井上智さん/ジャズギタリスト/アメリカ・ニューヨーク
「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はニューヨークでトッププレーヤーとしてご活躍中のジャズギタリスト/コンポーザーの井上智(イノウエサトシ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「ニューヨーク・ギタリストが歩む道」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います(インタビュー:2005年9月)。
ー井上智さんプロフィールー
神戸出身。同志社大学在学中から関西を中心にライブハウスやコンサートで活躍。1989年、ニューヨークへ渡りニュースクール大学ジャズ科でジム・ホールに学び音楽的・精神的に影響を受ける。同校卒業後、ニューヨーク市立大学院でロン・カーターに学ぶ。以後、ニューヨークのジャズシーンで、ジム・ホール、ジュニア・マンス、フランク・フォスター、バリー・ハリス、ジョン・ファディスなどのトップ・ミュージシャン達と共演。教則ビデオ「ジム・ホール/ジャズギター・マスタークラス」全三巻、「マジカル・ギター・テクニック/ビル・フリーゼル」の音楽監督を務める。現在、ニューヨークで最も注目されているギタリストの一人として活躍中。ニュースクール大学ジャズ科講師。ジャズライフ誌に「毎月増えるスタンダード」を好評連載中。現在までにリーダー・アルバムを 4枚発表。
— 最初に、音楽に興味をもったきっかけを教えていただいてよろしいですか?
井上 家に音楽が、レコードが普通にかかっていて、兄貴がフォークソングを聞いたり、親が音楽好きだったので普通に家に音楽が流れていたんですね。それで普通にレコードを聞いたりしていました。オルガンは習いに行っていたかな。ヤマハ教室に。そんなにまじめにやって無かったですけどね。
— 勉強みたいな感じでしたか?
井上 お習い事という感じ。子供の頃に。小学生三年の話ですね。すぐやめちゃったけど。
— すぐやめちゃったんですか (笑)
井上 ほんま二、三年で辞めたかな。それから、高校行きだしたぐらいでやっぱりロックに目覚めたかな。親戚のいとこが同じ高校に行っていて、僕が一年の時、文化祭の体育館でロックバンドとして演奏したんです。それがすごくてがーんとショック受けて。それ結構大きいですよ(笑)。
— 本当ですか (笑)
井上 それで高校二年の時ロックバンドやりはじめたんです。
— 音楽に目覚めたけれど、井上さんは音大とかではなく、いわゆる総合大学に行っていますよね。
井上 同志社行きましたね。
— その時は音楽のプロになる気だったのですか?
井上 全然、そんなまさに今自分がやっていることをやろうという計画は全然無くて。
— 本当ですか。
井上 なんか僕らの頃って、勉強させられてとりあえず大学行けみたいな感じあるじゃないですか。あまり将来の事考えずに。まあ行ってから考えろみたいな。で、同志社行ってそこで軽音楽同好会に入りました。そこでロックやりだして。
— そこでもロックだったんですか?
井上 ロックですよ。
— ずっとロックですね。
井上 ずっとロックです。ロックなんですよ。
— それは面白いですね。
井上 面白くないですよ。昔はもう大体一緒。ロックからみな入ります。ロックギタリストが多かったんです。今はそんなにロックギターは人気ないかもしれないけど。その頃は若者がバンドやるし、ハードロックとか。まあぼくがやってたんはブログレ。
— ブログレですか。
井上 ちょっとクラッシックも入ってたり、ジャズの要素も入ってたけどいろいろ面白い感じで。
— なるほどなるほど。その時も作曲とかもされていたんですか?
井上 いや。してないですね。
— じゃもう完全にコピーバンドという感じですか?
井上 コピーバンドですね。
— でその後にずっとこうだんだんジャズに興味をもっていくと思うんですけど。
井上 ええ。それでなんか大学四年ぐらいの時かな。なんか音楽やりたいなというのがあって。
— それは、プロとしてですか?
井上 プロとしてです。普通に就職したくないなというか、反抗期がその頃から。なんか、ちょっとこのまま就職してはいかんのではないかなと思って。そして、まじめに音楽やギターをやってみたいなと思って。で、その頃にジャズスクールに行きだしのかな。
— そうですか。
井上 なぜジャズスクールかというとやっぱりその頃クロスオーバーが、今でいうフュージョンかな。クロスオーバーが流行っていて、興味をもったんです。それは結局ロックとジャズのクロスオーバー、ロックとジャズのフュージョンだった。それで、これはちょっとジャズを勉強しなきゃ理解できないと思ったんです。京都のジャズスクールに行きだして、そうこうしているうちになんか演奏の仕事が入ったんですね。
— いきなりですか。相当優秀ですね。
井上 とんでもないです。ジャズスクール一年くらい行って、その一緒に行っている人がキャバレーで演奏してて、ちょっとやると言うので僕が一緒について行ったら、君明日からおいでって他のバンドで言われてしまって。そのまま就職せずに大学は卒業してしまったみたいな感じですね(笑)。
— 就職活動もせずに。
井上 全然してないです。そのまま卒業してしまった。
— その後、どのように渡米しようと思ったんですか?
井上 京都でいろいろライブハウスみたいなところでやったりしてて、まあジャズに、フュージョンよりもジャズそのものに興味を持ったんですね。まず25歳くらいのとき1ヶ月だけニューヨークにひたりに行ったんです。
— 音楽にひたりにですか?
井上 音楽にひたりに行ったんです。ジャズを聞こうということで友達と行きました。30日滞在のうち毎日毎日、よなよな出かけてのジャズ三昧でした。それはもうジャズクラブとかコンサートとかいろいろです。
— 毎日。30日間ですか?
井上 30日あったから、40回くらい聞きにいきましたね。昼間もライブ聞けたりするから。観光客ならではのパワーですね。
— どうでした?その時。
井上 いやもうすごかったですよ、カルチャーショックが。結局外国も初めてだったからそういうのも全部含めて文化の違い、言語の違い、音もすごいし。
— それはやっぱりもう自分には持ってないというものがやっぱりあったんですか?
井上 いやもうそれは全然持ってない。
— なるほど。
井上 すばらしいプレイでしたね。
— 本当にそうですよね。すばらしいプレイヤーが目白押しでいますもんね。ニューヨークというところは。
井上 日常でやってますから。
— なるほど。
井上 まあショックを受けて帰ってきたんですね。
— その後どういうふうに?
井上 また関西でずっと演奏ライブやってましたね。また、ギター教えたりしながら。その後再度、ニューヨークに6ヶ月行ったんですよ。4年くらいたってからかな。
— ずいぶん時間があいたんですね?
井上 そうですね。85年やったかな。日航機が落ちたときかな。阪神が優勝したときです。その頃だと思います。その時に当時の観光ビザで最高が6ヶ月だったかな。ちょっとまあ6ヶ月だから生活になりますよね。
— ええそうですね。
井上 その6ヶ月でまたいろんなハプニングがあったというか。1回目行ったときはわりと聞くばっかりだったけど、2回目は実際、ブルーノートで演奏する機会とかあったんです。
— へえー。
井上 ストリートミュージシャンをやったり。ブルーノートにちょっと日本人フェスティバルみたいなのやっていたり、ハーレム行ったり、いろんなところで演奏で花開いたというか。
— それはどうやってこう、なんと言うんですかね。自分を…
井上 売り込んでいったかということですか?それはもうジャムセッションとかありますから。当時ブルーノートのジャムセッションに入っていましたしね。特に楽器を持ってジャズをやる、そういう場所が今でもありますけども、今より多かったかもしれませんね。そういう所に行くと同じ志の人達が集まっているわけですよね。世界中から。で、いろいろ情報交換して、そしてまた仕事でギターが要るからお前やれとか、そういうことが結構ありました。それでなんか俺ひょっとしたらニューヨークでいけるかも。なんかいけんじゃないかな、みたいな、そういう幻想をいだかせてくれたというか。
— へえー。すごい。
井上 ラッキーだったんです。
— ラッキーだったんですか?
井上 はじめに一ヶ月行ったときの下見があったから立ち回りもよくて、それなりにできましたしね。最初の1ヶ月、その後の6ヶ月のニューヨーク滞在の間に京都で自分でも演奏していましたからね。
— それをニューヨークで再現ですか?
井上 ニューヨークで通用したこともあるし、通用しなかったこともある。まあそれでもいろいろ演奏の機会はあったんですね。
— それで音楽でいけるなというふうに思ったんですね?
井上 通用するというか、まあ、ここで何とかアルバイトしたりとか、何とかなるんじゃないかみたいな感覚でしたね。生活して音楽勉強していくことが出来るんじゃないかみたいに思っていました。ただ、6ヶ月行って帰って来た時は、そんな計画は無くて、またやっぱり行きたいなというだけでしたけど。
— そうなんですか?
井上 ニューヨークで生活しようなんか、そういう発想はなかった。
— そうなんですか。
井上 ただ6ヶ月行って、なんとかなりそうなんかな、とかそんな気がしたんですね。そしてその後やっぱり関西に戻って演奏してました。しばらくして、もう一度、行こう。アメリカに行くなら今のうちだぞ、みたいな。どんどんいろいろ関係が出来てきてだんだん動きにくくなってくるでしょ。若いうちかなということで。
— 渡米をしたいと決めたのはどんなことですか?
井上 やっぱり6ヶ月のニューヨーク滞在がすごい自分の中にあったんやろうね。そこでいろいろな何かがパンと開いたんです。チャクラが開いたというか。やっぱり自分を鍛えたいというか、多分6ヶ月いたときに、短期間の6ヶ月しかいないというふうに自分で決めているから、すごい自分で動き回ったんだと思う。
— 生活でだらだらするのではなくて、音楽活動することを決めているから。もうがーんと来たわけですね。
井上 さあ行くぞ。やるぞ。みたいな。気合が入ってたんでしょうね。結局そういう新しい自分を見たのもあったのかもしれん。自分で自分に驚いたというか。自分がそういう環境にあると頑張る。ニューヨークで頑張る。ちょっと逆境といったらおかしいけど、言葉もそんなに流暢に通じるわけじゃないし。そういうところに自分を置くと、逆にこう頑張るというのがあるのかみたいな。そういう性格というかね。そんなこともあって、ニューヨークにもう一回行きたいというのは持ってたわけです。行くのだったらはやめに2、3年行って勉強して、帰って来ると。2年という事やったんだけど、これが今引き継いで16年(笑)
— なるほど。最初は音楽学校に行かれたんですか。
井上 いや。それが行ってないんですよ。
— 音楽学校に行ってないのですか?
井上 行ってない。一年くらいは。ビザが丁度、切れる頃にやっぱりこれは音楽学校でビザ出してもらおうかということになって、ニュースクールに行ったのですね。
— ジャズを学ぶには非常にいい学校ですよね。
井上 ビザだけのためにいったんですよ(笑)。
— ビザだけのためとは思えない位、いい学校ですけどね。
井上 僕も良く知らないから(笑)。行ったらとても良かったですね。それでこれはもう卒業しようと思いました。
— そこで恩師に会われたわけですか?
井上 そこで恩師に会いました。ジムホール大先生に。
— なるほど。そうやって、だんだんアメリカ人を中心に外国人と演奏活動を主にやり始めるわけですよね。日本人と演奏する場合と、外国人と演奏する場合の違いはありますか?
井上 あんまり違いないですよ。
— ないんですか?
井上 ない。相手が日本人だったら日本語でコミュニケーションするだろうし、アメリカ人だったら英語でする。それだけの違い。
— ニューヨークに住んで、一番受ける音楽的な影響というのはどういうものでしたか?
井上 いい影響も悪い影響もあるでしょうね。都会ですから。結局たくさんミュージシャンが集まっている所でやるわけですよね。他の分野のアーティストも含めて、結局層が厚い。たくさんのミュージシャンが切磋琢磨しておる。となるといろんな所でいろんなミュージシャンがいて、又レベルも高いし。まあ低い人もいるんですけれども、結局上から下までのレンジが広い。層もジャンルも。本当にそこらじゅうで日常に音楽が溢れているというかね。だからそういうところに自分を置くことによって、自分で自分のケツをたたくことが出来るかなみたいな。もともとレイジーな性格ですから。それに、学校に行って、ジャズギターだけでなく総合的な音楽の歴史とか、理論もそうですけれども勉強しなさいと言われないとしない科目ってありますよね。例えばコンポジション(作曲)だったり、イヤートレーニングだったり、ミュージックヒストリー、ジャズヒストリー、アンサンブル、アレンジメント、編曲ですね、そのような科目も良かったですね。ジムホールとかそういういい先生に出会えたというのも、ニューヨークでないと実現しない影響というのでしょうか。それと、もっと練習しないといかんなみたいな(笑)。
— ニューヨークに行くミュージシャンの方はもっと練習しなきゃいけないと思うようですね。
井上 なんかミュージシャンは一日じゅう音楽の話をしてるみたいなところがある。人のライブ聞きに行ったりとか、自分で演奏したり。歴史的にジャズの大きなムーブメントが起こった町ですからね。そういうのが残っているんでしょうかね。雰囲気、空気がね、ジャズの。
— 日本にいたら受けにくい刺激ということはあるのでしょうか?
井上 わかりやすい話で言えば、アメリカ人がお琴を学ぼうとしたら、たぶん日本に行くみたいな。アメリカでも邦楽は学べるやろうけど、日本にいったらその周りにある文化や背景や歴史もね。
— なるほど。文化とか言葉とかそういうもの全部すべてを一緒に学びに行かないと分からないということですもんね。
井上 そうですね、ジャズの場合アメリカで生まれた音楽ですし、まあ層が厚いですよね。層が厚いというかほんと豊富ですよね。そこらへんにあるわけだから。そういうところにミュージシャンが集まるし、世界から集まってくるし、そこでこう刺激を受けるんかな。
— 一番影響を受けたのはジムホールですか?
井上 いやもうジムホールのレッスンは目からうろこですね。もともと自分がジャズ、やりだすようなきっかけになった人ですから。
— 井上さんは、音楽というもので自分を見出していったと思いますが、その音楽やジャズというのは井上さんにとって何でしょうか?
井上 自己表現の手段。自己表現の手段やし、それはまた自分が演奏したり作曲したり演奏する時にミュージシャン、他のミュージシャンと美の追求を楽しむというか、何かを作りまたオーディエンスとも一緒に作り上げるという楽しみでもありますよね。いまや自分にとってそれが生活の糧でもありますけど(笑)。
— そうですよね。
井上 そうはいっても結局、音楽に出会えてよかったと思いますね。ジャズに出会えて。
— 音楽は言葉で言えるようなことではなく、お客さんに聞いていただいて、こういうことを自己表現したいんだなというふうに分かって欲しいということですよね。
井上 そうですね。結局メッセージがあっても音で伝えるわけですから。小説家は小説で表現するし、ミュージシャンは音楽で表現するんですね。
— 一流のプロになられて、今後の人生まだまだありますけれどもどういうような夢をもっていらっしゃいますか?
井上 ミュージシャンとして、ギタリストとしてもっともっと成長したいですね。あと作品発表したいし、アルバムも作りたい。今の自分のバンドでもっと活動したいですね。
— なるほど。海外でミュージシャンをやって活躍する秘訣、成功する秘訣ってあるとお考えですか?
井上 成功する秘訣があったら教えて欲しい(笑)。まあ自分がやっている経験から言うと、そうですね、いいものをよい形でプレゼンし続けたらいいんじゃないですかね。結構、日本でもそうだと思いますけど、頑張るというか、すぐ結果は出ないけども、やっぱり長く続けることじゃないですか。長く長く続けられるような環境に自分を置くことが大事ですね。あとやっぱり、実力社会でははったりのないところでの実力がいるし、また一人だけでは音楽はできないので人間関係もあるし、そのへんをクリアしつつ、自分を積極的に動かす。特にニューヨークなんかでは積極的に動けば割とレスポンスがあると思います。なんかいっぱい若い人が来て、まあ僕もまだまだ若いと思っているんですけど、いっぱい20代の人が来て良く相談や、ギター教えてくれとか来るんですけどね。でも頑張って自分の殻打ち破ってそこに行こうという人はやっぱり、そういうパワーを逆に俺がもらっている気がする。友達ばかりで集まってしまってなんかするんじゃなくて、知らない人とも出会って新しいネットワーク作ったりすると良いでしょう。
— なるほど
井上 やっぱりニューヨークは人に会う場所でありますよね。僕も学校に行ってよかったのは、同じような事考えているいろんな人に会うことでしたね。
— なおかつその学校以外でもいろいろな所にジャムに行ったりですよね。
井上 そう。ジャムに行ったりとかね。学校に行っていると、まあ忙しいですけどね。宿題とか。それに、秘訣というのは多分自分のスペシャリティーというのを知ったらいいんやろうね。
— スペシャリティー?
井上 自分しかないこととか、自分の切り口といったらおかしいけど、そういうのあるでしょ?
— 他のミュージシャンと差別化するということですか?
井上 差別化というかミュージシャンだけではなく、例えば自分が映像の得意なミュージシャンだったらそういう切り口とか流れとか、コンピューターの操作が得意とかそういう自分のスペシャリティーを何かみせれるということだと思います。
— 海外で勉強したい留学をしたい、短期も長期もいらっしゃると思うんですけど、そういう方に何かアドバイスみたいなものがあれば教えていただいてよろしいですか?
井上 すごい応援しますよね。やっぱりいいことだと思います。見聞を広めて。アドバイスとしては、その留学する国の言葉を事前に出来る限り勉強しておくと、時間的に得なんじゃないかな。行ってからね。英語だけを学びに行く人は英語を学ぶだけでいいのかもしれませんが、音楽を学びにいく人でも英語はいるわけだし、例えばクラシック音楽をドイツに学びに行くのであればドイツ語をしゃべったほうがいいだろうし。言葉でコミュニケートするわけだから。それが苦手で引っ込み思案になりたくないよね。それに出来が悪くてもやたら先生に食ってかかるとか。お前もういいというような(笑)。日本の子はおとなしく聞いてる。まあ今の日本知らんけども、やっぱりクラスルームをアクティブにしたほうが先生も喜ぶし。意味の無い質問することは無いけど、やっぱりなんか食い込んだほうがいいんですよね、アメリカの学校は。
— 日本人って授業では結構おとなしいですか?
井上 かもしれませんね。
— 言葉ももちろん出来ないでしょうし。
井上 相手が私のこと見てくれないの。みたいに待っている場合があるから。待ったら駄目ですね。
— 実際井上さんもニュースクールで教えている立場としてそういうことを感じるということですね。
井上 そうですね。やっぱりインパクトを先生に残す生徒はなんとなく分かりますよね。気合出しているなと。
— そうするとやっぱりこいつはかわいがってやろうと。
井上 かわいがってやろうかというか、まあなんでしょうね。やっぱりインパクト残したほうが得やろうね。何かとね。
— そうですよね。頭に残りますもんね単純に。
井上 先生もうれしいしね。
— やっぱりうれしいですか?
