 合宿状態ですね。
神田 合宿状態で試験を受ける位ごく徹底的なものになっています。
— 全然違いますね。
神田 試験が本当に厳しいところがかなり違います。日本は普段も厳しいけど、試験も同じような厳しさで通過していく感じですが、こちらは試験がいきなり厳しいです。
— 日常のレッスンはそんなの厳しくない?
神田 先生によって違いますけれども、普段なんとなくのんびりした雰囲気が流れているのに試験だけ非常に厳しいという感じです。一年目はのんびりしていたら、やられたという感じでした。
— 一年目は結構単位が取れないのですか?
神田 そうなんです。和声落としちゃいました。音楽史はそれでも追試で何とかなったのですけど、分析は全然だめで全く手が動かない。日本だと先生が説明してそこが試験に出る、という感じですが、こちらだといきなり全然違う曲が試験に出てきたりします。質問事項もなくて、「その曲について書きなさい」で終わりです。自分で分析できないと駄目なんですね。
— ベルギーに行く場合この辺のことはきちんとやっておかないといけないでしょうね。
神田 基本がきちんと分かっていればどうにかなると思いますが、和声が分かっていると結構いいこともあります。日本とは違うという事を試験前に分かっておくと良いとは思います。のんびりした雰囲気に飲み込まれて、そのままのんびりしているのは実は自分だけだったという感じで終わってしまいます。
— 周りは結構分かっているわけですね?
神田 そうですね。周りの方は、試験は大変だというのが分かっているみたいです。
— 学校の一日のスケジュールは?
神田 私の時は授業数がそんなになかったので週三回モンス音楽院に行っていました。一日が室内楽のレッスン、一日は和声や音楽史、室内楽のレッスンを兼ねてやっていました。もう一日がレッスンでした。他の日は家にいて練習をしていました。今の学生は授業数が増えたのでほとんど毎日学校があるようです。授業がある時は学校に行って、授業がないときは練習室を借りて練習したり、家に帰って練習していました。
— 学校の練習は何時まで出来るのですか?
神田 ブリュッセル音楽院は九時半までです。でもモンス音楽院だと早くしまります。モンス音楽院に行く場合は遅くまで練習できる家を借りることが大事ですが、ブリュッセル音楽院だと昼間家で吹ければ夜は学校で練習できますね。
— 学校のシステムはいつから変わったのですか?
神田 私が入った次の年から大学と同じように変わりました。フランスと同じで、昔は大学ではなくて高等専門学校のような感じでした。今は大学、大学院、博士課程というように他の国とほとんど同じなった分、哲学や社会学などの一般教養もとらないといけなくなりました。以前は学費も安かったです。
— ちなみにどの程度ですか?
神田 私が入った時は外国人で三百ユーロ程度でしたが、今は千〜千五百ユーロ位してしまうと思います。EUの人たちは三百〜四百ユーロ程度です。
— 神田さんはシステムが変わる前に音楽院に入っていたので、その後もずっと三百ユーロだったんですね。
神田 そうですね。日本の学費を考えたらベルギーの授業料は安いのですが、自分の料金と比較するとやっぱり高いと思います。
— 日ごろ練習はどこでなさっていますか?
神田 学校で練習室が見つかると学校で練習しますが、主には家です。1-2年目は先生がご自分の自宅の前にアパートを持っていらして、そこに入れてくださったので練習は問題なく出来ました。3年目は音大生専門のアパートに引っ越ししました。そこも練習出来ました。
— 音大生専用のアパートがあるんですね。
神田 凄く少ないですけどあります。学生用というとシェアでお風呂が共同になりますが、練習できるところは結構あるようです。
— 先生がアパートまで用意してくれるのは凄いですね。
神田 先生がたまたま前の年にアパートを買ってちょうど修理が終了した頃だったのです。「ここでいい?」みたいな感じで言ってくれました。私もどうやってアパートを探そうと思っていたので、「ここでいいです」と言いました。
— ベルギーに到着後すぐはどこに滞在していたのですか?
神田 二週間程度ですが、ホテルです。その後先生のアパートに移りました。
— アパートでの練習は何時までOKですか?
神田 法律では十時まで音を出して良いらしいです。ただ、大家さんによっては六時までなど時間が区切られる事はあります。万が一隣の家から楽器がうるさいと言われても法律上は楽器をやっている側の勝ちらしいです。
— 音のことで怒鳴り込まれたことはありますか?
神田 先生のアパートに住んでいた頃に一回だけあります。一つ上の階の人がアフガニスタンの人で、音楽と関係ない方でした。その方は始め音楽が好きだと言っていたのですが、ある日「六時くらいにはやめて欲しい」と言われました。困ったなと思って先生に相談したら、先生が大家なので「彼女は音大生だから六時にはやめられないんだよ」とその方に言ってくださいました。大家さんに言われたらどうしようもないので「分かりました」となりました。怒鳴り込まれたわけではないですが、もう一度そう言われると吹き辛い部分もあるので、先生に言って「来年引っ越します」となりました。その後引っ越したのですが、それ以後は他の人に特に音のことで注意されたことはないですね。
— 練習は一日何時間くらいするのですか?