井上 そりゃやっぱり授業終わって話しかけてきてくれるとね、質問とか。
— いわば質問はどんどんしたほうがいいと言うことですよね。意味の無い質問は先ほど言ったように止めた方がいいでしょうけど。
井上 質問だけじゃなくて積極的に参加するとかね。クラスルームをアクティブにすることが大事ですね。
— わかりました。本日はありがとうございました。
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【井上智カルテット~メロディック・コンポジションズ・ツアー 2007】
6月11日(月)京都:ルクラブ 075-211-5800
6月12日(火)神戸:サテンドール 078-242-0100
6月13日(水)大阪:ロイヤルホース 06-6312-8958
6月14日(木)石川:西田幾多郎記念哲学館 076-283-6600
6月15日(金)福井:響きのホール 0776-30-6677
6月16日(土)鈴鹿:どじはうす 0593-83-5454
6月18日(月)今治:ジャズタウン・プレイベント 会場ジャムサウンズ 0898-33-3023
6月20日(水)大分:ネイマ 097-567-1517
6月21日(木)熊本:エスキーナ・コパ 096-322-5353
6月22日(金)宮崎:Cafe B-flat 0985-28-8456
6月23日(土)東京:金魚坂 03-3815-7088予約制
6月24日(日)甲府:コットンクラブ 055-233-0008
6月25日(月)東京:Body&Soul 03-5466-3348
6月26日(火)舞浜:イクスピアリ 047-305-5700
尚、詳しい時間や料金などは各会場に直接、お問い合わせ下さい。
ツアー全体のお問い合わせはS&J ASSOCIATES(076)222-5960
奈良希愛さん/ピアニスト/ドイツ・ベルリン
「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はヨーロッパ各地、アメリカに留学経験があり、現在ベルリンと東京を中心に大活躍されているピアニスト奈良希愛(ナラキアイ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学をすること」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います(インタビュー:2005年12月)。
ー奈良希愛さんプロフィールー
東京藝術大学卒業。ベルリン芸術大学首席卒業。同大学院国家演奏家コース首席修了。マンハッタン音楽院大学院プロフェッショナルスタディーコース修了。マンハッタン音楽院室内楽科助手を務める。全日本学生音楽コンクール全国第1位、シュナーベルピアノコンクール、ブゾーニ国際コンクールなど多数のコンクールで上位入賞。ロベルトシューマン国際音楽コンクールピアノ部門、日本人初の第1位金メダル優勝。ドイツ学術交流会、文化庁芸術家在外研修等奨学生。ドイツ国営放送局主催アイゼナハ/ヴァルトブルグ城演奏会、ボローニャ国際ピアノフェスティヴァル、NHK-FM名曲リサイタルなど、世界各国の音楽祭から招待。ベルリン響、ツヴィッカウ響、新日本フィルなど内外のオーケストラと共演。ソロ活動の他にトーマス・ティム(ベルリンフィル第2バイオリン首席奏者)、アンドレアス・ティム(ベルリン交響楽団首席チェロ奏者)とピアノトリオを結成し、各地の音楽祭から招待。現在、日本とベルリンに主な拠点を構え、世界各国で演奏活動を展開。指導者としても各地で公開講座、コンクールの審査を行う。音楽雑誌『ショパン』にエッセイを連載中。2006年4月より相愛大学音楽学部専任講師に就任。
— 簡単な略歴を教えていただいてよろしいですか?
奈良 東京藝術大学を卒業後、ドイツ政府の奨学生としてドイツ・ベルリン芸術大学に行きまして、そのまま大学院まで行きました。その間にスペインの音楽院やイタリアでプライベートレッスンを受けた後、1年間ほどマンハッタン音楽院で実習をやりながら大学院に通って留学は昨年終わったところなんです。
— いろいろな国に行ってらっしゃいますが、ドイツ以外の所にもいろいろ行きたかった、ということですか?
奈良 最初はヨーロッパに留学したいなという漠然とした気持ちがありました。そして、先生とのご縁や奨学金をいただけることでドイツに行きました。ドイツものを勉強しているうちにスペイン音楽に興味を持ちました。スペイン音楽というのは、ヨーロッパ内とはいえドイツとは社会や文化が違いますので。そこでピアニストの熊本マリさんにお手紙を出してお返事を頂き、彼女の先生をご紹介いただいて、スペインに行くことになりました。また一方ではイタリアのカトリックな宗教的なものにも興味がありまして、カトリックの聖地であるローマに行きたいなということで先生のご縁があってイタリアに行ったのです。アメリカは最初そこまで希望していたわけではないのですけれども、ヨーロッパでは勉強させてもらったと思っていましたし、アメリカの先生がずっと前から大陸の違う国でも文化があるということを肌で感じたほうがいいよ、というふうにおっしゃっていましたので。でもアメリカは学費も高いし、あんまり乗り気でもなかったしちょうどテロもありましたが、大学の方から奨学金が出るということでそれでは行って来ようかなと1年間行きました。
— 一番最初に音楽に興味を持ったきっかけというのを教えていただいてよろしいですか?
奈良 年の離れた姉がいるのですけれども姉がピアノを弾いていまして、家に楽器はあったんです。音楽一家ではなく、代々法律一家でした。ただ楽器に対して興味を持って、よく自分で作曲までいかないけれど歌詞を付けながら音を鳴らしてピアノをおもちゃとして遊んでいました。そこが音楽との出会いの最初かもしれません。
— 2歳くらいからピアノをやっていらっしゃるのですよね。
奈良 母が一応バイエルだけは一緒に弾きながら教えてくれたのですけれども、それ以上は、母は全く素人ですので限界が生じました。幼稚園の先生がどうも私は耳がいいらしいというようなことを感づいて音楽教室にでも連れて行ったらどうかというふうに言ってくださったのです。それで私を音楽教室に連れて行ったら楽しんでやっていたということで音楽を習い始めたのです。
— それではクラッシックから入っていったということですか?
奈良 バーナムとかトンプソンというのがありまして、一応姉が習っていたからかもしれないですけれども古い楽譜があってそれを始めて、バイエルから取り組みました。
— 例えばポップスとかジャズとかそういうものに小さい頃は興味は持たなかったんですか?
奈良 もしかしたら答えになっていないかも知れないんですけれど、ピンクレディーとか良くそういうレコードなどは聞いていたんですけど。ピンクレディー以外は歌えないかな(笑)。
— いろいろな国に行かれていますが、音楽をやるにあたってそれぞれ良い点悪い点というのはありますか?
奈良 これは人それぞれなのでご縁があるかによりますし、それを私のところで強く言うことはないのですけれども、私はヨーロッパのほうが長かったのでアメリカよりヨーロッパの方が、相性が合うタイプではありました。世の中にはアメリカの方に先にご縁がある方もいるし行きたいと思う方もいるから私は比べる気はないんですね。要は行きたいと思った所にタイミングよく習いたい先生がいるということが大事だと思うのです。みんなが行くからというよりは、自分が行きたいという理由が本心である場所を選ぶべきだと思います。
— 本当に縁がある場所に行くのがいいのではということですね?
奈良 縁とあと相性ですね。行きたいという気持ちがなければいけないと思います。とりあえず行ってみるだったらとりあえずの結果になると思います。
— スペインやイタリア、ドイツと比較してなにか個人的にここは良かったな悪かったなという点はありますか?
奈良 私は比較的いい先生にお目にかかったものであんまり悪い点はなかったのです。そういう意味でどこの国でも補う形であったのは確かですね。長所がそれぞれ違うので。ドイツで習った先生はすごく学者的、教育者的なタイプであり、ピアノという音楽、クラッシック音楽はそれだけが幹のように生えているわけではなくて、宗教的なものが背景にあり国民の感情とか過去の歴史があるという事を私は学んだんですね。日本だったら次々にエチュードをこなしたり試験に向けてやっぱり練習したり、何かにつけてピアノのソロばかりに頭がいきがちでしたけれど、クラッシック音楽というのは何かから派生しているものなのだなという事を、ヨーロッパに来て初めて納得したというのがあります。理論的なことはすごく強くドイツから学んだのですけどスペインやイタリアはラテン系なのでどちらかというと感情に結びつけるという、頭だけではいけないものを補ってもらう形で学べたと思います。アメリカはまた大陸が違うと、こんなに違うのかという感じでした。やや日本に似ているのかもしれないけどクラッシックに関しては歴史がヨーロッパと比べるとそんなに深くないので、また違うエンターティメント的な華やかさをアメリカは持っているのだなというふうに思いました。
— ヨーロッパは過去の歴史・文化の中から出てきたものがあるけれどもアメリカはエンターティメント性が強いというのが一番印象的な事でしょうか?
奈良 アメリカはどちらかというとアメリカナイズされているなと私は思いました。アメリカはもちろんヨーロッパを高く評価していますけれども、自分は強い国だということを分かっていますから自分達は決して間違っていないというのを信じています。だからちょっとギャップがありますよね、正直。
— ヨーロッパからアメリカに行かれるとちょっと引いちゃうところがあるのですか。
奈良 私はちょっとじゃなくて、「・・・ああっ」というような。
— かなり。
奈良 好みの問題もあるのですけど、アメリカはどちらかというと最後にワーッて華やかに終わるほうが好きで、ヨーロッパはどちらかというと演奏が終わった後でも余韻を楽しんでからやっと拍手が出るほうが好きという感じです。私はヨーロッパが長かったのでヨーロッパタイプの音楽の方が好きなだけです。
— 海外で仕事をすることで日本人が有利な点、不利な点はありますか?
奈良 私は、個人的には、就職はかなり不利ではあると思うのです。クラッシック音楽を学ぶのにどうして日本人から学ばなきゃいけないんだ、と。ヨーロッパ人には誇りがありますし現にそれはそうですよねと思う時はあるのです。だからかなりの覚悟で行かなくてはいけないと思います。コンサートについては、良かれ悪かれ日本人でもヨーロッパのお客様は音楽が好きな人が来てくださるので、自分達でプログラムを考えて日本的なこの曲を弾いたらお客様が集まる、とかそういうビジネス的な世界を考えなくていいというのがありますね。
— そうなんですね。
奈良 ホールは大きい所はないのですけれどもヨーロッパの音楽活動はそういうところはありがたいです。演奏活動だけに集中できますし、それで音楽好きなお客様が来てくださるので。日本でいうとお客さん来るかしらとか大丈夫かしらとかそういうのありますけど、そういう精神的負担が全くないんですね。
— それはすごいいいことですね。
奈良 そうであって欲しいのですけどね日本も。
— そうですね。
奈良 だから日本人だからという心配はなくコンサートは行えます。
— 演奏の演目でも日本だったら明らかに受ける曲というのが結構あってそれをプログラミングされる場合が多いと思うのですけれど、ドイツだと、例えば現代曲でもお客さん集まるのですか?
奈良 そうですね。そんなにたくさんは来ないかもしれないですけど、ある程度は来てくださりますね。私は一応主催者と相談しますけど9割5分問題があることはなかったですね。問題があるとしたらちょっと長すぎるとかそれ位でしょうか?
— それはいいですね。先日、チェコの音楽家と話しをしていたのですけどチェコでは新しい曲は難しいと話していたのですよね。だからやっぱりドイツはまた違うのでしょうね。
奈良 もしかしたら私がベルリンだったからかもしれません。オペラを初演するのにベルリンが会場としてまず第一候補になりますから。実際音楽に関しては敷居が高くないのかもしれない。
— お客さんも本当に音楽が好きな方が普通にいらっしゃる。通常自分の生活の中で音楽があるという感じなのですね。
奈良 そうですね。音楽が好きで逆にチケットもそんなに高くないので、街に音楽が溢れていますし何か音楽に対する近さはあるんでしょうね。
— ドイツの方たちはいわゆる大音楽家であれ、中堅であれ、まだ一番下の人たちであれ、威張って俺は音楽家だぞ見たいな感じではないのでしょうか?
奈良 人それぞれでいらっしゃると思うのですけど、教師にしろそうかもしれないのですけど、海外の先生というのはまず1度は演奏を聴いてくださるので、敷居は高くはないと思いますね。とにかく自分がやっている仕事に対して誇りを持ちますからプライドはあるかもしれませんけど、変なプライドはないかも知れないですね。
— 生徒がやりたい事を非常に受け入れてくれるということですよね。
奈良 そうですね。
— 奈良さんにとってクラッシックや音楽とは何でしょうか?
奈良 私は結構あんまり模範になるタイプじゃないのですけど。何度もやめようと思ったタイプですので。私は大学も本当は音楽大学に行く予定じゃなかったんですね。まあ音楽嫌いじゃなかったのですけど、どうしても練習練習というのが嫌になって。高校3年生まではそれで悩んだりして続けてはいたのですけど、高校3年生の時に我が家が代々法律一家だった事も手伝って、法学の道に進もうと決めたんですね。そちらの方が実力がはっきり出るから楽かなと。頑張ったら頑張った分比較的すぐ結果が出るかなと思いまして。それで音楽を専門的にするのはやめようと思って記念にと、全日本学生音楽コンクールというのがあるんですけどそれを記念受験したんですよね。最後どこまで頑張れるかって。本当は東日本大会本選の奨励賞というのを狙っていたんです。奨励賞取るのでも大変だったので。そうしたら賞状はいただけるんですけど、本選受賞者演奏会に出なくていいんですよね。そしたらセンター入試にかかれるのでそれを狙っていたら、ちょっと頑張りすぎちゃって全国1位になっちゃったんです。それで音楽をやめるのを断れない環境があったんですね。
— もうやれよと周りからでしょうね。
奈良 嬉しかったんですけどちょっととまどいがあって、それがかなり長い間続いていました。やっぱりどの道を行くにしても悩みますよね。何かあった時にああやっぱり法律の道に行った方がいいかなと、去年位までずっと悩んでいたので。
— まだ悩んでいるのですか?
奈良 分かりませんね。私にとっては音楽も魅力でしたけれど、18才の時に決断した法律の分野というのはそれなりに魅力や憧れがあって、将来の確定は言えませんけどかなり悩んでいたのは事実です。法律の分野は『正しいのはこれだ』というのがハッキリしていて、周りからの評価が確実で楽ではあるんですよね。自分のやりたいことをやっていても評価が比較的複雑ではないというのがあって。音楽などの文化というのは何か経済的な問題が社会であると最初に消されてしまうものだと思うのです。その中で無理して生きるのもどうかなと、そういう現実的なことも考えちゃったりして。それだったら資格をとるという意味で法律を勉強しようかなと思っていたんです。でも音楽は今まで続いていて、何かそういう仕事があって喜んでやる自分がいるんだから続けられるまでは自分のテンポで続けようかなと思っています。
— 今はまだ音楽のほうが魅力的なのですか?
奈良 音楽がまだ運良くご縁が切れてないんです。切れたら辞めようと思っています。今のところ細々と続いていて喜んでやっている自分がいるのでやっているという感じではあるんですね。法律も難しいですから。
— どちらも難しいですね。そういった方に次の質問をするのは非常に変な感じがするんですが、今後の音楽家としての夢というものがあれば聞かせていただいてよろしいですか?
奈良 私は運良く素晴らしい先生方にご指導いただきました。その先生方はいろいろな意味で人間としても評価が高く尊敬される方ばかりなんです。皆さんやっぱりお年ならではの人格です。私は自分にあったテンポで足りないところを勉強しつつゆっくりでもいいから人間として上を目指すような人生が送れたらな、音楽的にもそれは焦らずに人との出会いに関係していけたらいいなと思っているんです。あとは必要に応じて、私が学んできたことのいくつかを次の世代に残していければいいなと思うんです。
— 演奏家という部分ももちろんありますけど、教育者という部分をかなり思い描いているのですか?
奈良 教育はかなり。演奏家一本で絞ろうとはゆめゆめ思っていませんし、そういう活動だけにこだわっているつもりはないんです。教えるというのは教わることでもありますから教えるのは大好きです。ただ教える立場になるにはやっぱり自分の器が必要なので常にそっちを求めていくというのはありますね。
— マンハッタン音楽院でアシスタントとして教えていた経験というのはかなり役に立つのでしょうか?
奈良 そうですね。いろんな意味でとても勉強になりますよね。楽ではないということを学びましたし、面白いということも学びました。
— プロのミュージシャンとしていろいろと演奏活動をされていると思うのですけれど、プロになる理由や条件、それは精神的にでも技術的にでもいいのですが、そういうものはあると思いますか?
奈良 私もよく分からないのです。どうして今まで続いているのだろうと思っているんです。ある種人生いろいろ勉強する段階、いろいろ補填する段階、プロとしてやっていく段階というのは何かそういうフレーズがあると思うんですね。その切り替えの時に立ち止まらないで進んでいくということの方が大事なのかなって思います。留学して学生生活ってやっぱりすごく楽ですし魅力的ですし、特に海外で勉強だけに集中できるのは良いのですけれど、次のステップに行くというのもタイミングが大事なのだと思います。私もコンクールを過去にたくさん受けていましたが、コンクールをあまり長く受けているよりはある程度で見切りをつけて次にシビアな演奏活動で揉まれるという方が大事だと思いますね。私は個人的には5年も10年もずっとコンクールに出ていたら、それまでに取っていたコンクールの価値もなくなってしまいますし、取りすぎというのは逆にどうかなと思います。コンクールが全てだと一生懸命頑張っても、何年か後にはまた同じコンクールで次の優勝者が出てしまうわけですから難しいと思います。
— いくらコンクールで優勝したとしてもそれが全て仕事につながるか演奏活動につながるかというのはもちろんないわけですよね。
奈良 またコンクールって微妙な曲目でいけちゃうんですよね。基本的に演奏活動として求められるのはどれだけレパートリーがあるか、代役などの話があった時にどれだけ準備が短い期間で出来るか、訓練ではなくて先生のそういう鍛えられ方が大事になってくると思います。コンクールというのは準備入念にしていけますが、そこから先はすごく人間的な社会が待っているというか、そこから先をどうするかが問題になると思いますね。
— 最後になりますが、海外で今後実際に勉強したいと考えている方がたくさんいらっしゃるのですがそういう方に対して何かアドバイスみたいなものがあればお願いしてよろしいですか?
奈良 語学は必須だと思います。語学は足りない、余るということは絶対ないです。語学はあんまり甘く見ないほうがいいです。1回目のレッスンから、また次のどこかの公開レッスンに行くという時もやっぱり英語プラス母国語というのは最低でも出来たほうがいいと思うのです。それとあまり人と自分を比べるのではなくて人の努力は人の努力として評価してまた自分でまた別の孤独な作業も我慢できること。敵を作れという意味ではなくて、あんまり人に頼りすぎるのはどうしても一歩出す勇気が半減してしまうと思います。ある程度本当に自分のやりたい道が見つかったら割り切って自分が進んでいかないといけないのではと思います。特に留学って期間が限られちゃうからそれはあんまり怖がらずに向かう方向に行ったほうがいいかなと思います。
— 留学するということに関してはどうお考えですか?
奈良 ご縁があれば構わないと思います。ただ本人が留学したいという気持ちが強くなかったら、周りや親が留学というレールを敷き詰めると、留学してから一人でくずれてしまう子も多いので。
— 実際に留学して現地でくずれていく方というのを見ていますか?
奈良 偉そうな言い方かもしれませんけど、留学してきて有名で天才少女とか言われて出て行った人は世間にもまれることに慣れていなくて、すぐしょげちゃうし、「何でそんなところで?」というのはありました。やっぱりどうしても周りのガードが強かったのだなというのが。だから世間にもまれる時に、自分で対応が出来ない、あまりにも出来そうにない時は本当に親離れ子離れじゃないですけど自分でやるということを強めにしていかないといけないと思います。いつまでも親はいませんし恩師はいませんからやっぱり自分で出来る余裕がないと。すごくシビアな言い方かもしれませんけど。
— 本当にそのとおりだと思います。奈良さんは、現地でくしゃんとなって日本に帰っちゃうという方も結構見ていらっしゃるのですね。
奈良 日本に帰れればいいのです。帰れない方がいらっしゃるんですね。私は日本を捨ててという気持ちはさらさらなかったし、いずれは日本でも活動をと思っていたので。日本で大学まで行きましたしいずれは日本のためにと思ってましたので。私はすごい希望を持って海外に行くのは大事だと思うんですけど、ただそれが意固地になるようだったらあんまり意味がないと思います。ある程度人間挫折のあとに頑張ってまた這い上がるというのが本当の勉強だと思うので、そういうところは自分に厳しく自分に甘くというのをうまくやったほうがいいかなと思います。
— 本当にありがとうございました。
奈良希愛さんのオフィシャルホームページ
敦賀明子さん/ジャズハモンドオルガンプレーヤー/アメリカ・ニューヨーク
「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロに皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はニューヨークでご活躍中のハモンドオルガンプレーヤー敦賀明子(ツルガアキコ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「ハモンドオルガンプレーヤーとしてニューヨークで活躍すること」についてお話しを伺ってみたいと思います。
ー敦賀明子さんプロフィールー
3歳の頃からオルガンを始め、高寺文子氏、セキトオシゲオ氏、当麻宗宏氏に師事。大阪音楽大学時代にジャズに目覚め、ジャズピアノを大塚善章氏に師事。卒業後ピアニストとして関西一円で活動を始める。その後、ハモンドオルガンを独学で学び、2001年に本拠地をニューヨークに移す。ピアノをSir. Roland Hanna、オルガンをDr. Lonnie Smithに師事する。同年にハーレムの老舗オルガンクラブ、“SHOWMANS”(ショーマンズ)でレギュラー出演する。Grady Tate (Drums, Singer)、Frank Wess(Ts,Fl)、Paul West(Bass)などと共演する。Grady Tateのグループではリンカーンセンターの野外コンサートやブルーノートなどのジャズクラブに出演。2003年3月、Time Out New Yorkで将来有望なオルガンプレイヤーとして紹介される。同年5月には初帰国ライブを行い、SwingJournal, ジャズ批評で紹介される。2004年春にM&Iからアルバム「ハーレムドリームズ」をリリース。 翻訳の仕事も手がけ、「Hammond Organ Complete: Tunes, Tones, and Techniques for Drawbar Keyboards(Dave Limina著)」をATMから2004年秋に出版した。現在NYで最も注目を受けているオルガンプレイヤーの一人である。
ー もともと音楽に興味をもったきっかけを教えていただけますか?
3歳の時に、ある日エレクトーンが家に来て、運んでくれた楽器屋さんが簡単な曲を弾いてくれたんです。それを聴いて、なんて素敵なんだろう、と(笑)。もともと音楽を聞くと喜んでいた子供らしく、子供のころ、テレビの音楽にあわせて手を叩いたりとか、歌を歌ったりとかが大好きだったそうです。それで親が何か習わせてみようかな、と思ったらしいんです。家が狭いからピアノは無理だけどエレクトーンならいろんな音が出るし、ということで。それで、エレクトーンを聞かせてもらったのが格好良かったので、私も習ってみたい、と近所の音楽教室に通い始めました。
ー そのときはジャズとかクラシックとかこれをやりたいとかそういうのはありましたか?
全然ないですね。ピアノの先生がエレクトーンも教えていたんです。エレクトーンを扱っているけどピアノの本をやったりとか。最初はピアノの本だったんだけど、そのあと世界の小唄みたいな、全集みたいなものをやったんです。それにコードネームが書いてあって、それを弾く、っていう感じで。何かその中に、今思えばジャズの曲も入っていたと思います。そのあとの先生が、エレクトーン専門の先生でした。エレクトーンはグレードがあるんですけど、グレード試験受けるときに一番最初にはまったのがフュージョンです。先生の息子さんがドラムをやっていて、フュージョン聴いたり一緒にバンドをやったりしていました。高校の時に専門コースに通ってたんですけど、エレクトーンプレイヤーの方に習っていました。 Giorgia on my mindを楽譜で弾いていたんです。それとかマンハッタンって曲。今思うと結構Jazzyな曲が好きになって、こんな感じの曲をもっと弾きたいって言ったら、ジミースミス(Jimmy Smith)聴いたらいいって先生に言われて聞いてみました。教室にライブラリーがありレコード聞いてみたんです。そしたら何じゃこりゃっ!って(笑)。先生は、彼は素晴らしい!って、すごい熱く語ってたんですけど、最初はなんかねえ、すごいなあ〜、って感じでした。音の洪水って感じです。全部同じ音だし。こういうのもあるんだな、って思いました。それまではハモンドオルガンって言うのを聴いたことがなかったんです。それで、これがハモンドオルガンって言うのか、と思って。
ー ではその頃からハモンドオルガンをやり始めようと思ったのですか?
いや、その時はやるんなら作曲科に進みたかったんです。ところが、高校三年の時にエレクトーンの先生から紹介してもらった先生が、作曲にはコネがないみたいだったんです。なんかその先生もすごい面白い先生で、音大出たら、お見合いの時に便利だから、って言って音大を薦めるんです(笑)。最初、武庫川女子大学の音楽学部とか山手短大ってとこがあって、そこの音楽科とか、とにかく作曲科に行きたかったんです。でも先生が、「音大」ってついてたらお見合いの時に強い、っていわれて(笑)。今は分からんかもしれないけど、大きくなったら分かる、と言われて(笑)。それが高3の5月だったんです。それまで一度もピアノを弾いたことがなかったんですよ。それで、エレクトーンの月謝もすごく高かったし、3人兄弟で私が長女なんですけど、それ以上に私にばっかりお金かけるわけにはいかなかったんです(笑)。それで、音大に行くっていったら、本当はトーンとか、それぞれ違う先生につかないといけないわけです。でも、その先生の場合は全部まとめていくら、って感じで、なんでも教えてくれて。なんか考え方とか変わってて面白かったですね。受験のためだけに習いに行っていたんですが、緊張して会いに行ったら音大言ったらお見合いの時便利だよって言われて(笑)。それで習いに行くようになって、ピアノは全然やっていなかったからそこからソナチネを始めて。エレクトーンはちょっと休んで。
ー それで、音大に入ってから何故ジャズに目覚めたんですか?
クラシックで音大に入ったんですけど、みんな上手だったんで、これはついていけないなと思って(笑)。私が習った大学のピアノの先生が、私が前にエレクトーンをやっていたというので、手の形がどうとか、手の形が悪いとかいつもネガティブなことばっかり言われたんです。私はクラシックがやりたいと思って学校に入ったのに、なんかやる気なくなってきて。そうじゃなくてもピアノは鍵盤が重たいからしんどかったんですよ。なんか手にしっくりこないというか。ずっと練習してましたけど。でも、そのころからエレクトーンもまたやり始めていました。それは将来のためにヤマハのグレードを取っていたほうが良い、と思ったからです。その頃のヤマハというのは、グレードが上がるにつれてジャズの曲が多くなっていったんですね。一人ビックバンドって感じでした。エレクトーンがもっとシンセサイダーみたいになってて、ブラスとか、ストリングセクションとか。で、試験受けるときにジャズの曲を弾いた方が.....受かりやすいって聞いたんです(笑)。また学校にもライブラリーがあったので、オスカー・ピーターソンとか聴きました。その頃、子供の頃から一緒にエレクトーンを習っていた友達がジャズピアノを習い始めたんですよ。大塚善章さんに。面白いなって思いました。あ、そっかって思って。それで、音大を卒業してヤマハのエレクトーンの講師になったんです。講師になったんだけど、やっぱりグレード試験ちゃんと受けようと思ったんです。3級まで言ったのかな。指導グレードと演奏グレードというのがあるんだけどそれを全部取りました。そのグレードを取る少し前に私も大塚善章さんにジャズピアノを習いに行ったんです。面白いって思って。そのころ世の中がバブルで、新人のお仕事が一杯あったんですよ。ソロピアノで。私の友達は結構きれいで社交的だったんで、あっという間にそういう仕事をゲットしたんです(笑)。大阪は特にだと思うんですけど、どこでもそうかもしれないけど、ちょっとかわいくて、社交的な人のほうが仕事が取れるんだと思います(笑)。誰かのサブとか。彼女は彼女ですごく自分のサブを探してたんですよ。で、彼女は私に無理やりサブをやらせようとしたんです(笑)。あ、その前に、大学時代に近所のピアノバーみたいなところがあって、ピアノ喫茶みたいなとこですけど、そこに弾きにいってたんですよ。なんちゃってピアノで、ジャズみたいなものを一人で弾いたりしてましたね。
ー じゃあ、ジャズは大学のときからやっていたんですね。
そういえばしてたんですね。楽譜を見たりしてやってました。
ー 何か惹かれたものがジャズにあったんですか?
クラシックが面白くないから(笑)。
ー では、ジャズは面白かったですか?
面白かったです。アドリブとか弾けるし、自分で作れるし。
ー 敦賀さんはハモンドオルガンプレーヤーですが、あまりこの楽器に親しみのない方もいるので、ハモンドオルガンというものを簡単に説明してもらっていいですか?
ハモンドオルガンは、時計職人のローレンス・ハモンドという人がアメリカで発明した電気オルガンで、時計のぜんまい仕掛けと同じなんです。オルガンの真空管を使用し、パイプオルガンをもっと家庭用にできないか、というコンセプトで作られました。ぜんまい仕掛けの技術を利用して、パイプオルガンを小さくして、キーを押したら、接点が7個あり、ドローバーといういろいろな音に切り替わるものがあります。それを引き出すことによって、いろんな音が作れます。またレスリースピーカーという、スピーカーの上に羽がついているスピーカーを使用します。この羽を鳴らすんですが、この効果は簡単に言うと扇風機のそばで、わ〜って言ったら、振動音が出ますよね、あんな効果があるんですね。
注)Hammond Organ Complete: Tunes, Tones, and Techniques for Drawbar Keyboards(Dave Limina著)敦賀明子さん翻訳
ー ハモンドオルガンに惹かれたきっかけを教えていただけますか?
日本でジャズピアノの仕事を始めるようになって、大阪のあるところで、レギュラーをやっていたんです。そこで、ジャムセッションをやっている、ということで、ジャムセッションに行き始めたんです。その時に、オルガンやってる人がいて、カッコイイなと思っただけど、オルガン一人で弾いてても、他の人ができないから、ピアノを一生懸命やっていたんです。レギュラーとかジャムセッションをその頃毎日やっていました。それでそこがブルーノートの前だったんで、ブルーノートからアフターステージの人が一杯来たんですよ。それこそ、ロイ・ハーグローヴ(Roy Hargrove)とかグラディ・テイト(Grady Tate)もそこで会いました。そのときはピアニストはたくさんいて、ピアノは順番があまり回ってこなかったんですけど、オルガン弾いたら、オルガンを弾ける人あんまりいなかったので、ずっと弾けたから、それでオルガン弾き始めたんです(笑)。そこで東京から来ていたドラムの人にオルガン上手ですね、と言われて(笑)。そうなんや、って思って(笑)。昔からやってたし、ピアノと違って、オルガンは鍵盤軽かったので音出すのに苦労しないし。子供の時からやっていたから、手になじむという感じです。
ー そのように日本でプロでやっているにも関わらず、何故渡米しようと思ったんですか?
同世代の友達があるときを境にみんな留学でアメリカ(ニューヨークとボストン)に行ったんです。結構それで、アメリカに遊びに行くようになりました。丁度そのころ大阪でグラディ・テイト(Grady Tate)と会ったんです。そのときジミースミス(Jimmy Smith)と一緒に来ていたんですが、オルガンも弾くって言ったら、オルガンなんか嫌いだ、ピアノやれ、って言われて(笑)。その頃グラディ・テイト(Grady Tate)さんは半年に一回ぐらいは来ていたので、もう一回会って、聴いてもらったら、もうニューヨークに来たら良いのにって、言われたんです。そのときはそう言われましたし、ニューヨークに友達がいたし、1年に1回ぐらいはニューヨークに遊びに行っていました。友達はそれなりにニューヨークで演奏活動をしていたんで、行く度に私もやってみたいな、ここに来たらすごい楽しいことが待ってるんだろうな、と思いました。1年位だったらいけるかな、お金ためて、と。バイトもして、お金も貯まったので、それでB3(注:オルガンの型)を買うか、ニューヨークに行くかちょっと迷ったんですけど、どうせだったらニューヨークに行ってみようと思ったんです。
ー そのときは音楽活動を目的としてニューヨークに行かれたんですよね?
そのときはオルガンをやろうと決心していました。日本ではホームプレイヤーとしてやることがなくて、特にオルガンは誰かのバンドでサイドメンでやるということがほとんどなかったんです。私は人のバックでホンピングするのが好きだったので、そういう勉強をしてみたいな、とも思っていたんです。アメリカに行ったら一杯ミュージシャンもいるし、人のバックで演奏する機会もあるだろうと思ったので。
ー ニューヨークは本場という意識はかなりあったんですか?
ニューヨークは流れてる空気も違ったし、ここにいるだけで、自分がすごい成長できるんじゃないかと思ったんです。
ー 敦賀さんの自分の音楽スタイルはどうやって作っていくのですか?
自分がそのときに聴いているもので、こんな風にやってみたいな、って言うのがあったらまねしてみたりですね。スタイルというよりも、ニューヨークに来てびっくりしたんですけれども、みんなオルガンに合わせて踊るんです。ニューヨークに来てすぐ位の事だったんですが、ハーレムの125丁目のシーフードレストランで、ボーカルの人の曲で、すぐにギグをやったんですよ。今も一緒にやっているサックスの友達が、ここでやっていくなら絶対オルガンやで、っていうんで、なんで?って聞いたら、ベースプレーヤーがいないから、って(笑)。ベースプレーヤーを探すの大変な街だから、オルガン弾いていたら、ベースもできるし、ピアノもできるし、絶対こっちのほうが仕事ある、って。私自身はそんなこと全然考えてなくて、お金が尽きたら帰ろうと思っていたので。そのときはふ〜んって思って。それで、Showmansに行くのに、最初怖いから、ボディガードを連れて行ったら追い返されて、というかいいように断られたんです。それで二回目に、女なら良いだろうと思って、友達の女性を連れて、入らせてもらったんです。それでそこに結構二人で通ったんです。そうしたら店の人が目をつけたみたいで。
ー お客さんのふりをして通ったのですか?
ええ、もちろんギグ取ろうと思っていました。お店の人も覚えててくれて、それから一人で行ったりとか。そしたら友達がこれ絶対ギグ取れる、と言い出したんです(笑)。もう一息だと言うんですね。グラディ・テイト(Grady Tate)も連れていこうと言って一緒に行ったりしました。たまたまボーカルの人が来たので、じゃあ3人でやったらということになったんです。お店の人が 3人だったらやらしてあげる、って。それでShowmansに行き始めて、結構すぐに違う曜日にも行き始めたんですよ。多いときだと週に3日ぐらいレギュラーで貰っていました。そこで知り合った人からも別のギグをもらったんです。その後、引越しをしたんですけど、何で引っ越ししたかって言うと、オルガン運ぶには車じゃないと無理ってことが分かって(笑)。最初は地下鉄で運んだんですが、本当に大変でした(笑)。それで車持ってないなら、アクセスしやす場所に引っ越したほうがいいな、って。本当に重くて、一度運ぶと体中に青あざできるぐらい重いんです(笑)。それも重すぎて誰も手伝ってくれないし(笑)。今はもう少し軽くて音がいいキーボードがあるんで、それを使ってるんですけど。
ー 現在は日本人や外国人と演奏しているわけですが、一緒にやっていて、人種の違いはありますか?
ニューヨークはいろんな人種の人がいますよね。白人とか黒人とか。ついこないだも私以外全員黒人っていうバンドでやったんですけど、その時になんだか彼らはすごいなって思ったんです。雰囲気が、なんていうのかな、フィーリングって大切だな〜、って。それは例えば、外国人が演歌を歌います。でもなんとなくフィーリングが出そうで出ないじゃないですか。そういう感じでなんですよ。そのときもちろん私は頑張ったんですけど。これは外国人が津軽三味線をやろうとしてもなかなかフィーリングが出ないのでと同じで、私が演歌やって、歌は下手だけど、ここでこぶしの一つでも聞かせれば効果的だとか、下手でもフィーリングだけは伝わるって言うかそういうのは分かるし出来ると思うのです。それはやはり小さいときから演歌を聞いてきたからというのと、そういう日本の文化で育ったというのがあるんだと思うんです。やっぱり私達外国人の日本人がジャズをやるっていうのもそういうことなんだろうなって思ったんですね。でも外国人が日本の演歌をやった時に、違う感性で同じものをやるとそれが結構面白かったりするでしょう。だから結構外国人の私たちがジャズを弾くってことは、アメリカ人からしたら違う観点でジャズの物事を私たちが捕らえていて、それはそれで面白いと思っていると思うんです。
ー 演奏中にうまくフィーリングが出ないなと考えているのですか?
いやもう頑張ったのに何か、自分の中ではこういう風に弾きたいって言うイメージがあるんです。例えばジミースミス(Jimmy Smith)のキーンて弾くおいしいとことかね。それを弾こうと思うんだけど、でもその時に、一緒にやっているエリック・ジョンソンがギターが、一音ガーンって弾く音のほうが私がやるよりも格好良いんですよ(笑)。
ー どうしてそういう差が出るとお考えですか?
やっぱり、一つは文化の差。そして、彼らは一音にこめる感覚って言うのが、すごいフィーリング持っているのにも関わらず、すごいリラックスしてるんです。フィーリングとか、パッションで弾く日本人のプレーヤーもいると思うんだけど、なんとなく、頑張ってます!っていう感じに終わってしまう人が多いと思います。何が違うかって考えると、アメリカ人の場合は、すごいがーっと集中して演奏に入ってるんだけど、その間もリラックスしてるんですよ。肩の力が抜けてるんででしょうね。何でかというと、やっぱりアメリカの人たちは、最初からそういうフィーリングを持ってるからだと思います。日本人だと、そういうグルーブのフィーリングを、ジャズのフィーリングを身に着けるところから始めるじゃないですか。日本人とアメリカ人のテクニカル面での差はないと思うけど、フィーリングの違いですね。確かにオルガンって難しいのもありますけど。ハモンドオルガンは右手でメロディー弾いて、左手でベース弾いて、ベースペダルで、左手で弾いてるベースに、例えばウッドベースを弾いてるときに、立ち上がりがありますよね、ああいうのをベースで弾くんですよ。ちょっと練習してなかったら、バラバラですね。
ー ちなみに練習はどのくらいなさるんですか?特にプロになったあとなんかどうですか?
ニューヨークに来て、一番思ったのが日本でいかに練習してなかったか、って事ですね。アメリカに来てから本当に一番必要なのは練習だったと思いました。ニューヨークの人たちはみんな本当に練習してます。例えば、DR.ロニースミスというオルガンプレーヤーに、オルガンを個人的に聞く機会があったんですけど、一日中弾いてますね。テレビ見ながら(笑)。オルガンをテレビの前において、テレビ見ながらずーっとオルガンを弾いて手を動かしています。テレビが面白くなったら、オルガンの手を止めて、テレビの音を大きくして(笑)。あれ見てたら、人生観変わりましたね。私はテレビ見ながらやるんだったら、集中してがんがんやったほうがいいのでやり方は違いますけど。DR.ロニースミスの場合は、とにかく楽器に触れるということが大切だと言って、朝起きたらまず楽器に触れる、夜寝る前は楽器に触れる、という生活ですね。楽器とともに生活という感じですね。
ー 音楽活動をやっていく上で、何かこだわりみたいなものはありますか?
人が踊れないような音楽は絶対しない、ということです。楽譜にかぶり尽いて、聞いてる人がリズムにあわせて体が揺れないような音楽は絶対にやりません。
ー 日本とアメリカのお客さんの違いって何ですか?
アメリカのお客さんというのは反応が、日本のお客さんに比べてダイレクトですね。良かったらわーって言うし、あんまり良くなかったら、すごい喋るんですね。こっちが気分良く弾いていたら、それに対する反応というのはすごいダイレクトですね。去年日本でCD(注)が出て、日本でライブツアーをしたんですけど、その時にやっぱり日本のお客さんは国民性の違いだと思うんだけど、奥ゆかしいというか、でも実は喜んでいる、という感じがありますね。日本で嬉しかったのは、最初にみんなすごい固い表情で見てるんだけど、だんだんお客さんの表情が和らいでいくのを見るのがすごく楽しいです。国民性の違いというのは面白いですね。
(注)「ハーレムドリームズ」(2004/05/19発売)
ー 音楽をやっていて一番やっていて良かった、興奮したと思う瞬間はどのような事ですか?
やっぱりすごく良いメンバーと、すごく良いお客さんが聞いてくれるところで演奏して、ものすごくビートが気持ちよくて、このままやめたくないなって思うときですね。
ー それはバンドのメンバーにもよりますか?
オルガンは自分自身の負担が大きいので、サポートしてくれるとうれしいですね。そういう意味でメンバーによって気分は変わってきますね。グラディ・テイト(Grady Tate)のバンドでもやってるんですけど、彼とやるときはいつも楽しいです。彼はすごいんです。ボーカルのバンドでやることが多いんですけど、やっぱり彼はジャズの生き字引みたいな人で、持っている引き出しがすごく多くて深くて一緒に演奏していて楽しいです。ジャズのことを知り尽くしたっていうか、アイデアもそうだし、本当にスキャットずっとしても、その抑揚のつけ方とか、引き込まれるような感じがあります。自分が上手になったような気がする位です。そのくらい違うものですね。バンドとしての質も一気に上がります。
ー ニューヨークで受けた影響って何かありますか?