神田 日によって違いましたけれども、学生の時だと気力があれば大体五時間くらい吹いていました。試験で十二曲やらなければならないときは六時間くらい吹かないと間に合いませんでした。日本にいた時はがむしゃらにやれという感じでしたが、ベルギーに来てからは要領を得て練習しなさいと言われました。先生は演奏会や試演会を準備してくれて、人前でどんどん吹いていくことによって内面に潜んでいる出来ない部分を自分自身で発見して練習していく方が効率がいいということでした。試演会といっても大々的な感じではなくて、次のレッスンは近所の人を集めておくからみたいな感じでした(笑)。
— そうやって人前で演奏する場数を踏んでいくと度胸もついていきますよね。
神田 緊張はするけど、緊張しても指が動くようになると思います。特に試験前などどうしても緊張で指が動かなくなってしまうのですが、そういうことをなくすためにガンガン演奏会をしていきました。
— コンサートは大体どのくらいの頻度で行っていますか?
神田 面倒見の良い先生だと試験前に小さい試演会から大きな支援会でだいたい五〜六回程度あります。ベルギーの方は全然知らない人でも、「あら若い子の演奏を聞きたいわ」と言って気軽に来てくださったりします。
— 学校でコンサートをやるのですか?
神田 学校や先生の家、それにどこか借りて下さることもあります。
— 家というのは凄いですね(笑)。
神田 そうですね。ホーム演奏会みたいです(笑)。
— ブリュッセルの生活費はどの程度ですか?
神田 家賃はシェアだと二百ユーロ程度からありますが、その料金だと家で練習できない場合が多いです。音楽の学生は、地区によりますが三百ユーロは最低で、五百ユーロ払えば結構いいアパートが借りられると思います。広くてキッチンもある場所で練習も可能です。
— 治安の悪い場所はありますか?
神田 南駅という駅があるのですけど、そこの周りは治安が悪いです。移民地区なので治安の良くない所で有名です。でもそこにはピアノ屋さんが一軒あって、そこの隣のアパートが音大生用です。シェアで二百五十ユーロでした。
— 生活費、食費はどうですか?
神田 食費は日本に比べたら安いです。月に家賃を入れて全部で五百ユーロ程度で生活できると思います。
— ベルギー自体の物価が安いのですか?
神田 物価は高くないです。レストランは税金(21%)が高いので日本と同じくらい取られます。食品は税金が6%なので、そんなに差はないと思います。
— ベルギーの音楽業界のツテはどのように作っていくのですか?
神田 これは本当に人格によると思います。どこかの演奏会でいろいろな方と出会い、コミュニケーションを取っていくことがよくあります。やはり社交性や積極性、あとは感じがいい人間であることが重要なことです。
— そういうふうにしているとお仕事が入ってくるのですか?
神田 そうですね。好かれるのが重要というと聞こえが悪いのですが、好かれないような性格だとやっぱりどこ行っても難しいと思います。たまに付き合っていくのに難しいタイプの方がいます。そのような方だと自然とみんな離れていきます。すごく上手くていい経歴もあるのだけれども意外と演奏会がないという方がいますね。
— では誰にでもチャンスはあるのですね。
神田 よく言えば割と誰にでもチャンスがあります。
— ベルギーの人たちとうまく付き合うコツはありますか?
神田 おしゃべりが得意だといいと思います(笑)。本当に良くしゃべるので。社交性は本当あったほうがいいと思います。それに日本のことをよく聞かれるので日本の事は知っているといいと思います。
— 演奏うんぬんよりも本当に人柄が結構大きいのですね。
神田 演奏が全然駄目ならもちろん全然駄目だと思いますが、きちんと演奏が出来ていればチャンスはあると思います。
— 留学して良かったと思える瞬間はありますか?
神田 演奏会をやる時は聴衆が暖かく、本当に音楽を楽しみに来ていると感じます。日本だと演奏会は何か観察しに行くみたいなところがあったり、有名な方が来たりすると、見に行くという雰囲気があると思うのです。ベルギーでは別にそういう感じでもなく、純粋に音楽を聞きに来て楽しんでいます。そういう時には、「ああ良かったな」と思います。それにいろいろな国の人に出会えて、今まで自分の知らなかった世界を知った時にこういう世界もあるんだと思う時に留学して良かったと思いますね。
— ベルギー人だけではないのですね。
神田 例えば隣人さんがアフガニスタン人だったので始めの頃はアフガニスタンの話を聞いたり、ギリシャ人からはギリシャの話、トルコ人からはトルコの話、イスラエル人にはイスラエルの話などいろいろ聞きました。また、ベルギー社会の表面から見ただけでは分からないことを聞いて、自分の心の持ちようも変わりました。そういう部分から音楽が変わるとこともあると思っています。
— 留学というのは音楽以外の意義がたくさんありますよね。
神田 日本の試験では、出来なかったら駄目、出来なかったら終わり、という感じでした。でもベルギーでは自分自身が出来るかどうかを自分自身に試して楽しんでいるところがあります。そういう心の持ちようが日本とベルギーでは随分違うと思います。出来なかったら出来なかったで「いやー残念だったね。じゃ次回」という、気軽といえば気軽な心の持ちようがあります。
— そういったところもご自身の中で影響されてきましたか?
神田 そういう人たちに囲まれているので影響されますね。変わらない部分もあるし、変われない部分もあるし、影響受ける部分もあるしという事でしょうか。
— どういった点が変わったと思いますか?
神田 一番変わった点は、一度出来なかったら終わりという考え方ではなくなったことです。前より人生を楽しむという気もあります。私の場合、日本の先生も追い込むようなタイプの先生ではなかったので、そういう意味では自由にやらせてもらっていました。しかしベルギーでは本当に自由に出来ると思います。私がこういう事をやりたいと言った時に、日本だと私の先生と周りの子だけが頑張ってね、という感じでしたがベルギーでは全体的にみんな聞いてくれます。曲目についてもスタンダードをやらなければならないというのもありません。各自がやりたいという事を追求できるシチュエーションにあります。こういうことをしなければいけないというのがあまり無いのです。
— 逆に自分のやりたいことがないとかなり大変ということですよね。
神田 ベルギーでも特にやりたいことがなくて淡々と過ごしている人がいないわけでもないんです。でも、やりたいと思っている人がそういう人たちに飲み込まれていくということは日本より少ないんじゃないかなと思います。
— ご留学してご自分が何か成長したと思う点はありますか?
神田 言葉は成長しましたね。それに前より言いたいことが言えるようになったと思います。ベルギーでは本当にきちんと言葉で伝えないと駄目なのです。そういう意味では隠さないで物事を言えるようにするのは私にとって成長という気がします。それに前はこうじゃないと駄目だと思っていた部分が、そうじゃない生き方もあるんだと視野が広がりましたね。演奏面では、舞台に立った自分がどう相手に印象を与えるかをよく考えるようになりました。日本では演奏面だけですが、ベルギーでは演奏面だけではなく舞台の立ち方から考えます。
— 今後はどういった進路をお考えですか?
神田 演奏活動もやっているのですが、それと並行して教えることをやっていこうと思っています。オーケストラに入るチャンスがあれば入りたいと思っています。
— オーケストラに入る事は結構大変ですか?
神田 大変ですね。一席の空きに対して、百人くらい来るので大変ですね。ベルギーでは室内楽が本当に盛んなので、アンサンブルを組んでやっていくことも可能です。ちょっと大きめなアンサンブルやったり、小さなアンサンブルやったりしていろいろ楽しめると思います。
— これから留学する人にアドバイスがあったらお願いします。
神田 言葉は何かしらできたほうがいいと思います。留学先をまだ決めてない場合はとりあえず英語を勉強しておいた方がいいと思います。ベルギーの人は言わないと何もないのと同じ意味になってしまいます。日本の場合のように言わなくても察するという能力をみんな持ってはいるのですが、察する能力が日本人よりは低いみたいです。きちんと口で言わないと何もないと思われる部分があります。何か言うためには語学が助けになると思います。私はこう思う、思わない、私はこうしたい、こうしたくないなど単純なことでいいのですが、そういうのが言えると言えないでは他人が自分を見る眼が変わります。音楽留学だと何もしゃべれないで留学される場合も多いとは思いますが、しゃべれた方がいいと思います。
— 結構その点で苦労されました?
神田 モンス音楽院では英語をしゃべる人がそんなにいませんでした。私は一応話をしていたつもりだったのですが、当時ノゾミは何を言っていたかよく分からなかったと言われます。英語が話せたので先生とコミュニケーションも取れたし、友人とコミュニケーションが取れたので、それで少し助かっていました。言葉が通じないと恐い部分もありますし、ストレスになったりすることも多いと思います。小さな事でストレスになると演奏に使うエネルギーも少なくなると思います。言葉そのものを習うのは楽器を習うのに似ているので言葉は話せた方がいいと思います。
— ありがとうございました。
田島高宏さん/ヴァイオリン/フライブルグ音楽大学/ドイツ・フライブルグ
音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。
田島高宏さんプロフィール
仙台生まれ。4才よりヴァイオリンを始める。桐朋女子高等学校音楽科(男女共学)を経て、桐朋学園大学を卒業。2001年4月〜2004年3月まで札幌交響楽団コンサートマスター。退団後、渡独。フライブルク音楽大学にて、ライナー・クスマウル氏に師事し、同大学卒業。イフラ・ニーマン、和波孝禧など各氏に師事。全日本学生コンクール東京大会奨励賞、日本室内楽コンクール第2位など多数受賞。ハンガリー放送響などと協奏曲を共演。小澤征爾氏率いるサイトウキネンオーケストラなどに出演。ヴィオリストのヴォルフラム・クリスト氏が音楽監督を務めるKKO(Kurpfälzisches Kammerorchester)に出演。室内楽でも、JTアートホールでのアフタヌーンコンサートや皇居桃華楽堂御前演奏、フライブルクやスペイン・マヨルカ島でのリサイタルなどに出演。和波孝禧夫妻らとフランクのピアノ五重奏をCD録音(アートユニオン社)。現在、ドイツ・フライブルグにて演奏活動中。
― 簡単な略歴を教えていただけますか?