ビートや音楽に対する気合という事に影響を受けましたね。やっぱりいろんなところからニューヨークに音楽をやりに来ている人が多いので、みんな生きていくのに必死です。ギャラも多いわけではないし、そうなると自ずと競争も激しくなります。そうするとやっぱり音楽に対する情熱がないと生きていけない。もちろん情熱があっても上っていけない人は一杯いますけど。
ー 敦賀さんにとってジャズや音楽とは何ですか?
自分の人生です。Dr.ロニースミスなんかは、「人生を音にしろ」って言ってますし。
ー カッコイイですね。そういう人生を歩んでいる方の将来の夢はどのようなものですか?
私の音楽で、聞いてる人がハッピーになって、幸せな気分になってもらいたい、ということですね。
ー 海外でミュージシャンとして、成功する秘訣ってあるとお考えですか?
人に誠意を尽くすことだと思います。いくらうまい人でも、やっぱりいい加減な人はそれなりになってしまうと思います。日本もアメリカも一緒だと思うんですが、人間として必要なことだと思います。グラディ・テイト(Grady Tate)もそうなんですが、ジャズを育てよう、っていう意識があるんですよね。有名でも決して威張ったりするわけでもないですしね。人間として成長することが成功することの条件なのでしょうね。
ー 今後の敦賀さんの演奏活動をお聞かせいただけますか?
(2005年)来月8月にリンカーンセンターでアフターアワーズで1週間トリオで出ます。エリック・ジョンソン(ギター)とビンセント・エクター(ドラム)と一緒です。8月末から日本にツアーで帰ります。こちらはエリックジョンソンと田井中福司さんの3人で。普段は、私のバンドって言うのが2ヶ月に1度クレオパドラーズニードル(Cleopatora's Needle)でやったりたまにスモーク(Smoke)やショーマンズ(SHOWMANS)などでやっています。
ー 今後海外で勉強しようと考えている方にメッセージをお願いします。
日本でできることは全て日本でやってからアメリカに来たほうが道は早いと思います。例えば、アメリカに来てもすぐに人と演奏できるぐらいの技術を身につけておくなどです。アメリカに来て一から学ぼうとすると、言葉の問題とか、生活に追われたりとかするからです。アメリカ来て、人と演奏して、言葉が通じなくてもなんとかなる、って言うぐらいのレベルにするといいと思いますね。これが一からだったらもっと時間がかかるだろうし。日本で習えることは日本で習って。ジャズだけではなくて、クラシックでもそうなんですけど、まったく初心者でアメリカで来るというのはお勧めはしないですね。日本でやることはやって、ある程度経験を積んでからの方がいいと思います。
ー 仕事を得るのはコネクションが多いですか?
やっぱりコネクションが多いですね。だからみんなに誠意を尽くしていれば、話が周ってきますよ。嫌な人でもニコニコして。私はなかなかできないんですけど(笑)。言葉ができなくて、向こうも何を言ったらいいか分からないということもあったんですね。笑顔は世界共通、たまに彼女はアホかって言われることもあるらしいんですけど(笑)。やっぱり女は愛嬌ということで(笑)。
ー 最終的にはジャズならアメリカに行ったほうがいいんですかね?
自分の音楽のスタイルさえできたら、音楽をやるのはどこでいいとは思うんですけれども、ジャズをやっている以上は、一度はここの街のもつムードを経験するのは、絶対プラスになるでしょうね。
ー ありがとうございました。
霧生ナブ子さん/ジャズシンガー/アメリカ・ニューヨーク
「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロに皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はニューヨークでご活躍中のジャズボーカリスト霧生ナブ子(キリュウナブコ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「ボーカリストとしてニューヨークで活躍すること」についてお話しを伺ってみたいと思います。
ー霧生ナブ子さんプロフィールー
尚美学園短期大学・作曲科専攻卒業後、ニューヨーク市立大学ジャズヴォーカル専攻卒業。クイーンズ大学大学院ジャズヴォーカル専攻修了。ビー・バップの伝道師として知られるジャズピアニストのバリー・ハリス氏の影響を強く受け、彼のジャズコーラス隊にも参加。そのグループでニューヨークの「タウンホール」や「シンフォニック・スペース」等の大劇場で公演。96年に渡米以来、ニューヨークのジャズクラブ「レノックス・ラウンジ」、「コープランド」などで定期的に活動を続ける他、ニューヨークのテレビ番組にも出演。2002年には有楽町朝日ホールにて霧生トシ子・コンサートで日野皓正(Tp)と共演し、同年にはジミー・ヒース(Ts)をゲストに霧生トシ子、太田寛二、アール・メイ(b)、ジミー・ラブレイス(dr)、デビット・ギルモア(tap)と共にクイーン大学でコンサートを行った。ニューヨークのブルーノートにて「J-JazzSisters」として公演も行う。アルバムは「シンキング・ラヴ」など。
ー 音楽に興味をもったきっかけを教えていただけますか?
両親が両方とも音楽家(*)で、小さい頃から音楽が家中に溢れていたんですよね。それで音楽は自分の無意識の環境にあって、一生懸命やっている意識はなかったです。どちらかというと子供の頃は演劇をやっていて、お芝居をずっとやりたかったんです。だから、小さい頃の夢は女優さんになることだったんです。
*)お母様が霧生トシ子さん、義父様が太田寛二さん
ー それがどうして音楽の方に向かおうと思ったんですか?
10才の頃からNHKの劇団のオーディションを受けて、それからずっと高校3年生になるまで演劇やっていました。ホントにホントにお芝居が大好きで、毎年夏に公演やったりとかしてたんです。でもその中で音楽は自分が力をいれて一生懸命やらなくても人より優れているという感じはありました。例えばオーディションなんかでも一曲歌うと受かってしまうみたいな感じがありましたね(笑)。もちろん歌う事は好きで、何かあると歌って人の気を引いてしまうところがありましたね。その後も同じような事があって、日本の音大を卒業した後、マスコミ関係の会社に勤めていたことがあるんですけど、その会社の面接試験も一曲歌って受かってしまったと思います(笑)。会社の面接でも特技は?って聞かれますよね。ジャズを歌っていると言ったら、何かできる?って聞かれたんです。そのまま、アカペラで一曲歌ってその度胸を買われたんでしょうね。それで受かってしまった。私にとって音楽は、歌は最後の手段という感じなんです。
ー それが音楽のプロになろうかと思ったのはどうしてなんですか?
19 才か20才ぐらいの時にインドに旅行に行ったんです。たまたま母が、私の義父と旅行に行く事になっていたんです。ところが彼が仕事で遅れてしまって、行くと言っていた予定の日にいけなくなってしまったんです。その結果私が母に誘われて、一緒に親子でインド旅行することになったんです。その後、義父が来てからは、途中で分かれて、最後に一人で日本まで帰ってきたんですよね。その時に、ある街からニューデリー(注:インドの首都)まで一人で電車に乗っていたんです。そこでたまたま隣に座ったインド人の女性がいました。もちろんその時は普通の音楽学校の学生の頃でしたし、英語なんかも話せませんでした。でも、その女性が非常に親切で、こちらの片言の英語でも一生懸命聞いてくれて、「何やってるの?」とかいう会話をいろいろしていたんです。私が音楽を勉強しているんだ、という話をしたら、いきなりその女性がその場所で、本当にいきなりインドの歌を歌ってくれたんです。本当にびっくりしてしまいました。日本の感覚からいったら外人が旅していて音楽勉強しているからと言って日本の歌はこうですよなんて、歌わないじゃないですか。だから本当に感動してしまって、その歌に心を打たれたんです。彼女に何回も歌ってくれる?といって歌ってもらい、その場で急いで楽譜に書いて、リズムや歌っている言葉をカタカナで聞こえた通りに書いて、何遍も歌っているうちに、歌を覚えちゃったんです。それで二人で一緒に歌ったんですね。そしたらその人が今度はびっくりしてしまってたんです!インドの言葉なんかもちろん知らないし、英語も分からない子が、いきなりインドの歌を、訳も分からない日本語のローマ字みたいな見たこともない文字でざーっと書いてあって、でも歌は一緒に歌える、みたいな事になったんですね。それですごい意気投合してしまったんです。道中二人でその歌をワーっと歌って、心は一つみたいな感じになったんですね。その時に歌ってすごい!と思ったんです。それで歌というのは人の壁を越えるというか、魔法のような力があるなと思ったんです。そういう訳で、歌の素晴らしさを知った経験を生かし、いわゆる「うまいシンガー」になろうというのではなくて人に何かを伝える、「メッセージを伝えるシンガー」になりたいなと思ったんです。日本の感覚でいうと歌がうまくないとシンガーではないという感覚があると思うんです。それまでは歌は好きでしたが、自分の中ではコンプレックスじゃないですけど、特別うまいと思ったことはなかったんです。特に音楽の環境に育ってきているのでやはりうまい下手はわかるんですよね。自分の中に特別歌がうまいとか歌の才能があるなんて思ったことはなかったけど、歌の意味とかすごさがその時に分かったので、だったら歌ってもいいかなと思ったんです。歌をうまく歌うなら自分のやることじゃないというか。歌って技術だけじゃないと思うのです。うまいとか下手じゃなくて、100人いたら100人の声でみんながそれぞれ話したりするのと同じように、それぞれの人間のドラマがあってそれを歌っていい、そういうものだと思うんです。それがインドで分かった、歌手になろうと思った大きなきっかけだと思うんですね。多分音楽って、日本でもこれだけカラオケが普及していて、みんなが歌っている中で心が通ったり、誰かが歌っているときにみんなで拍手をしたり、みんなで歌声をシェアするみたいなところがあると思うんです。そういうのがうまい下手ではなく、歌にはあるんです。もちろん、うまい人が喜ばれたりするんですけどね(笑)。だからもちろん一生懸命やってうまくなった方がいいですけど(笑)。
ー 感じる部分というのはうまい下手ではないですよね。そういう音楽性をお持ちの中で、ジャズになっていったという理由はあるのですか?お母様はもともとクラシックをなさってらしたんですよね?
ええ、母はクラシックをやっていたんですけど、母はジャズが好きで、一応そういう続きじゃないですかね。たとえば、今の義父にピアノを教えてもらったりして、それがたぶん私が、16歳、17歳とか。だからジャズが何、とかそういうこともわからなかった。普通に子供が習い事に行かされるじゃないですか、まず子供がそれが好きかどうかわからないけど、とりあえず剣道行ったら竹刀持って、っていうような感覚で、ジャズって言うものが私の中に入ってきたんです。
ー じゃあ、根本的にクラシックとかポップスが入ってきたわけではなくて、いきなりジャズが入ってきたんですね。
でももちろん、その前にクラシックもピアノも習っていて、子供のころから、それこそ2歳、3歳のころから、ピアノを、祖母もピアノの先生なんで、習っていて、そういう意味でも物心つく前から発表会をやっていたりとか、中学校、高校のときはバンドをやっていたりとか、キーボードやったり、オリジナルを書いたり、普通に音楽をやってましたよ、今の日本の若い人たちがやっているような、音楽活動みたいなこと。それこそ、『平凡』『明星』とかのコードが書いてあるのを見て、弾いたりもしてましたね。音楽が例えばやっぱり八百屋さんの子が野菜に詳しいのとおんなじで、普通に考えてなくてもいろんな知識とか情報がわかるような感じでしたね。なんでジャズに意識を向けてきたかって言うのは、やっぱり、ジャズピアノを先に弾いたからなんですね。ジャズはいまだに、1930年代、40年代の曲がスタンダードとして歌われているんですね。例えばスタンダード曲の『My Fanny Valentine』は日本では良く知られていて人気でみんなが歌ってるんだけど、それぞれの歌手が自分の解釈で、自分のライフを下に歌ってるんですよ。だから雰囲気が違ったり、テンポが違ったり、それぞれ料理の仕方が違うんですよ。おんなじ曲を歌っているんだけど。それが例えば白人の世界だと違ったり、黒人の世界だと黒人ぽかったり。みんながそのただ違うだけじゃなく、その上、歌の内容によって、悲しい歌だったりするとみんなその人生の中での苦しい重いって言うのが出てきているというか、ライフの瞬間を見せてくれるというか、その歌自体にいろんな人が歌ってきた歴史と、その手垢がいっぱいついている、そういう重たさがあるんですよ。そして今度は自分が歌うことによって、歌のストーリーに魂(スピリット)を吹き込むんです。自分がただ歌ってるんだけど、もっと歌が持ってる不思議な魅力というか、いろんな人に語り継がれてきた、歌い継がれてきた重みで、今度は自分の体と声を使って、そのストーリーを語るみたいな。そういう意味では、そこがジャズの面白さとでしょうか。
ー プロになろうと思って、アメリカに行こうとした渡米のきっかけは何ですか?
普通に会社で仕事3年半ぐらい勤めてたんですけど、仕事がきつくて、体を壊して入院して、そのときに病院のベッドに寝ながら、天井見ながら、窓の景色見ながら、いろいろ考えたんですね。勤務先の社長さんに頂いた御見舞いの花とか眺めながら、自分は何をやってるのかな、と思って。これだけ自分の時間とエネルギーを会社に費やすんだったら、ちょっと自分のためにやってみたらどうなんだろう、って思って。それがひとつの大きなきっかけだと思いますね。それとみんながとにかくNYいいよ、NY行ってみれば良いじゃん、っていうのでまず一回NYに旅行で来ってみたんですけど、やっぱり一目瞭然で、ちょっと普通に入ったバーで歌ってるおばあちゃんなどのジャズも、歌ってるのがレベルがものすごく高いくて、違うじゃないですか、全然。で、目からうろこのように、もう感動して、涙がいっぱい出て。これは今まで私が日本で、私ジャズやってますって歌ってたのはなんだったんだろう、って感じで。これじゃいけない、って。なんて私って、なんちゃってジャズをやってたんだろう、って。本場での洗礼ですね。これはマズイと思って。で、どうにかして、こっちに来るような方法はないかなと考えて、それから具体的に学校について調べたり、ビザのこと調べたりして、英語学校を探してまず留学しました。
ー とにかくニューヨークに行きたかったっていうのがあったんですね。
一番最初は「ニューヨークが一番いいじゃない?」、ていうような感じで肩押されて、「そんなもんなの?」と思いながら行って、初めてその衝撃に出会って、そのショックを受けてからは是非NY行こうっていう思いですね。
ー 実際ニューヨークについて音楽活動をされていくわけですが、行かれてからご自分の音楽のスタイルって言うのはどうやって作っていくものなんですか?
私が思うには、とにかく人間関係、ミュージシャンの中に自分の環境ををおくということ。もちろん学校には行くべきと思います。大学でジャズを専攻し、たくさんの音楽理論とかジャズの歴史とかを習ってきたけど、やっぱりそれだけじゃダメなんですよ。それだけじゃ生きた体験にならない。それはほんとにジャズの場所に行ってそこにいて歌っている人たちと話して、その人たちがどういう人生を歩んできたのか話したり一緒にご飯を食べたり、そういうところでいろいろ学んでいくことってたくさんあると思います。
ー コミュニケーションをしながら自然に出来上がっていくって、ことですよね。
自分は吸収しようと思って行くわけだけど、ただ、テクニック的なことを学ぶってだけじゃなく、ジャズは特にアメリカのカルチャーなわけだから、黒人の歴史とか、彼らがたどってきた道などももちろんそうだし、教会の歌ももちろんそうだし、それがジャズと繋がり、ここ(NY)に来て、こうやって生活して、その人たちと一緒に歌ったりしてやっていかないとわかんない。日本でやってるだけだと全然違うと思う。やっぱり練習してうまく洗練されたものというよりは、私が今までたどってきた生活観からでるジャズだっていう部分を強調して行きたいと思ってます。
ー 技術じゃないって部分ですよね。
もちろん技術もあると思います。やっぱり下手だったらどうしようもないし。そこのところで技術的には日本人的にコツコツ、ここはやらなきゃいけない、ってやってきたというのがあるんですけど、人にはみせないような、それがないとなきゃダメだとは思うけど、それ以外の部分をコツコツやっただけじゃ、ジャズの味は出ないと思うんですよ。
ー そういう部分では外国人と一緒に演奏する部分でも日本人とやるよりも、外国人と一緒にやるほうが吸収することが多いってことですよね。白人、黒人、ヨーロッパ人、NYにいるといろいろなジャズが吸収できると思うんですけど、それもまた違いますか?
それはそうだと思います。ほんとに違いますね。私はハーレムに住んでいるんですけど、そこら辺のバーに行くとやっぱりそういう人が好きそうなジャズがかかってるし、例えばダウンタウンいて、白人の人が多いところだと、歌詞の歌ってる英語とかも違いますよね。そういうのは本当に語学が出来ただけじゃ分からないじゃないですか、歌詞を聞いていて、アメリカのジャズのスタンダードのその曲をどの人が歌っているとかは関係なく、楽譜とか、英語とかを見ただけでも、これは黒人の人が作った歌だ、白人の人が作った歌だってわかりますね。それぐらい違うんですよ。言い回しとかで。でも違うけど、やっぱり人間だから同じ曲を同じスピリットで歌うわけだけど。女の人が去って行っちゃって、男の人が飲んだくれている、みたいな。同じ内容で歌ってるんだけど、語り口調とか黒人と白人だと違ってきたりするんですよ。そうなるといわゆる学校で英語を習ったっていうのじゃ無理ですよね。それを知るっていうことと、それを自分がジャパニーズでアメリカでジャズを歌うって言う特殊さををひしひしと感じるわけですよ。それはもう、日本で黒人の人が演歌歌手としてデビューするのと同じことなんですよ。でも、もし、日本で黒人の人が、生まれ育ってて日本語にアクセントもなくて、ゴスペルのようなスピリットをもって歌ったら結構感動するかもしれないじゃないですか、それと同じように、私は日本人だけど、やっぱり自分の中でジャズに対しての敬意もあるし、自分の生きてきたライフの中でいいと思ってきたことを表現していくっていうことは、私の中で子供のころにやっていた演劇というのと深いつながりがあるんですよ。
ー それはどういう点でですか?
演劇は自分の感情を表現するんですね。台詞をかたるでしょ。歌も台詞と同じようにストーリーを語るんですよ。歌ってるときに自分が語っている言葉が嘘じゃいけないから、その言葉どうりの気持ちがなきゃいけない。演劇をやってた瞬間にすごく感覚的に似ているんですよ。
ー 舞台の上ではその歌詞の人になりきるということですか?
歌が持っているストーリーを語るという感じですね。役を演じるというよりは歌を伝えるんだけど、何かの役をやっているときと似ている感じですね。
ー 舞台の上ではいろいろ考えるというよりも自然に出てくる感じですか?
歌のときは、結構自然にでてくることもあるし、例えばその歌が自分の体験に基づいてというよりは、友達の体験ですごい悲しい思いをした人がいたことを考えて思い出して歌うこともあるし。
ー 感情とか感受性を感じながら歌うということですかね?
そうですね。やっぱりメッセージですね。
ー 音楽活動をして、歌をやってて良かったな、もっとも興奮する瞬間ってどんなときですか?
やっぱりジャズの面白いところはあんまり決めない所。突然名前呼ばれて、ステージ上がって、初めましてって言って、この曲ね、って自分なりにリードしてやりますよね。初めてそこで出会った人達なんだけど、それでいきなり音楽を作るわけですよね。そこで一つになるときに、すごい興奮しますね。瞬間っていうものにとても敏感になるんですよ。人間生きてて、朝起きて夜寝て、っていう繰り返しで流れていくけど、よく言うことだけど、その瞬間はもうないわけでです。たまたま居合わせた人と、たまたまその瞬間に一緒に舞台をやって、もうその瞬間は二度とないわけじゃないですか。それがとても暖かく心が通じて、うまく言ったりするととても嬉しいというか。例えばこれが他の音楽ジャンルだったらやっぱりすごい繰り返し練習して、同じメンバーでどんどん上達していって、到達するって言うんだと思うんですけど、そういうのとはジャズは全然違うんですよね。そのためには、自分が一人で磨いていないといけないんですよ。みんなが自分自身を磨いて、一緒に乗っかったときにそれぞれが、自分が自分がっていうんじゃなくて、人のを聞きながら輪を作っていくみたな。
ー 自分を鍛えるというのはどういった面でですか?