田島 高校から大学にかけて桐朋学園でヴァイオリニストの和波孝禧先生に師事し、大学を卒業と同時に札幌交響楽団にて三年間コンサートマスターを務めさせて頂きました。その後、九月からドイツのフライブルク音楽大学でヴァイオリニストのライナー・クスマウル先生(編集注:フライブルク音楽大学教授、元ベルリンフィルハーモニー管弦楽団コンサートマスター)に二年間お世話になり、2006年7月にフライブルク音楽大学を卒業しました。今は、ドイツでいろいろな仕事をしたいので、職を探しつつ、これから先の進路を考えています。
― ドイツに行かれるきっかけはどのようなことですか?
田島 高校生の時からずっと海外に憧れがありました。高校を卒業してから留学しようと考えたこともあったのですが、周りの人に相談した所「日本で勉強する事はもっとたくさんある」ということで、それでは大学卒業後に留学しようと思っていました。桐朋で仲間たちと切磋琢磨しながら勉強して、そろそろ先の進路を、と考えていたちょうどその頃、大学四年生の五月に札幌交響楽団の方から招待コンマスというお話を頂きました。和波先生に相談した結果、そんな話はなかなかないということで、その招待を受けさせて頂く事にしました。その後、大学を卒業して三年間、皆様にいろいろ教えていただきながら札幌交響楽団で演奏を続けていたのですが、だんだん自分の経験、技術などの「貯金」の少なさを思い知らされるようになってきました。それと同時にヨーロッパで生活してみたい、あわよくば職業としてヨーロッパに残ってみたい、という想いも一層強くなってきました。「何事も石の上にも三年」の一念で、札幌交響楽団で頑張っていたその二年目頃に、つきたかったロンドンの先生が亡くなってしまいましたので、その後の進路を迷っていました。しかし、仕事を辞めないと動けないと考え、札響三年目の四月頃、留学したいので退団しますというお話をしました。その時点では、つきたい先生がまだ決まっていなかったので、全くの見切り発車でした。僕は、毎年夏に和波先生の講習会でアシスタントをやらせて頂いているのですが、その年の講習会に、フライブルク音楽大学の元教授の方がいらして講義をして頂きました。その方とたまたまお話をする機会があったので「フライブルクにいい先生はいないのですか」と何気なく何の期待もなしに聞いてみると、「ああそういえばクスマウル先生がいるよ」と言われました。その時にはクスマウル先生がどのくらい凄い方か知らなかったので、軽く「そうなんですか」と言ったら、「僕は彼の友達だから彼に言っておいてあげるよ」という話になりました。後でクスマウル先生の事を調べてみると、以前ベルリンフィルで七年間コンマスをなさっていた方だということを知り、びっくりしました。クスマウル先生は、毎年日本に一、二回、演奏旅行でいらっしゃいます。たまたまその年の十一月にクスマウル先生が来日したので、ホテルに行って彼の前で弾きました。そして先生に「来年の九月からフライブルク音楽大学のあなたのクラスで勉強したい」というお話をしたら、「ぜひどうぞ」と仰ってくださいました。
― とんとん拍子にお話が進んでいますね。
田島 悩んでいた頃や先生が見つからなかった期間は不安で不安で仕方なかったですね。当時、留学された方にお話を聞くと「留学する時はポンポンと話しが進むものだから何の心配もしなくていい」と仰っていましたが、本当にその通りになりました。ご縁があったということでしょうか。
― 先生の前で演奏して、学校としても了解という事ですか?
田島 入試はやはり受ける必要があって、学校としてはOKではありませんでした。ドイツの場合は、先生に面通しをして演奏を聞いて頂き、その先生が生徒をとる気があるか、そしてそのクラスに空きがあるかどうか、という事がまず一番重要です。先生が取るとなったらほぼ確実だと思います。後は、入試を受けてよほど変なことをしない限り大丈夫だろうということを聞きます。
― 先生が来て良いと仰ってからドイツに試験を受けに行かれたのですよね?
田島 はい。ドイツはだいたい年二回の入試があります。ゼメスター(学期)は、四月から七月までの夏ゼメスター、九月から二月までの冬ゼメスターと二回に分けられていて、入試は七月と二月にあります。それで僕は七月に入試を受けました。
― フライブルク音大の場合、ドイツ語の規定は何かありますか?
田島 他の大学ではよく聞きますが、フライブルク音大はないみたいですね。
― ドイツ語は、お勉強されて行かれましたか?