もちろん、技術面もそうだし。もちろん知識というかジャズのことを良く知らないといけないんですよ。じゃないと人がやってることもわからないし。ジャズは即興だから、みんなが舞台に乗ったときに、ツーといえばカーという感じでやっていくわけですよ。ツーを知らないとカーが出せないんです。ツーをたくさん知らないといけない。そのためには自分を磨いて、いろんな人の音楽を聴いたり、、勉強したりして、その瞬間でコミュニケーションをお互いに取るんです。こうだ、っていわれたのを応える感じで音楽を出すとコミュニケーションができて、お互いにそれがわかると、すごい感動ですね。そいういのは例えば、日本のコメディアンがみんなが知っているようなネタを言って、例えばドリフだったら、「八時だよ、」って言ったら「全員集合、」って言ってね、といわなくてもみんなが言っちゃうみたいな、そういうような面白さがジャズにはたくさんあって、それが面白いんですよ。それが分かると見る方も分かってもっとジャズは面白いんです。だからもっといろんな人に知ってほしいと思いますよね。
ー 日米の観客の違いってありますか?
そうですね、やっぱりこっちと日本とでは違いますけど。やっぱりまずは英語ですよね。これは多分日本の人は、ジャズ歌ってる人はいっぱいいると思うんですけど、日本だけしか知らないでやっている人は、やっぱり知識が浅いというか、もちろんみんな頑張って勉強しているんだろうけど、こっちで生活しシンガーの人たちのワークショップのお手伝いをしたりしていると、最初に言われるのは、そこなんですよね。日本人はみんな器用で、音楽のこともわかってるんだけど、英語を日常使っていないから、気持ちが伝わらないんですよ。その気持ちの差が、そういう人たちが歌うと、必ず指摘されていますね。もう少しがんばれば本物に近くなるというか。
ー 海外でミュージシャンとして活躍する秘訣、条件というのは何かあるのですか?
日本人として、特有の謙虚さ、慎むことが美しい、みたいなものを変えないとダメですね。そこを変えていかないと、もっとやっぱり頑張って自分でどんどん前に出て行かないと、ずっと認めてくれないから。逆に日本だと前に出ると叩かれるけど、こちらでは前に出ないと目にも止めてもらえないし。そこはやっぱり違うものだと思ってやっていかないと難しいと思います。
ー 将来の夢はありますか?
やっぱり、世界に通用するジャズシンガーとして、日本人代表としてやっていければと思いますね。
ー 海外で音楽の勉強を考えている人にメッセージを頂けますか?
とにかくやり続けること。諦めないでやり続ければ必ずその先があります。
柴田昌宜さん/指揮/モーツァルテウム音楽大学夏期国際音楽アカデミー/オーストリア・ザルツブルグ
音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、夏期講習会、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。
柴田昌宜さんプロフィール
大阪音楽大学卒業(トランペット専攻)同大学専攻科修了(指揮専攻)。2003年陸上自衛隊に一般幹部候補生(指揮者)として入隊。中央音楽隊に配属され全国音楽隊員に対する教育を担当する。2005年より東部方面音楽隊音楽班長を務め、国家的な式典や各種の演奏会を指揮する。この間モーツァルテウム音楽大学夏期国際音楽アカデミーに参加してディプロマを取得。2007年8月、第1混成団音楽隊隊長(那覇)に着任し、沖縄県下全域において演奏活動の任に当たっている。
― 現在までの略歴を教えて下さい。
柴田 大阪音大にトランペット専攻で入りました。その後、専攻科の指揮専攻に進み、卒業後、陸上自衛隊に指揮者として入隊しました。中央音楽隊から東部方面音楽隊を経て、ザルツブルグの講習会から帰国後の8月から沖縄の第一混成団音楽隊隊長として、沖縄に赴任しています。
― この講習会に参加されたきっかけを教えてください。
柴田 もともと、海外のマスタークラスに参加してみたいという希望がありまして、色々と探してはいたのです。以前から、モーツァルテウム音楽院夏期国際音楽アカデミーか、ウィーン国立音大の講習会に行ってみたかったのですが、今年8月に転勤することが決まりまして、7月中に参加できるものをと探したら、モーツァルテウムが時期的に合っていました。
― どのような理由で今回の講習会をお選びになったのですか?
柴田 やはりオーストリアということと、先生ですね。
― 先生は以前からご存知だったのですか?
柴田 ペーター・ギュルケという有名な指揮者で、ベートーベンのシンフォニーなどを校訂している人です。ペーター・ギュルケ版というのが出ているくらい、すごい権威者なので、是非にとは思っていました。
― レッスンの雰囲気はいかがでしたか?
柴田 かなり丁寧でした。日本人みたいでした。本当に基礎から細かく教えていただけました。
― 振り方に関することもありましたか?
柴田 そうですね、振り方に関することもありましたし、音楽的な作り方に関することもかなり緻密に指導されました。
― 特に印象に残っている事などありますか?
柴田 1番衝撃だったのは、「振りすぎだ」と言われたことでした。こちらからしたら、全部に指示を出して、丁寧に振っているつもりだったのですが、先生は、「これでは音楽の流れを止めてしまう」と言われました。
― それを受けて何か自分の中で変わられたことはあります?
柴田 そうですね、もちろん、音楽の流れを重視するようになりました。
― レッスンは何語で受講されましたか?
柴田 オーケストラがドイツ・カンマー・アカデミーというオケでしたので、先生はドイツ語と英語を使い分けてらっしゃいました。僕に対しては英語で指導してくださいました。
― 事前に語学の勉強はされていかれましたか?
柴田 いえ、まったくして行きませんでした。
― 英語がお得意なのですか?
柴田 得意というほどではありませんが、まったく分からないということもありません。
― 先生と言葉が噛み合わなくて不便に感じるところはありませんでしたか?
柴田 やはり伝わりにくいことはありました。これはたまたまなのですが、オーケストラのヴィオラ奏者に日本の方がいらっしゃったんですよ。それで、分かりにくい時はその方が間に入ってくれました。
― レッスンは何時くらいから始まりましたか?
柴田 だいたい朝の10時くらいから、休憩が途中1時間半から2時間くらいあって、5時くらいまで毎日やっていましたね。
― レッスンはどういう形ですか?
柴田 受講生は僕を含めて全部で6人でした。最初の1日はピアニストが2人入って先生とレッスンを行いました。2日目からは、オーケストラが3,40名くらい入って、あとは先生と受講生という感じでレッスンが行われました。
― その中で指導してもらう受講生が入れ替わるのですか?
柴田 人によって時間は多かったり、少なかったりしたのですが、僕はかなり多かったですね。午前と午後30分ずつくらいは振らせてもらいました。
― それは期待されていた、ということでしょうか?
柴田 どうでしょう(笑)。まぁ、何かあったかもしれないですけれど。課題曲にストラヴィンスキーの「ダンバートン・オクス」があって、僕はよく振らせてもらいましたが、受講生のなかにはまったく指揮をさせてもらえない人もいました。曲によって受講生を振り分けていたみたいです。簡単な曲しか、させてもらえない人もいました。
― 生徒さんのレベルによって曲を分けていたということでしょうか。
柴田 かもしれないですね。
― 受講生の中に日本人はいましたか?
柴田 いませんでした。僕の他は全部西洋人で、イタリアから2人と、オランダ、オーストリア、南アフリカから一人ずつ来ていました。
― 通訳はつけましたか?
柴田 手続きの時は通訳がいましたが、レッスンには入ってもらっていません。
― 手続きの時の通訳はいかがでしたか?
柴田 とてもよくしてもらいました。
― 練習はどのくらいできましたか?
柴田 指揮は練習というのがほとんどできないですから、宿泊先に帰って楽譜をずっと見ているような状況ですね。結構毎日のチェックが大変でした。復習ですね。次の日、今日教えてもらったことを踏まえてオーケストラを目の前にして振らないといけないので、勉強はかなりしました。
― それでは、レッスン以外の時間はほとんどを勉強に費やしていたのですか?
柴田 レッスンが終わったあとはオーケストラのメンバーや、ほかの受講者と食事に行ったりしましたので、勉強は朝5時に起きてやっていました。
― 交流を深められたのですね。
柴田 そうですね、他のコースと比べても交流はあったほうだと思います。
― 受講生によるコンサートは出演されましたか?
柴田 僕は一週間しかいなかったので最終日になったのですが、6人全員指揮をしました。ただ、曲の難易度だったり、長さはそれぞれ違っていて、だいたい順当な感じでした。
― 柴田さんは、どんな曲を振ったのですか?
柴田 僕はストラヴィンスキーをふらせてもらいました。
― 難しいストラヴィンスキーを!
柴田 はい、かなり難しかったのですけれど、頑張ってふりました。
― コンサートで指揮をされていかがでしたか?
柴田 オーケストラが来ている事もあって、かなりお客さんは来てくれていました。200人くらい入ったと思います。学校関係者もいたのですが、ザルツブルグの地元の人が多い感じでした。
― 地元に開かれたコンサートだったんですね。
柴田 そうですね。受講者コンサートの中でも目玉になっているようでした。プロのオーケストラと若い指揮者という関係で、ポスターにも出ていたくらいでした。
― 宿泊先の学生寮はいかがでしたか?
柴田 まぁまぁ、思ったよりは良かったです(笑)。1Kくらいで、バスタブはありませんでしたけど、シャワーが付いていました。新しくはありませんでしたが、普通に清潔でした。
― 建物は、オーストリアの伝統的な感じですか?
柴田 いえ、全然。四角い感じでした(笑)。
― 外食はされましたか?
柴田 はい、オーケストラのメンバー達とよく行きました。バーベキューをしてくれたんですよ。そういうのにも行ったりして面白かったですね。
― 外食はおいくらくらいでしたか?
柴田 旧市街の観光地の真ん中だと結構かかりましたね。食べて、ワインでも飲んだら、12,3ユーロくらい(約2,000円)。でも、ザルツブルグでも観光地じゃなく郊外に行けば、8,9ユーロくらい(約1,400円)ですみました。
― 近くにスーパーとかはありましたか?
柴田 モーツァルテウムは川を渡ったところにスーパーがありましたし、学生寮の近くにもかなり大きなスーパーがありました。ただ、平日の昼間しか開いてないので、僕はほとんど活用できませんでした。ほとんど外食でした。だから(渡航費用を)ぎりぎりで行ったら大変だと思います。
― 外食に結構かかりましたか?
柴田 そうですね、かかった方だと思います。
― 講習会と宿泊先はどういう風に行き来されましたか?
柴田 だいたいバスですね。
― どのくらいかかりましたか?
柴田 20分くらいだったと思います。
― バスが遅れたりとかはありましたか?
柴田 ほとんど定時だったと思います。
― スリなどの被害にあわれることはなかったですか?
柴田 何もありませんでした。ウィーンでも、ザルツブルグでも。
― 不審な人は見ましたか?
柴田 見る限りはなかったですね。
― 海外の人々とうまく付き合うコツは何かありますか?
柴田 自分の意見をはっきり言うことですね。色々と、「どう思う?」と聞かれることが多いんです。最初はちょっと少し下に見ているみたい
な感じがありましたね。でもそれが、僕が指揮をふって、音楽的な何かが伝わった時、なくなったように感じました。そういう意味では音楽で通じるというのは結構あるので、認め合うのが一番かな、と思いますね。
― 認め合えるものを持っていらっしゃるんですね(笑)。
柴田 それは分からないですけど(笑)。でも表現は結構できたかなというのはあります。音楽で何もなかったら、それからは相手にしない、という手もあると思います。
― 認め合うところは認め合うという方々がたくさんいらっしゃるんですね。
柴田 そうですね、やっぱり音楽で繋がっているなと思いますね。
― 今回講習会に参加して良かったと思われますか?
柴田 いやもう、かなり良かったですね。海外の方々とばかり話をして、日本語を話す機会がほとんどないくらいだったので、それぞれの国民性がよく分かりました。音楽をやる姿勢は一緒だな、自分がやっていることは間違っていないという再確認になりました。一週間はちょっと短いかな、とは思いました。しかし、仕事をしている関係で長期留学をするのは難しいため、休みを見つけてこうやって短期で講習会に行くしかないので、その分集中してできました。体力的にはきつかったですけれど、帰りは涙が止まりませんでしたね。参加できたことが嬉しくて。最後の日、受講者コンサートのあとに、70人、80人くらい集まった大宴会があったんですよ。とても楽しかったです。学校の先生とか、ミューレンバッハも来ました。オケのメンバーやヨーロッパの方々ともメールアドレス交換したりしました。人間的な付き合いが繋がって、本当に良かったですね。
― 講習会で自分が変わったとか、人間的に成長したな、と思うことはありますか?
柴田 音楽に対する自分の気持ち、取り組み方をまだ完璧に掴んだわけじゃなく、漠然とした感じではありますけれども、確立できたところはありますね。自分がやっていることが、本当に西洋でも同じようにやっているのか、日本でだけこうじゃないのか、と思っていたんです。指揮だったら、斉藤指揮法というのが日本ではあるんですが、それだけじゃ駄目だという事も分かりました。ひとつの僕の音楽性の指針にはなりました。
― 留学前にしっかりやっておけば良かった、ということはありますか?
柴田 曲ですね。もっとしっかりやっておけば良かったと思いました。留学する前は転勤前でばたばたしていて、なかなか楽譜を見る時間がなかったので。
― 日本とオーストリアで大きく違う点はありますか?
柴田 オーストリアはかなりルーズですね。サービスやテンポが。でも自分がそのテンポに入れば何のことはなかった。逆に気持ちにゆとりが出たりしました。
― 今後留学する人に何かアドバイスがありましたらお願いします。
柴田 悩んでいる人がいたら、無理してでも行った方がいいと思います。資金的にも無理してでも行った方が何かに繋がると思います。絶対に。二の足を踏んでいるとしたら、行った方がいい。でも、漠然とただ海外に行けば何かある、という人は行っても仕方がないと思います。ある程度、自分が悩んでいることや目標や目的がある人でないと参加する意味がないと思います。でも、きちんと目標がある人が行ったら、必ず何かがあると思います。
― 今後の活動の予定はいかがですか?
柴田 自衛隊での活動が基本にあります。吹奏楽の中でやることになるのですが、それはオーケストラから派生したものでもありますから、指揮というものは共通です。今回勉強したことを十分活かして、自衛隊の演奏を充実させていこうと思っています。自分のためだけではなく、自衛隊や地域のためにも、もっと人を感動させられるような音楽を作っていければと思います。
― 長い間ありがとうございました。
畑真由美さん/声楽/ロンバルディア声楽マスタークラス/イタリア・ミラノ近郊
音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、夏期講習会、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。
畑真由美さんプロフィール
洗足学園音楽大学声楽卒業。2007年ロンバルディア声楽・ピアノマスタークラスにてルチアーナ・セッラ先生の講習会に参加。
― 現在までの略歴を教えて下さい。
畑 洗足学園音楽大学の声楽科卒業です。歌が大好きで小学生の頃、合唱部に入部。また作詞作曲した作品が採用されて、全校生徒に歌ってもらった事があります。高校の頃、イギリス研修でミュージカル鑑賞をしたのがきっかけで、歌を習いはじめました。最初は遊び心でしたが、指導を受けていたオペラ歌手の先生に憧れて、クラシックに興味を持ち、本格的に精進するようになりました。
― 大学を卒業されてからは、どのような活動をされていましたか?
畑 建築大学の音響学に於けるコンサートホール設計の実験に携わり、実験を兼ねてのクリスマスコンサートをしています。また、色々なオーディションを受けて公演に出演したり、小学校から依頼を受けてコンサートを企画・演奏しています。その他、自主的に門下生同士での演奏会や同期有志による歌とオーケストラにバレエをコラボレーションしたコンサートを手がけるなど、演奏の場を常に繰り広げています。
― 講習会に参加されたきっかけを教えてください。
畑 高音を美しく出す発声のテクニックやイタリア人が話しているかのように歌う発音のポイントをつかみたいと思いまして参加しました。特に本場イタリアのコロラトゥーラの先生のレッスンを受けてみたいというのが待望でした。
― ロンバルディアの講習会を選ばれた理由は何かありますか?
畑 ルチアーナ・セッラ先生のCDを持っていまして、先生の美声に近づきたかったからです(笑)。
― それは良い機会でしたね。
畑 はい、これほど有名な歌手の手ほどきが受けられるなんて、レッスンが始まるまで半信半疑でしたが、本物だったので、もう嬉しさ、隠し切れませんでした(笑)。
― 先生のレッスンの雰囲気はいかがでしたか?
畑 とっても良かったです。やはり先生お得意の高い声を目の前で出された時には、すごく感動しました。
― 教え方はいかがでしたか?
畑 実際に目の前で歌ってくださり、それを近くで見る事ができましたので、大変分かりやすかったです。常に口元の形やボディーチェックをしてくださいました。また、指導に熱心な先生で、お昼休みを短縮しても、夜遅くなっても、1人45分のレッスンは時間厳守されていました。
― 雰囲気は暖かいものでしたか?
畑 そうですね、すごく雰囲気を大事にされました。生徒それぞれの個性をちゃんと見抜いてくださる感じの先生でしたね。
― レッスンは何語で受けられましたか?
畑 イタリア語です。
― 通訳は付けられましたか?
畑 はい、付けました。
― 通訳の方はいかがでしたか?
畑 通訳の方は、もちろん、レッスンで先生がおっしゃることすべてのイタリア語を忠実に通訳してくれました。通訳の方にはレッスン以外でもお世話になりました。周りがとても田舎で、食べるところがあまりなく、英語も全然通じなくて、最初は困っていたんですね。それでいろいろ案内していただきました。レッスンで持参した以外の楽譜が必要になったときも、他の(イタリア人の)生徒に声をかけて借りて下さり、印刷屋さんを求めて一緒に歩き回って下さったことも。アフターサービスがよかったですね。そういった面では本当に助かりました。
― 語学の勉強はされていきましたか?
畑 大学で文法を学びました。その後は独学です。イタリア語は普段、歌で慣れているので、言葉は何となく聞き取れるのですが、会話となると本当に大変です。
特にイタリア人はおしゃべり好きで、しゃべるテンポも速いので、ついていかれませんでした。
― イタリアに行かれて語学が上達したという実感がありますか?
畑 たった一週間でしたが、結構覚えました。
― 会話などが中心ですか?
畑 そうですね、生徒のみなさんが休憩時間に話している時や、買い物に行った時など、最初は要望を伝えることも、聞くこともできなかったのですが、帰る時には片言は話せるようになりましたね。
― レッスンは何時から何時まででしたか?
畑 10時から20時まででした。
― その間、ほかの生徒さんのレッスンを聴講されたりしましたか?
畑 今回、日本から講習会に参加したのでは私だけでしたので、先生が「すべて聴講したほうがいい」と、前の方に席を用意されて、ほとんどつきっきりでした。
― 聴講では通訳がないと思うのですがいかがでしたか?
畑 1人、英語が話せる受講生の方がいました。先生が言われていることを英語になおしていただきました。
― 講習会ではどのくらい練習ができましたか?
畑 あまりプライベートの時間が取れなかったので、1時間くらいできればいい感じでしたね。
― どこで練習されたんですか?
畑 自分の部屋です。
― 宿泊先はどんなところでしたか?
畑 メディチ家のお屋敷(別荘)です。
― すごいですね、まるで昔の貴族のお屋敷という感じですか?
畑 そうですね。広大な美しい庭園がありました。部屋も一部屋一部屋が全部広くて貴族が使用していたお部屋をホテルの利便性を考慮して、少し改装したという感じです。シャンデリアだけでちょっと照明が暗く、古い建物なので、ゴーストバスターズが出てきそうです(編集注:ヨーロッパ人は強い光に弱く、弱い光で十分見えるため、日本などより照明は暗くなっています。)でも、一つ一つ見るととてもすばらしい!特にテーブルはすべて大理石です。ベッドはすべてダブルベッド。たまに天蓋付もあります。ソファーも上等です。絵画は必ず、飾られています。各部屋、各部屋、お姫様が泊まるようなゴージャス感がありました。別棟にはショパンが弾いたグランドピアノなどのピアノ博物館もありました。
― いいですね、女性なら1度は泊まってみたいような場所ですね。
畑 部屋には台所やキッチンも付いていました。私1人で泊まるには少し大きすぎて、初日は心細かったですね。
― 外食はされましたか?
畑 1度だけです。土日月をはさみましたので、ほとんどレストランが開いていなかったのです。また買うと量が多いいので、同じものを小出しに食べていました(笑)。
― 外食のお値段はどの程度でしたか?
畑 コースしかなかったので3,000円くらいでした。でも、とても美味しかったです。
― 講習会の会場と宿泊先はどのように行き来されましたか?
畑 講習会会場と宿泊先は同じ建物でした。私は2階の部屋だったのですが、講習会は1階でした。階段を下りればすぐ会場という感じでした。
― スリなどの被害にあわれることはなかったですか?
畑 ないですね。治安のいい場所でした。
― 講習会会場からはあまり出られなかったのですか?
畑 行く時間がなく、あまり行くところもありませんでした(笑)。スーパーマーケットに買出しに行ったりするくらいです。小さな町なので、近所のお店へ行っても15分もあればすべてを散策できるくらいです。
― 海外の方々がほとんどだったと思うのですが、周りの方とうまく付き合うコツはありますか?
畑 そうですね、自分から積極的に主張しないと、全然相手にされないと思います。それと、やはりイタリア語は話せた方がいいかな、とは思いましたね。1日いると、イタリア語しか聞こえてこないので、分からないとかなり自分が疲れてくるんですね。ですから、ある程度は、イタリア語ができた方がいいとは思います。
― 今回の講習会に参加して良かったと思える瞬間は、どんな時でしたか?
畑 日本にいらしたことのあるイタリア人の方が2,3人いらしたんです。その方々がすごくホスピタリティを重視してくださったんですね。というのも、日本に来た時にすごく日本人はおもてなしをしてくれると感じていたようでした。例えば、オペラの仕事で日本に来たそうなんですけれども、一生懸命日本語で話そうとしたら、公演が控えているのだから、公演で使う言葉、つまりイタリア語以外の言葉は使わなくていいんだよ、と言われて、何不自由なくイタリア語だけで過ごせる雰囲気にしてくださったということでした。そういう方々のお話を聞いて、自分も逆の立場の時があったらホスピタリティを重視したいなと思いました。
― 留学をされて、自分が変わったな、成長したなと思うことはありますか?
畑 多少の語学力と発声が変わりました、念願の「高い音域を発声するときのコツ」をつかんだような気がします。やはり外国人の先生はかなり広い舞台で歌われており、ご経験も豊富なので、効果を出すのがうまいのでしょうね。
― そういう先生に習ったというのは深い意味があったんですね。
畑 そうですね、たった一週間ですが、それでもかなり効果があったと思います。素晴らしい先生だと思いますね。
― 留学前にやっておいた方が良いことは語学のほかに何かありますか?
畑 選曲ですね。基本は歌曲と思い、歌曲をいくつか持参したのですが、それよりも、セッラ先生はオペラアリアを重視されます。自分で無理なく歌えるオペラアリアを何曲か用意して、一週間で完成できるような曲にした方がいいと思います。それと、鏡を見てレッスンを受けるので、ほとんどの方が暗譜でレッスンを受けていました。少し、楽譜から目を離せる程度に歌いこなしておいたほうがいいと思います。あとは、目的をはっきりさせることですね。先生に「何を習いたいのか」という自主性をすごく聞かれます。
― 前もって自分の中で計画を立てておくといいということですね。
畑 そうですね、曲を歌わなくてもいいんです。発声だけをやりたい人もいます。何がしたいかを決めておくのは、重要なポイントになってくるな、と私は思いました。
― 日本とイタリアで何が違うとお感じになりましたか?
畑 日本では10年くらいかけてやっとオペラアリアを歌えるようになりますが、イタリアではたった2.3ヶ月くらいですぐ難関のオペラアリアを歌うようです。ですから、10年以上の経験があると、相当あらゆる曲のレパートリーがあると周りから興味を持たれますね。ちょっと自負を感じることもありますね。
それから、イタリア人は母国語を大事にしているので、ほとんどイタリア語しか話さないですね(笑)。日本語を話そうとは、もちろんしないんですけれど、逆にイタリア語を話せない私に対して、「イタリア語を話せないのにどうして来たの?」とよく質問されました。そういう所は違うかな、と思いました。日本人はそんなことがあっても、わりと心を広く持って、頑張って向き合おうとすると思うのですが、イタリア人はイタリア語にプライドを持って、極力イタリア語以外は話さない、という雰囲気はありましたね。だから、こちらが積極的に話していかないと、と思います。イタリア人は待っていては来ない、というところは、日本とはギャップがあると思いました。
― 今後、留学する人にアドバイスしておきたいことはありますか?
畑 音楽用語というか、歌を歌う時に、「もうちょっと口を前に」とか、「目」「足」「息」とか、身体を使ってのアドバイスをされるので、身体の部位の言葉をイタリア語で覚えて行けば、レッスンの時にかなり役立つので良いと思います。
― ありがとうございました。
尾野文香さん/ピアノ/クールシュベール夏期国際音楽アカデミー/フランス・クールシュベール
音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、夏期講習会、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。
尾野文香さんプロフィール
3才よりヤマハ音楽教室にてピアノとエレクトーンをはじめる。1996年PTNAピアノコンペティション全国決勝大会ベスト20位、1997年全日本学生音楽コンクール名古屋大会第2位、1998年ウィーン音楽コンクールインジャパン本選第1位。その後、ウィーンの講習会に招待され、ウィーンにて入賞者コンサートに出演し、ウィーン市長賞を授与。2002年、2003年ショパン国際ピアノコンクールin Asiaにて本選入賞など数多くのコンクールにて入賞。コンサート歴も多く、ピアチェーレ・コンサートシリーズ「あおい空」、アルマ21世紀コンサートなど出演。また2007年、アルマ室内管弦楽団と共演。これまでにピアノとエレクトーンを村田恵理子、エレクトーンを市川禎、ピアノを長谷川淳、宮脇恵子、弘中孝の各氏に師事。2007年クールシュベール夏期国際音楽アカデミーにて、パスカル・ドゥヴァイヨンに師事。2008年3月東京音楽大学ピアノ演奏家コース卒業後、4月より同大学大学院在学予定。
― 略歴を教えていただけますか?
尾野 最初はヤマハのグループレッスンに通ってエレクトーンとピアノを一緒にやっていました。その後、小学校2年生頃からピアノを本格的に習いはじめました。エレクトーンは小学校5年生までやっていました。現在は東京音楽大学の4年生です(注:インタビュー2007年8月)
― コンクールなどへの参加はありますか?
尾野 小学校6年生の時に、今はもうなくなってしまったコンクールなのですが、ウィーン音楽コンクールインジャパンで1位をいただいて、副賞としてウィーンの講習会を受けさせていただきました。
― 今回クールシュベールの講習会に参加したきっかけを教えていただけますか?
尾野 幼い頃から、留学したい気持ちは漠然とあったんですけれど、現実的に進路として考えた時に決めきれずにいたんです。そこで、やっぱり日本でいろいろ考えているよりも、実際に行っちゃった方が分かる事が多い、と思いました。行く前は、ずっと迷っていたんですよ。「留学したら必ずこうなれる」というのがあるわけじゃないですから。「大変なことも多いだろうし、お金もかかるし」って。でも、やっぱり今留学しなかったら、将来後悔するだろうなって思ったんです。20年、30年と時間が経った時に、「いやぁ、あの時留学しておけばよかったな」って思うのは嫌だったんです。それで、まずは、講習会で留学を体験してみたいと思ったのがきっかけです。
― いろいろなコースがある中で、クールシュベールを選ばれたのはどうしてですか?
尾野 私の場合、留学することや留学する国を完全に決めていたわけではなかったので、語学を全然やっていませんでした。それで、通訳さんがいるコースが条件だったんです。フランスか、ドイツか、オーストリアか、ポーランドに行きたかったんです。留学に対する知識が少なくて候補が多いのですが(笑)、その中で、いろいろと他の講習会をみて、レッスンの聴講がさせていただける事と、レッスンを聴講してみたいと思う先生方が多かったので、クールシュベールを選びました。
― パスカル・ドゥヴァイヨン先生を選ばれた理由はありますか?
尾野 はい、以前からパスカル・ドゥヴァイヨン先生のことを、一方的にですが本などで存じ上げていました。ドゥヴァイヨン先生にレッスンしていただくのを本当に楽しみに思い参加しました。
― レッスンの雰囲気はいかがでしたか?
尾野 すごく楽しかったですし、すごく素敵でした。あっという間に時間が過ぎてしまいました。ドゥヴァイヨン先生はとても丁寧に的確なことを分かりやすくご指導してくださいます。自分自身が曲の準備をちゃんとしていけばいく程、いろいろな事をより深く教えていただけると思います。
― 時間は1時間くらいですか?
尾野 そうですね、日によっては時間が押していたり、次の生徒さんがもう待っているので1時間ない時もあったかもしれません。曲によって日によってという感じです。
― 何回ドゥヴァイヨン先生からレッスンを受けたのですか?
尾野 私の場合は、ドゥヴァイヨン先生に4回、村田理夏子先生が2回でした。
― なるほど、村田先生はいかがでしたか?
尾野 ピアノ奏法や打鍵についてなど色々と教えていただきました。レッスン後には、留学などの相談にものってくださいました。
― ドゥヴァイヨン先生のクラスは何人くらいでしたか?
尾野 そうですね、多分20人くらいだったと思います。
― その中で日本人はどのくらいいましたか?
尾野 半分くらいは日本人だったと思います。外国ですでにドゥヴァイヨン先生に師事されている方もいらっしゃいました。
― レッスンは通訳を通じて受けられたということですが、通訳は分かりやすかったですか?
尾野 はい。ドゥヴァイヨン先生のアシスタントであり奥様でいらっしゃる、村田先生に通訳していただけたので、すごく分かりやすかったです。
― 語学の勉強は事前にされていかれたのですか?
尾野 いいえ、現地でも「ボンジュール」と「メルシー」くらいしか使っていないです(笑)。特にパリでは英語も結構通じます。大学ではドイツ語を選択していました。
― レッスンは何時からだったのですか?
尾野 私は夕方くらいのレッスンが多かったですね。
― 先生は丸1日レッスンしているのですか?
尾野 ドゥヴァイヨン先生はお昼前くらいからレッスンをされていたと思います。私は夕方からだったのではっきり覚えていません。先生によっては朝9時からレッスン、という先生もいらしたみたいです。
― レッスン時間以外は何をして過ごされましたか?
尾野 練習時間が結構制限されていたので、空き時間は聴講をしていました。あとは、友達と周辺を散策したり、ゆっくり食事をしたり、ビリヤード、スケート、卓球もしました(笑)。
― 練習時間は少なかったのですか?
尾野 1部屋を4人で割り振って使うようになっていました。使用時間が9時から21時だったので、1人平均3時間でした。その4人が全員日本人の場合は、わりときちんと割り振ってやっていたみたいですが、私の場合、2人韓国の方がいらっしゃいました。最初は割り振りをしていなくて、いつ練習できるか分からない状態だったので、割り振りをしたい、とお願いをしました。他の部屋で練習しようにも特に最初のうちはみんな気合いが入っていて空いている部屋はありませんでした。
― 韓国の方はルーズだったのですか?
尾野 そうかもしれません(笑)。というより、日本人が細かいと言った方が良いのかもしれません。多分、こちらから提案しなければ、ちゃんと練習時間が決まることはなかったと思います。
― 練習室以外では練習する場所はありましたか?
尾野 多分、なかったと思います。楽器の方は主にホテルの部屋で練習していたみたいです。
― 講習会でコンサートが行われたそうですね。
尾野 はい、講習会で指導されている先生方の出演されるコンサート(主に室内楽)が4回ありました。先生方全員が出演されるわけではないのですが、ドゥヴァイヨン先生は出演されて、すごく素敵でした。
― 生徒さんが出演されるコンサートはいかがでした?
尾野 終わりに2日間に渡って受講生のコンサートがありました。クールシュベールの講習会はとても参加人数が多く、たぶんピアノだけでも100人くらいはいます。ほかの楽器の人も入れると、多分200人を超すと思います。その中での選抜コンサートなので、たくさんの方が少しずつ演奏して、長い時間かかるような感じでした。
― 宿泊先はどんなところでしたか?
尾野 すごく綺麗なところでした。
― 食事はどうでしたか?
尾野 朝ご飯と晩ご飯は講習会の費用に含まれていて、朝は宿泊しているホテルで、夜はメイン会場のホテルでいただきました。お昼は近くのスーパーなどで買ったり、お金を払えばメイン会場のホテルでいただくこともできました。クロワッサンやフランスパン、乳製品はやはりおいしかったです(笑)。
― 宿泊先とレッスン会場は遠かったですか?
尾野 歩いて行ける距離でしたが、講習会会場のクールシュベールは標高1850mで冬はスキーができるリゾート地のためとても坂が多いんです。道といえば坂でした。クールシュベールに行かれる方は、運動靴など歩きやすい靴を持っていかれることをお勧めします。
― 尾野さんは持っていかれなかったのですか?
尾野 そうなんですよ。サンダルに後悔しました(笑)。しかも8月なのに、夏とは思えない涼しさでした。長袖なしでは過ごせない気候でしたが、湿度も低いし過ごしやすかったです。
― 日本とは違いますね。
尾野 そうですね。日本で言うと、秋の終わりくらいかも。雨の日なんか、はっきりと「寒い!」と言えるくらいでした。
― 暖房などはちゃんと入りましたか?
尾野 冷房も暖房も特に使った記憶がないので、冷暖房の必要はない気候だったんだと思います。
― クールシュベールの街として、治安はいかがでした?
尾野 すごく安全な印象でした。周りからも何かあったというような話は聞かなかったし、私自身も危険を感じるようなことは全くありませんでした。
― 海外の友達はできましたか?
尾野 私の場合、フランス語が話せないので、直接、仲良くたくさん話すことはできなかったのですが、フランス語が話せる日本の方に通訳してもらいながら海外の友達も混ざってお話したり遊んだりすることはありました。
― 日本人以外ではどちらの方が多かったですか?
尾野 フランスの方はもちろんフランス近隣、アメリカなど様々でしたが、韓国や中国などアジアの方が多くいらしゃいました。
― 講習会に参加して良かったと思える瞬間はどんな時でしたか?
尾野 さきほどお話しした、講習会の先生方が出演されるコンサートを観た時ですね。来てよかったと思いました。
― 留学されて、何か自分が変わったところ、成長したところはありますか?
尾野 講習会の期間が短かったので、大きな変化はあまりないのですけれど、今まで海外経験があまりなかったので、行く前の準備だけでも勉強になりました(笑)。思い切って講習会に参加してみて本当に良かった、と思っています。先ずは一歩という感じだったと思います。
― 留学前に準備しておいた方が良いと思うことはなんですか?
尾野 それはもう曲の準備ですね。講習会は素晴らしい先生方にみていただける貴重な機会だと思います。お金も時間もかけて参加するし、先生により深くたくさんの事を教えていただくためにも、しっかりと準備していくべきだと思います。現地では練習時間も限られます。
― 何曲みていただいたのですか?
尾野 ドゥヴァイヨン先生のレッスンは4回でしたが、1回目でショパンのエチュードを2曲みていただいて、2回目でベートーベンのソナタ第1楽章を、3回目はその続きで、4回目でまた別の曲をみていただきました。
― 日本とクールシュベールの違いはどんなところですか?
尾野 いろいろあると思いますが、例えば現地の方の人柄なんかは日本と比べてすごく明るかったですね。フランスに留学されている方は、「こっちに来てテンションが高くなって、リアクションが大きくなった」と言っていました(笑)。そんな雰囲気が、私はすごく好きでした。講習会は短い期間だったし、環境も保証されていたので、留学のいいところばかりを見たとは思いますが、本当に楽しかったです。良い思い出です。
― 今後留学される方にアドバイスしておきたいことは?
尾野 留学したい気持ちがあっていろいろ迷ったり悩んでいる方は、まず講習会に参加するなど現地に行ってみる事をお勧めします。日本で座って考えているよりも、実際に行動した方が分かる事も感じる事も断然多いと思います。講習会では同じ迷いを持っている人も多く参加していますし、すでに留学している人からいろいろお話を聞かせていただくチャンスもあります。
― 尾野さんは今後フランスに行かれる予定ですか?
尾野 そうですね、フランス以外の国にも興味はありますが、本当に楽しかったので、前よりももっと留学したくなりました。講習会の影響です。
― 今後の進路はどうされますか?
尾野 4月からは東京音大の大学院に進学しますが、長期留学も考えています。すごくしたいと思っています。
― コンサートのご予定などはありますか?
尾野 今度5月にピアチェーレ・ムジカ主催の「ひびき」というコンサートで地元の愛知県でメンデルスゾーンのピアノトリオ第1番を演奏させていただきます。大好きなトリオの曲ですし、しっかりとがんばりたいです。
― 頑張ってくださいね。長い間、ありがとうございました。
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---尾野文香さんコンサート情報------
Musica Da Camera 2008
Concert the Piano Trio
2008年5月31日 開演17:30
知立リリオコンサートホール
問い合わせ:0562-84-0876
Program
ベートーヴェン/ピアノ三重奏曲第三番ハ短調Op.1-3
ベートーヴェン/ピアノ三重奏曲第四番変ロ長調Op.11
メンデルスゾーン/ピアノ三重奏曲第一番ニ短調Op.49
出演;
ピアノ
岡田みずほ
三輪富美子
尾野文香
バイオリン
宗川諭理夫
チェロ
内田玲
行本康子さん/チェロ/ウィーン国際音楽ゼミナール/オーストリア・ウィーン
音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、夏期講習会、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。
行本康子さんプロフィール
4歳よりピアノを始め、14歳のときにチェロに転向。桐朋学園大学音楽学部チェロ科に在籍中。現在、4年生。2008年ウィーン国際音楽ゼミナール参加。
- まず、簡単な自己紹介をお願いします。
行本 4歳の頃から10年くらいピアノを弾いていたのですが、少し嫌いになって辞めようと思っていたところに、たまたま小さな発表会を聴く機会があって、チェロの有名な曲「白鳥」を聴いて、チェロをやりたいと思ったんです。それで、14歳からチェロを始めて、桐朋学園大学に進学しました。現在、4年生です。
- これまで講習会に参加されたことはありますか?
行本 国内のでしたら、ついていた先生の個人的なものやその先生が講師としてよばれているものに2、3回参加したことがあります。
- では海外の講習会は初めてですか?
行本 はい、そうです。海外に行くこと自体、今回が初めてでした。
- では、どうしてこの講習会に参加されようと思ったのですか?
行本 去年くらいから、ドイツ語圏で知っている先生で、という条件で講習会を探していたのですが、去年は知っている先生がいなかったので参加しませんでした。今回はたまたま日本で2回見てもらったことのあるステファン先生の名前があったので、参加を決めました。
- なるほど。先生はステファン・クロプフィッチュ先生ですよね。前に教わったときからいい印象を持たれていたんですか?
行本 とても上手で、人柄がいいんです。教えることに専念している方ではないのですが、演奏する上で大切なことを細かく教えてくださる先生です。
- 講習会の参加者は何名くらいでしたか?
行本 全部で40人くらいだったと思います。チェロは4人でした。日本人が私の他にもう1人。韓国の中学生くらいの子、あとは、ドイツ語を話していたのでオーストリアの子だと思いますが、会場になっているウィーンの音大を受けたいと考えている子でした。
- 他の生徒さんの演奏を聴く機会はありましたか?
行本 韓国の子の演奏は聴けなかったのですが、あとの2人の演奏は聴きました。日本人の子はレッスンが前後だったので、必ず聴講していました。
- レッスンの雰囲気はいかがでしたか?
行本 多分、先生に見てもらうのが初めてであれば、どんな感じかな、と様子を見るののだとと思うのですが、私の場合、日本でも見てもらっていて先生も覚えてくださっていたので、初めからけっこう本格的なレッスンが始まりました。以前見ていただいたのは4、5年前なので私も変わっているとは思うんですが、年齢などを考慮して、真剣に見てくださったと思います。
- レッスンで印象に残っていることはありますか?