田島 高校の時から第二外国語をとらないといけなかったので、第二外国語としてドイツ語を七年間取っていました。全然まじめにやっていなかったので当初はほとんど話せませんでした。なんとなく数字が読める程度です。留学直後にドイツで最初の三ヶ月間、語学学校に行って勉強したのですが、全然だめですね。いまだに(笑)。それからは、忙しさにかまけて放っていたのですが、やはりドイツ語を話さないといけないなと思い、この九月から毎日語学学校に行きだして、昨日終わったばかりです。
― 語学が出来ないと大変ですか?
田島 大変というか毎日がつまらないですよね。語学ができなくても、フライブルクには日本人が結構いるし、僕の場合は桐朋の同級生や知り合いもチラホラいます。僕は、和声や理論など、普通の授業を受ける必要がなかったので、ドイツ語が必要なのはレッスン、オーケストラ、室内楽の時くらいです。つまり、ほとんど必要ない。もちろん生活のための最低限のドイツ語というのはありますが、それ以外は触れないようにすることも出来ます。ただそれではつまらないし、留学の意味もないですよね。例えば、学校外でオーケストラの仕事を頂いた時に、指揮者の言っている最低限の事は理解できるのですが、逆にこちらがパートリーダーとして指示を出す時に、一言二言の表現しか出来なくて、実際にこちらの考えが伝わっているかどうか、疑心暗鬼になる事もしばしばあります。また、練習以外の休憩中の談笑など、人間としてのコミュニケーションをしていく事が出来ないとつまらないですよね。コミュニケーションを取ることが人間として大事だと思いますし。
― 日本人が多いと仰っていましたが、外国人はどの程度いるのですか?
田島 韓国の方が一番多いです。ロシアや日本人も多いですね。スロベニアやポーランドなど、東ヨーロッパ出身の方も少なくありません。オーケストラの授業で、それは二十人くらいの小さな編成だったのですが、この中にドイツ人は何人いるのと聞いたら、二、三人しかいなかったですね。学校全体では、もちろんドイツ人が一番多いと思いますが、だいたい四割くらいだと思います。その次に、韓国人やロシア人が多いと思います。
― 学校の授業は週にどの程度あるのですか?
田島 僕の場合は、オーケストラとレッスンと室内楽だけでした。オーケストラは、一つのゼメスターに四〜五のプロジェクトがあり、一つのプロジェクトがリハーサルを含めて約一週間程度。そのプロジェクトを一ゼメスターにつき、最低二つはとらないといけないので、約二、三週間それにかかりっきりになります。それ以外は毎週基本的にレッスンに行っていました。更に、室内楽ではそのグループの都合に合わせて、リハーサルやレッスンがありました。
― 時間的にゆとりがありそうですね。
田島 相当ゆとりありますよね。暇といえば暇です(笑)。でもそれがいいというか、桐朋の七年間と札響の三年間はただただ突っ走ってきたので、この留学は自分を見つめ直すいい機会になりました。こちらに来てから、逆にたくさんの日本語の本を読んだりもしました。フライブルクは音楽的にもベルリンやパリ、ロンドンのように刺激的な演奏会が続く所ではないのですが、人間的な何かを取り戻すには良い環境です。僕は田舎出身なので本当に合っていると思います。同じ日本語の本を読む場合でも、日本にいた時に読む場合とでは心の中の響き方が違うし、日本語のかみしめ方が違います。また、じっくり料理を作る時間がある事は、こんなに素晴らしいのかと思います。他にも、外から冷静に日本を見る事ができる事、自分の生活を振り返ることができる事など、いろいろと本当に良かったですね。暇と感じる事もあるのですが、そんな生活も悪くないと思いますし、音楽の見方も変わってきますね。
― 音楽的にはどういうふうに変わっていかれたのですか?
田島 自然体になったのかな。これは他の方に当てはまるか分からないのですが、僕の場合は、ただただがむしゃらにやってきたので、音楽を味わう余裕があまりありませんでした。そういう意味で今は、一つの作品と向かい合う時間が出来たわけですからいいですよね。心のゆとりをもって作品と向き合うことは幸せだということを感じています。僕はモーツァルトやブラームスが好きなのですが、特にモーツァルトの感じ方が違います。何が変わったのかよく分かりませんが、もしかしたらドイツ語の持つリズムとモーツァルトの音楽がシンクロしたのかもしれない。例えば日本にいた時は、モーツァルトに限らず、こういうパターンの時はこう弾く、とある意味自分自身の狭い範疇でしか考えられなかった。でも最近は、こういう弾き方もいいけど、こういう方法もあるかもしれないなと、少しずつですが、いろいろな可能性を感じることができるようになってきたかもしれません。
― ご自分の幅は広がっているのですね。
田島 まだそこまでは分からないです。ただ、可能性は一つではないなと思うようにはなってきています。例えばオーケストラで、弓の上げ下げを決める時に、日本での自分だったら「このパターンだったらこういう感じかな」と何となくやっていたところもありましたが、今はそうではなく「ここはこういう考え方だからこういう方法もある」というディスカッションが入るので大変です。「それじゃ試してみよう。」「これいいねぇ!」でも結局、「やっぱり元の弓の方がいいかな」となる事も多いのですが(笑)。外国の方が議論好きな事や、時間にゆとりがあるから出来る事なのですが、本当にそういう事の一つ一つが勉強になります。
― ドイツでのレッスンと日本でのレッスンは違いますか?