行本 一番ためになったなと思うのは、力の抜き方です。日本でも「力を抜きなさい」というのはよく言われることなんですが、具体的にどうしたらいいのかは教えてくれないので困っていたんです。ステファン先生は逆に「力を抜きなさい」という言葉は一言も言わずに、「こうしなさい」というのを2、3個具体的に言ってくれたんです。あとから考えると、その弾き方が結果的に力が抜けるのではないか、と思いました。
- 他には何かありましたか?
行本 レッスン中も弾きながら「ここはああしてこうして」と指示があるのですが、必ずレッスンの最後に「今日のレッスンで1番大切なことはね……」とその日の重要なポイントを1つか2つにまとめてお話をしてくださるんです。私のその日の様子を先生が絞って見てくださる形だったので、それがすごくよかったと思います。
- なるほど。
行本 今回、コンクールの課題曲に入っていることもあり、シューベルトを持っていったのですが、ウィーンの作曲家の曲で先生もウィーンの方なので「ウィーンの古典派はこう弾くんだよ」と他の曲よりも大切に見てくださった気がします。
- 何か参考になる具体的な言葉はありましたか?
行本 ホイリゲとよばれるバイオリンなどの演奏を聴きながらワインが飲める酒場に行って、陽気な人を見て来てごらんと言われました。曲の感じを掴むのに見て来た方がいいよ、と。実際に足を運んでみると、みなさん本当に楽しそうで、「あ、こういうことなんだ」というのが少し分かった気がしました。日本人の観光客ということで、向こうから話しかけてくれたり、“上を向いて歩こう”や童謡を歌いながら演奏してくれました。
- いい体験ですね。実際に演奏は変わりましたか?
行本 自分の中では変化はよく分からなかったのですが、参加者コンサートで演奏したときに、講師としてよばれていた日本人の先生が「ステファン先生の感じがすごく出ていて、よかったですよ」と言ってくださいました。ステファン先生のレッスンを受けて変わったのかなと思いました。
- レッスンのスケジュールを教えてください。
行本 月曜と木曜に先生に見ていただいて、月木月木でレッスンは計4回ありました。レッスンとレッスンの間に2、3日空くので、ちょうどよいペースでした。
- レッスンは1時間ですか?
行本 はい、ちょうど1時間です。
- 物足りなさは感じませんでしたか?
行本 感じませんでした。2週間あって、その中で4回のレッスンがあったので、私は十分かなと思いました。
- 講習会で組まれていたスケジュールについてお話を聞かせてください。
行本 初日に小さいホールのようなところでオープニングイベントがありました。まず、参加者の子たち3、4人のコンサートがあって、そのあと、講習会の大まかな説明を受けました。あとは最後に、サンドイッチと飲み物程度の軽いパーティーがありました。
- 他には全体で何かありましたか?
行本 13日(講習会3日目)には先生たちのコンサートがありました。先生たちの中からピアノ2人とビオラ、チェロの4人の先生が演奏してくださいました。チェロのステファン先生は1番最後にチャイコフスキーの「ロココ風の主題による変奏曲」を演奏をされたのですが、すごく評判がよくて、聴いていた他の楽器の受講生たちもステファン先生に教わりたい、と話していました。
- 13日だと、レッスンを1度受けたあとですよね?
行本 はい。11日初日に最初のレッスンがあったので。
- そうすると、これからのステファン先生のレッスンが楽しみになったのではないですか?
行本 そうですね(笑)。
- 他にもコンサートはありましたか?
行本 はい。会場が変更になって、ハイドン生誕の家ではなくて、隣ににシューベルト記念館がある小さなお城で開かれました。私はここで弾かせていただいたのですが、この会場はオープニングイベントのホールよりも学校よりも響いたので、音の響きはこの講習会中で1番よかったと思います。
- 日本だとなかなかないシチュエーションですよね。ウィーンのお城で演奏するというのは、どんな気分でしたか?
行本 すごくよかったです。他の受講生のみんなからも、私も弾くならここで弾きたいと羨ましがられました(笑)。
- お城でのコンサートでは何人が演奏したんですか?
行本 12人くらいです。
- 何曲演奏されたんですか?
行本 1人1曲で、私は先生と相談して演奏する曲を決めました。
- コンペティションも予定に組まれていたと思いますが、参加されましたか?
行本 いいえ、参加することはできませんでした。参加した人たちは、2曲を抜粋で演奏していました。そんなに堅苦しい雰囲気ではなくって、参加者コンサートとあまり変わらない雰囲気でした。
- そのあと、そのコンペティションで選ばれた人で受賞者コンサートがあったんですよね?
行本 そうです。コンペティションを12人くらいが受けて、10人が受賞していました。黒いパンツで弾いていた人がドレスで演奏していたりと、少しだけ雰囲気が変わっていました。
- その受賞者コンサートが講習会中、最後のイベントですか?
行本 はい、そうです。
- 練習はどこでしていましたか?
行本 ホテルで朝の9時〜夜の8時くらいまで音を出すことができたので、ホテルで練習しました。けっこう弾く時間はありましたね。
- 他の人の音は聞こえてきませんでしたか?
行本 窓を閉めて弾くというのが決まりだったんですが、おそらく窓を開けて弾いていた人の音は聞こえてくることもありました。ただ、私はそんなに気になりませんでした。
- レッスン以外の時間は何をしていましたか?
行本 外に出て、街を観光していました。
- ウィーンの街はいかがでしたか?
行本 すべてのものが大きいなぁというのが第一印象です。ガイドブックに載っているところやシェーンブルン宮殿、マリア・テレジア広場などに行きました。
- どこかお勧めのところはありますか?
行本 ホテルの近くにあったベルベデーレ宮殿です。私が滞在していたときは、中でクリムトの絵画展をしていました。次はゴッホ展になるようです。そこは楽しくて何時間でもいられる感じでした。
- 入場料はいくらくらいだったんですか?
行本 私は国際学生証を持っていなかったので、8〜9ユーロくらいでした。
- 宿泊先のホテルはどんなところでしたか?
行本 私は一人部屋を希望しました。部屋自体に不都合はなく、ドライヤーを借りたりすることもできて、そんなに困ることはありませんでした。日本のホテルより広かったです。
- 何か日本から持っていったほうがよいものはありましたか?
行本 歯ブラシは準備されていなかったので、持っていったほうがよいと思います。シャンプーやリンス、石けんも自分のものを使いたい人は準備しておくとよいと思います。
- ホテルのスタッフの対応はいかがでしたか?
行本 けっこうよかったと思います。行きたいところを伝えると、電車の時間を調べてくれたりしました。
- 他の参加者の方も同じホテルですか?
行本 はい。ほとんどの方が同じところに泊まっていました。レッスン時間などはバラバラでしたが、キッチンが共同なので、そこで会って話すのが楽しみでした。最初は外食をしていたのですが、毎日だと高くつくので、途中から自炊するようにしていました。
- 自炊していたんですね。食材はどうしていましたか?
行本 ホテルからすぐ近くのところにスーパーがあったので、そこで購入していました。
- 外食はいくらくらいだったんですか?
行本 中華料理など安いところは、5ユーロくらいでした。日本から来ている他の方と、ホテルの近くのレストランで食事をするときはだいたい8ユーロくらいでした。スープとメインとデザートが出て来る感じで、お腹はいっぱいになりました。高いといえば高いけど、こんなもんかな、という感じもしました。
- 参加者はどこの国の方が多かったですか?
行本 7割くらいが日本人でした。あとは、イタリア、韓国、ノルウェー人でした。
- 海外の方とうまく付き合うコツはありますか?
行本 日本人以外の参加者の方は、日本人が集団でいたので入りづらかったのか、特別な用事でもない限り、向こうから話しかけてくることはなかったです。なので、こちらから話しかけることのほうが多かったですね。話してみると、片言の適当な英語でもわかってくれたし、向こうもこちらがわかりやすいようにゆっくり話してくれたりと親切にしてくれました。
- 滞在中、何か困ったことはありましたか?
行本 困るという程でもありませんが、ホテルの朝ご飯が毎日一緒だったのが……(笑)。バイキングの内容が種類が少ないのにまったく同じだったんです。1週間くらいなら問題ないと思うのですが、2週間〜それ以上となると、少しきつかったです。パンが2種類とハムが2種類、チーズが2種類、スイカ、トマト、あとは飲み物が牛乳、ジュース、コーヒー、紅茶といった内容でした。
- ウィーンの交通はどうでしたか?
行本 電車に乗ってしまえばどこにでも行ける感じでした。日本のようにメトロの路線の数も多くないので、迷うこともありませんでした。チケットは乗り放題のものを購入しました。
- ウィーンの街は過ごしやすかったですか?
行本 日本と外国の違いだと思いますが、よく話しかけてくれました。お店の方だけでなく、そこに買い物に来ている現地のお客さんに話しかけられることもありました。ウサギの絵はがきをみていたら、そこにいた現地のお客さんが、その絵はがきと私の顔を見比べて「似てるわ」とおもしろおかしくいってきたり……。そういうことは日本ではないなぁ、と感じました。あとは、日本人で英語が話せる人というのは少ないと思いますが、ウィーンではほとんどの方がドイツ語以外に英語でも話してくれるので、助かりました。
- 初めての方でも行きやすい街ですね。
行本 はい。私が行けたくらいなんで……(笑)。
- 今回、留学をして成長したなと感じるところはありますか?
行本 周りの参加者を観察していて、やはり積極的な人が何かを掴めるのかな、ということがなんとなくわかりました。私も最初の1週間は様子を見ているところがあったのですが、後半は日本人はもちろん外国人にも話しかけてみようかなと思い、積極的にしていました。
- 講習会に参加してよかったなと思えることはありましたか?
行本 17日(講習会7日目)の参加者コンサートでお城で演奏したときに、イタリア人のクラリネットの男の子が私のチェロを気に入ってくれて、直前のピアノ合わせのときから「いいよ、いいよ」と言ってくれて、演奏が終わったあとも拍手で迎えてくれました。それで「室内楽をやらないか?」と彼が誘ってくれたんです。結局予定が合わなくて、合わせは出来ずに終わってしまったのですが、それでもそういうふうに言ってくれたことがすごくうれしかったです。日本に帰った後、彼とはメールをしています。
- 他に何かよい経験はできましたか?
行本 直接、講習会とは関係ないのですが、行きの飛行機で隣に座った女の人が乗り換えを手伝ってくれたり、帰りの飛行機でもスチュワーデスさんとチェロ分の座席のチケットのことで話が通じていないときに、日本人の女の人が間に入って通訳をしてくれて助けてくれました。最後のアムステルダムから成田の飛行機でも隣に座った男性が「趣味でコントラバスを弾くんですよー」と話しかけてくれました。その方は名刺もくださって「演奏会があるときは連絡してください」と言ってくれました。飛行機でもいろんな出会いがあって、楽しかったです(笑)。
- 楽器を持っていると話しかけやすいのかもしれないですね。
行本 それはそうかもしれないですね。そういえば、もう1人いた日本人のチェロの子は、楽器を現地で借りて、弓だけを持って来たと言っていました。その借りた楽器がすごくよい楽器で彼女にあっていて、気に入ってるみたいだったので、製作の年代や名前をメモさせました(笑)。
- 行本さんの楽器は向こうで音の鳴り具合はかわりましたか?
行本 日本に比べて向こうはよく乾燥しているから音の響きがよくなるということを聞いたりしますが、私の楽器はしけてるから響かないということはなくって、そんなに変わらないんじゃないかなと思いました。ただ、日本のほうが湿気は多いので、向こうに行って鳴らなくなるということはないと思います。
- 他に留学をして感じたことは何かありますか?
行本 やはり語学が大事だなと思いました。話したいという気持ちさえあればなんとかなるとは思うんですが、いろいろな言葉を知っていたほうが伝わりやすいかなと思いました。
- そうすると、留学する人へのアドバイスも「語学の勉強をしたほうがいい」ということになりますか?
行本 そうですね。ただ、そんなに前もって勉強していなくても、どんどん話しかけることが大事だと思います。あとアドバイスとしては、先生の選び方も大事だと思います。私は知っている先生に教わったので、レッスンが始まってからギャップを感じることはなかったのですが、感じてしまう人もいるようです。知っている先生に教わるのがベストですが、知らない先生でも少しでもいいので情報をキャッチしてから行ったほうが、向こうに行ってから驚いてしまうということもないと思います。
- 今後の活動の予定を教えてください。
行本 具体的にこれをというものはないんですが、卒業後はこの夏の経験を活かして何でも挑戦してみようと思うようになりました。今までは、表舞台に出ることを望んでいたのですが、そうではなくても、どこでも何でもいいから演奏が楽しくできれば、幸せなのかなと思うようになりました。だから、どんなに小さな仕事でも頼まれたら必ず演奏しようと思うようになりました。
- それはやはりウィーンで何か影響を受けたんですか?
行本 そうですね。外国の方は日本人とは違ってだいぶ楽しそうに弾いているし、街の人も楽器を持っていると興味を持ってくれたり、自然に音楽が流れている雰囲気が街にありました。
- これからも音楽を楽しんでいけるといいですね。今日は本当にありがとうございました。
新井田さゆりさん/声楽/カリアリ夏期国際音楽アカデミー/イタリア・カリアリ
音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、夏期講習会、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。
新井田さゆりさんプロフィール
高校3年で歌を始める。鹿野道男先生に師事。現在、東京音楽大学大学院声楽専攻オペラ研究領域在学中。2008年イタリア・カリアリ夏期国際音楽アカデミーでペギー・ブーヴレ氏に師事。2006年より三年連続特待給費生。2007年東京音楽大学卒業演奏会、同年第77回読売新人演奏会、同年埼玉新人演奏会に出演。また、JT主催アフタヌーンコンサートに2回出演。
-簡単な自己紹介をお願いします。
新井田 高校3年生の6月に声楽を習い始めて、それから東京音楽大学の声楽演奏科コースに入りました。現在は、大学院の2年生です。声楽専攻オペラ研究領域に在籍しています。
-高校3年生で歌を始めるまで、専門的に歌を学んだことはなかったんですか?
新井田 はい、なかったです。
-では、高校3年生のときに歌を始めたのはどうしてですか?
新井田 中学と高校が特別音楽に力を入れている学校で、合唱発表会があったんです。そのときに東京音大の先生が合唱指導にいらして、その先生が私の声を聞いて「音大に行ったらどうだろうか」と言ってくださり、その言葉を聞いて、私にもできるならやってみたいな、と思ったのが歌を始めたきっかけです。
-今もその先生に習っているんですか?
新井田 いえ、違います。そのときにその先生に東京音大の鹿野道男先生を紹介していただいて、高校3年生の6月にゼロから習い始めました。
-6月に始めて、それで声楽演奏科コースに合格したというのはすごいですよね。
新井田 もうとにかく必死で勉強しました。始める時期も遅かったので、2月の入学試験までの8ヶ月間は死に物狂いで、脇目も振らずに勉強しました。楽典などの基礎知識もなかったし、ピアノも弾けなかったんです。そうして必死でやっていると、自分でもみるみるうちに声が伸びていくのがわかりました。
-ええ、ええ。
新井田 もし声楽演奏科コースが無理でも声楽科コースで通るだろうと思えるくらいまでは成長していました。その頃は、人前で歌うということも全くしていなかったので、入学試験でも全然緊張しなかったんですよね。それがよかったのか、無事に合格しました。大学入学後の2年間はサボっていて、とても不真面目な生徒だったんです(笑)。でも、大学3年のときに釜洞祐子先生と出会い、先生の手ほどきで音楽の素晴らしさや楽しさを知り、自分で勉強していくことの大切さを知って、今では歌なしの人生は考えられないというぐらい歌を優先しています。
-今まで勉強は大学で主にされてきたんですよね?
新井田 はい、大学で全部やってきました。
-そうすると海外の講習会に参加されたことはありましたか?
新井田 いえ、ないですね。
-今回、海外の講習会に行きたいと思ったのはどうしてですか?
新井田 アンドビジョンに私の友人が勤めていまして、その友人に留学を考えていると相談したら、いろいろな情報をメールマガジンというかたちで定期的に送ってくれたんです。それで、海外に行きたいとのは思っていたんですが、具体的にどの講習会に参加したいということはなかったんです。そんなとき、たまたまメールマガジンで今回のカリアリの講習会が紹介されていて、講習会の内容うんぬんよりも「サルディニア島に行ける」、「世界遺産の素晴らしい地中海を望む美しい街で講習会ができます」という謳い文句に私は食いつきました。それが一番の動機ですね(笑)。
-海外に行かれたことはありましたか?
新井田 いえ、今回が初めてでした。
-興味があった国はありますか?
新井田 漠然と行くならヨーロッパ圏がいいなと思っていたので、特に国は決まっていなかったです。それから、今、学校で主に勉強している音楽がフランス音楽だったので、フランス語やフランスの文化を知りたいなと思いました。カリアリはイタリアですが、今回の講習会は講師人がフランス圏ということで、それにも興味を持ちました。
-ペギー先生のレッスンの雰囲気はいかがでしたか?
新井田 ペギー先生って見た目はすごい声を出すんだろうなって思うくらい立派な体格の方なので、私自身はわりと痩せ型なこともあって、ペギー先生との体格の差に度肝を抜かれてしまって、先生についていけるのかどうかすごく不安だったんです。でも、ガイダンスが終わって、先生に挨拶に行ったら、すごく優しい笑顔で迎えてくれたので、安心しました。レッスンもとっても丁寧に教えてくれましたね。もともと日本で勉強してきた声の技術を活かしながら、先生がそれに上乗せしてレッスンしてくれるという感じでした。あまり否定はされずに、褒めて伸ばすタイプの先生でした。
-レッスンで印象に残っていることはありますか?
新井田 ペギー先生が自分で歌って見せてくれるのがとても印象的でしたね。もしかしたら言葉の壁があったからかもしれませんが、理屈とかではなく、英語でもフランス語でも伝わらない部分があれば自分を見本にして見せてくれる、それを真似してみなさいという教え方がとっても印象的でした。
-先生の声はいかがでしたか?
新井田 とっても「ビューティフル」、美しい声でした。低いところから高いところまでムラなく出ていて、音楽に対する知識もすごく豊富で、オペラや室内楽、他の歌曲など、声楽と呼ばれるジャンルならどの曲を持っていっても、それこそミュージカルナンバーを持っていっても、ちゃんと教えてくれる人だと思います。
-新井田さんはどんな曲を持っていったんですか?
新井田 私はプーランクのオペラの声を全曲とリゴレットを持っていきました。
-今度の卒業試験の曲も教えてもらったんですよね。
新井田 教えてくれました。先生の持ち歌なのかわからないですが、私のやりたい曲の主人公の心情になって指導してくれて、素晴らしかったです。うまく説明できないのですが、苦しみの中で愛しているって言いながら死んでいくシーンがあるんです。それを先生がやってくれたんですけど、そのときに椅子の上からズルズルと体を落としていって、「愛してる」って言うのよ、って。そしたら、先生がずり落ちすぎて立ち上がれなくなっちゃって、みんなで助けて、「大丈夫ですか? 先生!」って、起こしたんです(笑)。すごく楽しかったんですが、それぐらい先生は真剣に教えてくれたんですよ。
-先生のレッスンを受けている人は何人くらいいましたか?
新井田 私を含めて9人ですね。日本人が私を含めて2人、中国人が1人、フランス人が3人、ギリシャ人が1人、ナイジェリア人が1人、韓国人が1人。歳はだいたい23歳か24歳でした。
-聴講はされましたか?
新井田 聴講するようにと先生が言ったので、常に部屋には9人生徒が揃った状態で、1人が歌っているのをみんなで聴いていました。
-聴講というスタイルはどうでしたか?