田島 和波先生とクスマウル先生は違うタイプの先生です。僕は中学二年から和波先生について勉強してきました。それまで基礎的なことをほとんどやってこなかったので、ヴァイオリンの弾き方や音楽との接し方など一から和波先生に教えていただきました。和波先生には本当に細かくいろいろな事を習ったので、言葉を教わった感じです。基本的なクラッシックの語法を習い、その語法を持ってクスマウル先生のところに行ったのでドイツに来てもそれほど大きな違和感はありません。ただ、僕が未熟なせいか、和波先生のレッスンでは少しでも変な弾き方をするとそれは違うと指摘される事がありました。クスマウル先生の場合は逆に何でも許容するところがあります。自分の可能性について頭ごなしに否定しないで「なるほど、そうかもね。でもここは違うんじゃない」とか、「ここはこういうやり方もあるかもね」というレッスンです。もちろんこの違いは自分の段階によるものも大きいとは思います。クスマウル先生のところでは、基礎的なものはもちろんの事、レッスンごとに自分で研究した成果に対して、他にこういう弾き方もあるし、こういう表現もあるよ、という助言を頂いている、というレッスン内容ですね。
― 逆に言えば自分の考えがないといけないのでしょうね。
田島 そうですね。クスマウル先生は最初のオーディションの時点でそういう所まで見ていると思います。彼は基礎的なことを教えるタイプの先生ではなく、音楽を楽しみたいタイプの先生だと思うので、その生徒の音楽との接し方などもその時点で見ていられるのでははないでしょうか。
― 先生の所は今もレッスンに行かれているのですか?
田島 卒業してからまだ行っていないのですが、そろそろ連絡をとろうかな、と思っています。ただ基本的に、プライベートの生徒をとらないようなのでどうなるか分かりません。実は卒業した時に、もう二年勉強しようと思ってソリストコースを受験して落ちちゃったんですね(笑)。実質プーみたいになってしまいました(苦笑)。フライブルク音大では、例えば夏ゼメスターの場合、1480ユーロ、日本円だと24万円程度お金を払って、担当教師の許可が下りれば、入試なしにその先生のレッスンを受けられるという制度があるのですが、次の学期に再度ソリストコースを受験しようか、その制度を使って勉強を再開しようか迷っています。僕はピアノとのデュオが凄く好きで、まだまだやっていない名曲がたくさんあるので習えるうちにもっとやっておきたいと思っているのですが、お金の問題もあります。今、円安ですし、こちらで働きながらもう一回勉強出来ないか模索中です。
― オーケストラに入るということですか?
田島 オーケストラに入ってしまうと時間が取られてしまうので、期間限定の仕事、例えばエキストラとして演奏しながら臨時収入を得て、自分の事が出来ないかと思っています。今度、初めてドイツのプロオケ、室内オーケストラにエキストラで出ることになりました。それをステップに何らかの形で広がっていけばいいなと願っています。
― どういうきっかけでエキストラ出演をすることになったのですか?
田島 ドイツは、オペラハウスから普通のオーケストラまで少なくとも200以上のオーケストラがあるのですが、それらのオーケストラの空き情報を掲載している雑誌やインターネットサイトがあります。たまたまそれを見ていたら、フライブルク音楽大学のヴィオラの先生が指揮者をやっているオーケストラがあり、コンサートマスターの席が空いているとのことだったので応募してみようと思ってメールを書いてみました。すると既に席は埋まってしまったものの「試しに履歴書を送って下さい」とのことだったので履歴書を送りました。札響時代のコンマスというのが功を奏したのか「一月二日から仕事があるから来てくれないか」とのこと。本当ここ一週間の話です。
― 一日の練習時間はどの程度ですか?
田島 日によって違います。僕は朝型なのですが、学校に通っていた頃は、朝八時から十二時頃まで練習。そのあと、買い物をして家に帰ってご飯を食べてお昼寝。実は毎日15~30分ほど、お昼寝をしているんです(笑)。そうすると本当に頭がスッキリします。そうやって朝の睡眠時間を取り戻して、午後三時頃から六時頃までまた練習。
― 練習はお家ですか?
田島 午前中は大体学校で練習し、午後は家で行います。たまたま練習できる家だったので本当にラッキーでした。でもフライブルク音大では24時間練習できるんですよ。地下室があって、いつでもその学校の学生であれば入れる仕組みになっています。だから本当に最高の環境です。
― そんな遅い時間に歩いても安全ですか?
田島 フライブルクは基本的にとても治安のいい所です。人もいいし、外国人に対してもとても親切です。町も非常に綺麗です。フライブルクは、環境都市と言われていて、町の中心部に車が入れないような仕組みになっています。聞いた話ですが、フライブルクに原子力発電所を作ろうという計画が昔あったのだけれど市民運動で跳ねのけたとか、風力発電が盛んだとか、僕はそれ以上知らないのですが、凄く環境に対してもいい町です。
― ドイツの町はどこも綺麗ですが、そこまで力を入れていると本当に綺麗ですよね。
田島 たまに他の都市に行くと、少し恐いと感じることもあります。町自体もあまり綺麗ではないし、東に行くと失業率の問題もあってか、外国人に対して差別があったりするとも聞きます。フライブルクは経済的にもゆとりがある町なので、一度この街を知ってしまうとなかなか離れられないですね。よくいろいろな人に、このフライブルクがドイツだと思っちゃいけないよと言われます。僕は、ベルリンに行っても街自体にあまり魅力を感じません。刺激的なものはたくさんあるだろうけど。フライブルクは自然が適度にあり、フランスやスイスに近く、ドイツの中で日照時間も一番長いようです。自然の美しい所は人間もいいと思います。僕は長野で育って、今は実家が茨城にあるのですが、ここはそんな自分にうってつけな環境ですね。
― 留学先としてフライブルクはお勧めですか?
田島 人によると思いますね。ここはベルリン、ウィーン、パリ、ロンドン、あるいは東京のように、毎日のようにすばらしい芸術家が来て、ひっきりなしに演奏会が行われている、という環境ではないので、そういう観点から見ると、刺激を求めている若い人にとってフライブルクが良いかは、ちょっと分からないです。でもフライブルクには、人口18万ですが、オケは三つもあります。一つは放送局のオーケストラである、南西ドイツ放送交響楽団。それから劇場オーケストラである、フライブルク市立フィルハーモニー。そしてフライブルガーバロックオーケストラです。それぞれ個性のあるとてもいいオーケストラです。ここでは刺激的なものに振り回されないので、自分と向き合え、落ち着いて勉強ができます。人間的な生活や音楽を、ゆとりをもって勉強したいならフライブルクは凄くいいと思いますよ。
― 学校以外でのコンサートの機会はありますか?
田島 フライブルクには、アマチュアの合唱団が多いのですが、そんな合唱団にもランク分けがあって、それぞれのランクに合わせて市から助成金が出ているそうです。それらの合唱団の演奏会で必要な時には、弾かせて頂いています。それから、知り合いの教会音楽家の方からのお誘いで教会での演奏会の機会が増えましたね。自分自身はカトリックなのですが、こういう時に内なる喜びがあります。あとは和波先生のご紹介もあって、ハンガリー放送交響楽団とブラームスのコンチェルトをソロで弾かせて頂いたり、茨城の地元の知り合いがスペインのマジョルカ島にいらっしゃる関係で、その方にお招き頂いて、マジョルカ島で2回もリサイタルをやらせて頂きました。それからフライブルクにも日本ドイツ文化協会のような所があって、リサイタルをピアノと一緒にやらせて頂きました。
― 学校以外でもお忙しいですね。
田島 幸せなことにいろいろやらせて頂いています。僕は、なるべく多くの分野で活動していければ、と思っているので、すばらしい経験をたくさんさせて頂いていますね。
― 周りの人からいろいろなお話が来るのですね。
田島 僕は、本当にいつも周りの方から助けてもらっています。例えば、フライブルクは、家探しが非常に難しいらしいのですが、たまたま僕の先輩が僕と入れ違いに出るので、その後に入らせて頂きました。学校の手続きもその時にいた僕の同級生がものすごく手伝ってくれました。自分でやって一番大変だったのは、滞在許可申請をフライブルクの市役所で行う時や、家に電話を繋げたことです。本当に、今の生活は周りの人の助けなしにはありえません。フライブルクは、日本人同士の関係も良いです。近づきすぎず、遠すぎず、家族みたいな関係でみんな親切にやっていて、その親切な伝統がずっと続いている感じです。それぞれのペースを守りながら困った時には手を差し伸べあっています。まあこういうことは、本来当たり前の事かも知れないのですが。こちらにいると、例えば日本と同じ親切をされても、よりありがたく感じます。僕も今度はその伝統を受け継いでいきたいと強く思っています。特に、留学は、最初が一番大変で肝心です。
― 最初というのはどの位ですか?
田島 最初の一ヶ月くらいが特に大事だと思います。本当にまだ言葉も体も食にも慣れていない中で、役所に行ったりしないといけないので大変です。
― ホームシックにかかる方も多いようですが、そんなことはなかったですか?
田島 ホームシックはないですね。でも最近出てきました(笑)。お金がかかるから日本には頻繁に帰れません。この間帰ったのは夏ですが、お正月には、おせちが食べられない、箱根駅伝が見られないとか(笑)。札響時代は舞台の上だったし、もう五、六年いわゆるお正月を堪能していないですね。
― フライブルグの生活は、ひと月どのくらい生活費がかかりますか?
田島 物価は安いです。例えば、牛乳が一本で八十円程度。卵も百円前後。野菜も凄く安い。肉も安い。五百グラムで豚は二百円位です。外食は高いのでほとんどしないです。一ヶ月を家賃、電気、電話代を含めて頑張って五百〜六百ユーロで過ごしています。日本円にするとそれでも十万円弱になってしまいますから、決して安いとはいえないです。演奏会は、学生券で十ユーロ前後です。ウィーンは五ユーロで聞けたりするようですけど、日本みたいに三千円、四千円するわけではないのでいいと思います。
― 留学して良かったと事はありますか?
田島 自分を見つめ直すことが出来たことです。演奏会で良い演奏をして、いい拍手をもらう事はありがたい事に日本でもドイツでも味わうことが出来ました。もちろんその瞬間は幸せで、ドイツでも自分のやろうとしている音楽や語法が、ある程度喜んでもらえることも分かりました。ただ僕にとっては、表舞台で脚光を浴びることよりも、今はとりあえず自分と対話出来ることが本当に幸せなんです。自分の性格や今まで見えなかった自分も見えるようになってきました。今まで悩んできた事が一つの言葉になって出て来たりもしました。それに凄く苦労していることが楽しいです(笑)。札響に入っていきなりコンサートマスターをやらせて頂いたので、急にお金ががっぽり入って、もうお金の使い方が分かりませんでした。とりあえずお金を使おうと思っていつも外食をしていました。北海道だったので二週間に一回くらいは回転寿司を食べてタクシーに乗って帰りました。また、イギリスに演奏旅行をしたり、たくさんの人と触れ合えたり、経済的に不自由することは無かったのですが、どこか心がすさんでいました。別に仕事や音楽ということではなくて、自分の心が満たされませんでした。今は逆に明日食うお金も本当にない。このギャップがたまらないのですが、苦しくなると札響時代はお金もあったし、寿司も食べたし、日本酒もいつも飲めたということを思い出します。弱気になるほどあの時辞めなきゃ良かったとか、やっていれば何の苦労もなかったと考えるのですが、実際は、今の不自由な環境を心のどこかで望んでいたと思うのです。だから、いろいろな問題に直面して一つ一つそれを解いていく楽しみがあります。それが今は本当に嬉しいですね。いい事も悪い事もたくさんあって、それが一つ一つ心に刻まれていきます。ドイツにいると小さい喜びが大きい喜びに変わります。困難も大きいのですが、困難があるから次に進めると思います。乗り越えられない試練は無いと思いますし、困難や課題を与えて下さっているのでしょうね。その課題を一つ一つ乗り越えて、今、人間的な生活が出来ていると思います。日本だったら、僕は忙しいことでごまかしちゃうんですよね。だけどドイツでは、暇だし刺激がないから、ごまかせるようなものがない。だから逆によく考えられるし、自分と対話が出来ます。自己対話が出来る事がいかに幸せかと思っています。僕の人生があとどのくらいあるか分からないのですが、この時の苦労はちゃんと覚えておきたいし、この苦労はお金にはかえられないです。札響の時は、コンサートマスターとしての責任感や音楽的には凄く苦労しましたが、今は本当に自分自身に突きつけられた課題を一つ一つ丁寧にこなしていっています。また、僕は、どこに行っても周りの人が助けて下さるので、自分も手助けをできれば嬉しいし恩返しをしたいと思っています。演奏というかたちになるのかもしれませんが、ヨーロッパで活動したことをいつか日本に持って帰りたいと思っています。僕は、三十代、四十代には日本に帰りたいので、その時までにたくさん苦労をして、自分の出来る音楽で何か力になれるのならなりたいと思います。
― ヨーロッパや日本でまたオーケストラに入りたいのでしょうか?
田島 どんどんすばらしい演奏家が出てきているので、簡単にいくとは思わないのですが、ご縁があればオーケストラに入れれば幸せだと思います。僕の強い希望としては、最終的に日本で何か還元できればと思っています。
― 今後留学する方にアドバイスはありますか?
田島 語学はやっておいたほうがいいと思います。人と心から打ち解けるためにはやはり言葉なんですよね。語学に対して全くなめていました。僕は、人間と人間のコミュニケーションとして誰とでもうち解ける自信があります。でも、それは日本語だったからという事だったんですね。その自信からドイツに行けば何とかなると思っていました。もちろん何とかなるのですが、それだけではつまらないですよね。本当に良い留学をしたいなら、語学は必要だと思います。ただ語学を勉強した方がいいというのではなく、「ああしたいな」「こういうふうになりたいな」「こう話したいな」「こういう話を聞きたいな」と頭に描きながら勉強すると凄く良いと思います。実際にいろいろ人種の方々がいて、コミュニケーションがとれると本当に面白いです。その人達と心から打ち解けたいなら語学は必要です。僕の場合は語学からずっと逃げてきていたので、語学が出来ないというコンプレックスもあります。だからシミュレーションをしておけばすっと入っていけると思います。僕が言うのも説得力が無いのですが、ドイツ語で「Viel Spaß!!(楽しんで!!)」という表現がありまして、 楽しんでいろいろなシチュエーションを思い描きながらドイツ語を勉強すればいいのではないでしょうか。
― ありがとうございました。