新井田 とっても刺激になりました。自分が教わっているときにわからないことでも、他の人のレッスンを聴講することで、客観的に見えてわかったり、あるいは自分がやっているときに、他の子たちが見て盛り上げてくれて、それによって自分の中で眠っていたテンションみたいなのが出てきたりしました。とても情熱のあるレッスンでしたね。毎回、朝からテンションアップで、先生が言ったことをきちんとできた子がいたり、望んでいる声が出たりすると拍手して盛り上がっていました。
-すごいですね。
新井田 はい。それをいろんな科の子が噂で聞きつけて、歌のレッスンはほとんど満員、日によってはレッスン室に入りきれないくらいギャラリーが増えたときもありました。それくらい明るいレッスンだったんですよ。本当に幸せな一時でした。みんながみんな音楽を楽しんでいる感じがうれしかったですね。
-そういうことって日本ではなかなかないですよね。
新井田 ないですね。多分、ペギー先生の人柄だと思います。さすがですよね。
-レッスンは何回くらいあったんですか?
新井田 1時間のレッスンが1人最低4回はありました。朝の10時に始まって、2〜3人受けて、みんなでお昼ご飯を食べに行って、2時くらいからまた2〜3人入って、5時くらいまであって、そのあとは解散か、それぞれ自主練をするという感じでした。
-レッスン以外の時間は練習したという感じですか?
新井田 そうなんですけど、ここだけの話、練習をせずに、みんなで遊びに行くこともありました(笑)。5時にレッスンが終わるので、6時くらいに待ち合わせをして、そのまんまバスで海に行ったりしました。
-他の受講生と仲良くなれたんですね。
新井田 本当にとても仲が良くて、みんなで朝ご飯を食べて、レッスンを受けて、海に行って、またみんなで夜ご飯を屋上で食べて……。寮に屋上があって、隣接してキッチンがあったので、そのそばでみんなでご飯を食べました。
-海外の人と仲良くなるコツは何かありますか?
新井田 基本の挨拶をちゃんとすることだと思います。会ったら「Ça va?」って、毎回挨拶していましたね。それから、リアクションをちゃんとするということです。少しでも相手の言っていることが分かれば、「あなたの言っていること、すごくわかるわ」というリアクションをすれば、あなたに対して理解を示しているのよ、あなたととても仲良くなりたいわ、という感じが伝わると思います。今回はみんなその空気を出していて、誰一人として人見知りする人もいなかったんです。とても幸せなことに、みんなと仲良くなりたいと思ってくれている人たちばかりだったので、みんなのおかげで仲良くなれた感じです。
-その人たちとは今も連絡を取っていますか?
新井田 はい。全員と連絡先を交換して、パソコンでメールを交換しています。
-あまり練習はされなかったですか?
新井田 いや、練習もちゃんとしましたよ。学校の中に練習室がいくつかあっって、先生は「聴講するように」と言っていたんですが、あまりにも声の質が違う人や、自分はソプラノなので、メゾの人がレッスンを受けているときはレッスン室を外れて、練習していました。
-どのくらい練習できましたか?
新井田 望めば望んだ分だけできましたね。
-部屋はけっこう空いていたんですか?
新井田 そうですね。歌なので、アップライトでも、あるいはピアノがなくても、発声だけできればいいので、空いている部屋があれば、スタッフの人に頼んで鍵をもらって練習することができました。
-環境はいかがでしたか?
新井田 環境は何の問題もなかったです。窓を開ければ涼しくなるし、窓を開けていても誰にも文句を言われませんでした。
-カリアリの街はどうでしたか?
新井田 坂道がすごく多くて、凸凹した街でした。あるときレストランにご飯を食べに行ったときに、お店が坂道の途中にあって、机と椅子が斜めっていたんですよ。それで、友達が「こんなに斜めっていたら、食べられない、まっすぐにしてほしい」って、お店の人に言ったんですよ。そしたら、お店の人が「いや、それがこの街だから」って。「斜めなのが、この街の特徴よ」と言われました(笑)。いい意味でそんなふうにおおらかで、みんなが街に沿った生き方をしていました。
-景色はいかがでしたか?
新井田 きれいでした。海外に行ったことがなかったので、他の国と比べられないのですが、建物がすごく美しい造りで、どこを撮っても絵になる街でした。
-移動はどうされていましたか?
新井田 バスです。一度故障で停まってしまったときがあって、その日は歩きました。坂道がすごいんですよ、途中に休み休み歩いたので、バスだと10分くらいのところが30分くらいかかりました。
-バスのチケットはどうされていましたか?
新井田 学生寮のすぐ目の前にキオスクがあったので、そこで7日間乗り放題で10ユーロのバスカードを買いました。一度バスに通してから7日間有効で、7日間は乗り放題なので、学校に行くのにももちろん使いましたし、他にもスーパーやレストラン、海にもバスで行きました。とても重宝しましたね。
-バスのダイヤの乱れはなかったんですか?
新井田 ありました。あったんですが、バスの本数がわりと多かったので、あまり困ることはなかったですね。全く時間通りには来ないんですけど、その分思わぬところで拾える感じです。電光掲示板にあと50分後にバス来るって書いてあるのに、すぐ来たりするんですよ。電光掲示板の意味が全くなかったです(笑)。
-バスはわかりやすかったですか?
新井田 はい。日本みたいに親切に停留所のアナウンスはないので、自分で風景を覚えてここで降りるんだなと覚えなければいけませんが、日本と同じようにボタンを押して、降りるという意思表示ができます。ただ、運転はすごく荒かったですね(笑)。でも、歩行者を大切にするんです。ちょっとでも道路を渡りたそうな人がいたら、どんなにスピードを出している車でも停まってくれるんですよ。それは日本と全然違いますよね。運転は荒いですけど、みんなマナーはよかったです。
-外食ではどんなものを食べたんですか?
新井田 イタリアン料理です。ピザやカプレーゼというイタリアのトマトのサラダ、あとはラザニアやフンギといったパスタ料理ばかりでした。
-おいしかったですか?
新井田 おいしかったです。特にチーズがとてもおいしかったです。ただ、サラダが日本と違って味がないんですよ。オイルで食べるんですよね。だから、ドレッシングを持っていったらよかったかなと思いました。
-いくらぐらいでしたか?
新井田 だいたい1人20ユーロいくかいかないかくらいで、結構高かったですね。なので、ほとんどスーパーで買って自炊しました。
-スーパーは寮の近くにあったんですか?
新井田 はい、徒歩圏内で行けるところにありました。とても大きいマーケットなので、ほとんどのものはそこで揃えることができました。寮はキッチンは付いていたんですが、フライパンなど一切の調理道具がなかったので、みんなで割り勘で買いました。
-仲が良い人がいてよかったですね。
新井田 本当にそうですよね。あとは、日本人がすごく多かったのも、他の科の子と仲良くなれたきっかけです。
-学生寮は安全でしたか?
新井田 それぞれの部屋に鍵が付いていて、外に出るときは鍵を受付に預けるシステムでした。帰って来て、鍵を受け取るときは、自分の鍵の番号を言わなければいけないので、それで棟のセキュリティーが守られていたんだと思います。
-生活面で困ることはありませんでしたか?
新井田 なかったですね。お湯がちゃんと出るシャワーもありましたし、お水も出るし、トイレも水洗トイレですし、冷蔵庫もあったし、電気も点くし、窓もあったし、すごくきれいな部屋でしたね。
-受講者はみんなそこに泊まっていたのですか?
新井田 はい、そうです。カリアリの講習会に参加していないバカンスで来ていた学生も泊まっていて、一般公開で宿泊施設として使っているようでした。話してみたら音楽と関係ないことをしていて、「何でここに泊まっているの?」と聞いたら、「ここはみんなに宿泊を開放しているんだよ」と教えてくれました。そんなふうに普通に観光に来ていた友達もできました。
-何語で話したんですか?
新井田 その人はアラブ系のイタリア人だったので、イタリア語でお話しました。
-イタリア語も話せるんですね。
新井田 学校が全部イタリア語だったので、イタリア語も使いました。寮の友達と話すときは、フランス語や英語だったんですが、お店やレストランやバス、あとスーパーでは全部イタリア語でしたね。
-語学はどのくらい勉強されたんですか?
新井田 フランス語は一応半年間、語学学校に通っていたんですが、それ以外の英語やイタリア語は、学校で文法を習う程度なので、自分でもよく話せたなと思います(笑)。
-英語はけっこう話せますか?
新井田 聞き取れはするんですけど、返せないこともありました。でも聞き取れたときはリアクションをするので、みんなと仲良くなれましたね。話が通じていると、みんな話しかけてくれるんです。私たち日本人でも、話しかけたときに向こうが“なんて言われたんだろう”って顔をしていると、ちょっとコミュニケーションがとりづらいなと思ってしまって、話しかけづらいと思うんです。“わかっているよ”っていうのをオーバーなくらい出せば、向こうも話しかけてくれますね。
-留学中に困ったことはありましたか?
新井田 特になかったです。バスが途中で停まってしまったときはかなり焦りましたけど、一人じゃなかったので、みんなで仲良く歩きましたし……。一人ではあまり行動しませんでした。なるべく現地のことをわかっている子や、言葉がわかっている子と一緒に行動するようにしていました。
-快適に過ごせたんですね。
新井田 困ったことと言えば、私の帰る日、7日の日曜日に、ちょうどローマ法王がサルディニア島に来まして、一切の交通機関が使えなくなっちゃったんです。ローマ法王を崇める人たちで道路が塞がってしまって、学校から寮に帰れなくなってしまったんです。警察に頼んだんですが、警察は対処してくれなくて、遠回りすれば寮に戻れる感じだったので、人だかりを避けて、こっちの方向だろうと感覚だけで帰りました。遅くなってしまうと、飛行機間に合わなくなってしまうので、必死で帰りました。街のみんながお祭り騒ぎで、いくら私が「寮に帰りたい」ってイタリア語で言っても、全然聞いてくれなくて、むしろ「一緒に盛り上がろう」みたいな……。結局、無事に寮に着いて、目の前の広場から空港行きのバスに乗ってなんとか間に合いました。
-カリアリの人たちはどんな人でしたか?
新井田 おおらかで、陽気でした。みんな笑っていましたね。日本人とかわかると、「ちょっと待ってください」とか「また来てください」とか、話しかけてくれました。
-治安はどうでしたか?
新井田 悪くなかったです。日本と同じような感じでした。悪い人も、ジプシーも、物売りもいなかったです。カリアリはリゾート地だからか、平和な街でした。
-日本と違う点を何か感じましたか?
新井田 大きいお札を嫌うことです。2ユーロくらいの買い物に10ユーロを出してしまうと、もうダメです。「両替してこい」って言われますね。面倒くさいみたいで、おつりをくれないんですよ。一度、43.75ユーロくらいの買い物をしたときに50ユーロで払おうとしたんです。でも、お店の人は0.25とか0.55といった細かいところを払ってほしかったみたいなんです。私はお札しか持っていなかったので、すごく嫌な顔をされて、おつりを小銭で渡されて「グラッチェ(ありがとう)」って言ったんですけど、「アリヴェデルチ(さようなら)」って言われました。普通、ありがとうって言ったら「プレーゴ(どういたしまして)」って返ってくるんですけど、さようならと返ってきて、寂しかったですね。
-他には何かありましたか?
新井田 参考になるかは分かりませんが、イタリアだからといって、コーヒーが特別おいしいということはなかったです。日本のほうが凝っているんじゃないかと思いました。
-向こうの方がこだわっているのは伝統料理なんでしょうか?
新井田 こだわっているというより、普通に味を付けたのが、めちゃめちゃおいしいんだと思います。隠し味っていう感じの味ではなくて、ただ素直にトマトの味がおいしいとかチーズがおいしいとかパンの生地がおいしいとかパスタの生地がおいしいとかそんな感じでした。
-日本食はありましたか?
新井田 中華料理とか日本料理とかどうやらあったらしいんですけど、私は行かなかったです。
-演奏会はありましたか?
新井田 先生たちの演奏会があって、すばらしかったです。ハープやフルートなど、歌以外のプロの演奏会になかなか行く機会がないので、すごくよかったです。
-どこで行われたんですか?
新井田 カリアリの学校のそばにある劇場でした。普通のホールで、真っ赤な絨毯でオペラ劇場のようなところでした。二階建てで、ほんとに広い劇場でした。先生たちの演奏会だけでなく、残っている学生はみんなそこで演奏会をしたようで、「すごくよかった」って後からメールで聞きました。
-留学して、成長したなと思えることはありますか?
新井田 世界の広さを肌で感じたのは、自分にとっていい経験になりました。自分が幸せな環境で暮らしているということも、日本にいるとわからなくて、世界にはいろんな人がいることを知りました。今回は、音楽の留学ということで集まっているので、それなりに裕福な方も多いのですが、その国その国で、国ごとに文化があって、歴史があって、そんななかでその子たちが育ってきて、生きていく術を学んでいるということが分かりました。
-なるほど。
新井田 一緒に話していても、日本では理解できないような言動や、おやって思うようなこともあったんですが、それはその子たち独自の国民性なのかなと思いました。例えば、日本人はとてもおとなしいと言われるじゃないですか? 私も言われたんですよ、「おとなしいね」、「なんでもかんでも『うんうん』って感じだね」って。それって、やっぱり国民性というか民族性ですよね。いろんな国の人たちと知り合えて、日本人ってそうなんだなって思いました。自分が意志の弱い人間なんだと、自分を知る機会になったと思います。
-参加してよかったと思う瞬間はありますか?
新井田 私が日本で勉強しているということをわかってくれた、ことですね。
-それはどういう意味ですか?
新井田 日本でもこういうふうに音楽を勉強している人がいる、ということを分かってもらえたことです。ヨーロッパの音楽をやっているわけじゃないですか? 日本人がイタリア語で歌って、フランス語で歌って、ドイツ語で歌って……。向こうの人は、言語に対するそういうストレスもなく歌っている。言葉も国も違うけれど、同じ楽譜を見て同じような勉強を日本でもしている女の子が一人いたのよ、と思ってくれる。自分の声で自分の歌を歌うことによって、友達ができたことがすごくうれしかったですね。言葉がわからなくても同じ曲を歌っていることで、心を通わせて音楽を楽しむことができたのがすごくうれしかったです。
-留学前にしておいたほうがいいてことはありますか?
新井田 語学ですね。もちろん全然わからなくても、困ることはないんですよ。なぜなら、結局は音楽で分かり合えるからです。不思議なんですけど、音楽は音を出すだけで、言葉が分からなくても分かり合えるんです。でも、自分の意思を伝えたり、相手の意思を全部わかりたいって思うときに、語学って必要なんです。どんなに大変でも時間とお金をかけて、語学は準備したほうがいいと思います。これははっきり言えます。付く先生にもよるんですが、付く先生が英語もOKなら、英語とイタリア語、カリアリに行くなら、できればフランス語、英語、イタリア語の3カ国ですね。
-今後留学を考えている人にアドバイスをお願いします。
新井田 勇気を持って、とにかく行くことですね。行くか行かないかって迷っている人に対するアドバイスというよりは、とにかく行けっていうアドバイスです。どんなに他の人が経験を細かく語ったとしても、行ってみないと、自分が経験してみないとわからないと思います。私もわかりませんでした。だから迷っているなら、行くべきだって思いました。
-短期の留学でしたが、身になることはありましたか?
新井田 ありました。私はたった1週間だったんですけど、自分の性格が変わるというか、すごく成長を実感しました。なぜなら、日本にいると刺激ももちろんあるけれど、それに慣れてしまっているんですよね。例えば、外国人が突然「ハロー」って声かけてくるわけじゃないし、誰か困っている人がいても声をかけるわけじゃない。でも、それが外国では当たり前なんですよね。ちょっとでも目が合えば「サヴァ?」と声をかけてくる。そのときに、自分一人で何かを思っていても仕方がないと思うんです。元気なら元気、元気がないなら元気がないと、どんどん自分を出していかないといけない。話しかけられたくなかったら、話しかけないで、という態度を出せばよくて、中途半端はよくないんです。でも、日本人ってどうしても中途半端にして、それが一つの礼儀みたいになってしまっていると思います。濁して、自分の意見をはっきり言わないほうがいい、そういう環境で育ってきている分、成長できることも、どうしてもそこでストップしてしまうんです。海外に一人でぽんと行くことで、そういうことに気がついて、全然違う自分が出てきちゃうんですよ。
-なるほど。
新井田 もちろん、成長するもさせないも自分次第なんですけどね。一緒に参加していた子も、「自分を出すことが恥ずかしくなくなって、分け隔てなく自分を出せるようになった」って言っていました。そういうふうに自己表現に対する考え方が1週間でだんだん変わってきて、「日本に帰ったら強くなっているかもね」なんて、笑って言っていました。
-へー。
新井田 でも、日本に帰ってくると、また日本に慣れてしまって、やっぱり日本の生き方になってしまうんですよね(笑)。でも、それはそれで、この国での生き方なんだな、と、そういう考えもできるようになりました。
-音楽に関してはいかがですか?
新井田 そうですね。本場の人に褒められるっていうのは、うれしいですよね。
-今後の活動の予定を教えてください。
新井田 この留学を活かしていこうと思っています。来年も海外で勉強したいなって思うくらい、海外が好きになっちゃいました。すごく楽しみです。自分もとにかく勉強しなくちゃな、と思うことができました。
-今日は本当にありがとうございました。
吉原未穂さん/ピアノ/モーツァルテウム音楽大学夏期国際音楽アカデミー/オーストリア・ザルツブルグ
音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、夏期講習会、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。
吉原未穂さんプロフィール
東京学芸大学G類芸術文化課程音楽科ピアノ専攻卒業。同大学大学院修士課程教育学研究科ピアノ専攻修了。修了時に、「特に優れた業績を挙げた奨学生」に認定され奨学金を授与される。大学院修了演奏会に出演。第7回日本ピアノ教育連盟オーディション入賞者演奏会出演、第45回・第46回全日本学生音楽コンクール東京大会入選。2008年日本シューマン協会設立35周年記念「ローベルト・シューマン音楽コンクール」ピアノ部門第2位(優秀賞)。2009年ザルツブルク・モーツァルテウム音楽大学国際サマーアカデミーにてフランク・ウィバウト氏に師事。同講習会で、選抜者演奏会(アカデミーコンサート)、修了演奏会出演し、ディプロムを取得。
-まずはじめに、吉原さんの簡単なご経歴を教えてください。
吉原 東京学芸大学芸術文化課程ピアノ専攻を卒業後、同大学院修士課程を修了しました。
-今までに、海外の講習会に参加された事はありましたか?
吉原 いえ、今回が初めてです。
-今回、モーツァルテウムの講習会に参加してみようと思ったきっかけを教えてください。
吉原 フランク先生が日本にいらした時、マスタークラスを受講したのですが、とても素晴らしいレッスンを受けさせていただくことが出来たので。
-フランク・ヴィバウト先生とは、どうやって出会ったのですか?
吉原 鎌倉で、先生のマスタークラスを受講させていただいた事がきっかけです。
-日本で一度、レッスンを受けられたとのことですが、海外で講習会に参加されてみて、違いはありましたか?
吉原 ザルツブルクという自然に恵まれた素晴らしいモーツァルテウムの環境でしたので、いつも以上に音楽へ対して真剣に向き合うことができたと思います。
-今回の講習会は、だいたいどのくらいの人数が参加されていましたか?
吉原 ピアノだけではなく声楽や他の楽器の方もいらっしゃいますので、全体としては何千人という単位でしょうか。私が受けたクラスは15人でした。
-この講習会では初日にオーディションがあると思うのですが、15人中合格されたのは何人ですか?
吉原 先生のクラスは、今年は全員合格したようです。
-オーディションの様子はどんな感じでしたか?
吉原 先生のお部屋の前に全員集合して、呼ばれた人から一人ずつ中に入り、面接を受けつつ曲を弾くという形でした。
-オーディションは、どのくらいの時間でしたか?
吉原 人によっては、2曲弾いていた方もいらっしゃいましたが、だいたい1人10分程度でしょうか。
-1曲全部弾くという形ですか?
吉原 はい。先生から何を弾くか聞かれまして、その曲を最後まで弾かせていただきました。
-緊張しましたか?
吉原 そうですね。でも、先生が笑顔で迎えてくださったので、思っていたよりは、リラックスできました。
-オーディション合格後、レッスンのスケジュールはどんな感じでしたか?
吉原 まずオーディションが終了した直後に、レッスンスケジュールが貼りだされました。私は1番目だったので、心の準備も出来ないまま、オーディションが終了して1時間後にすぐレッスン開始でした(笑)。これが月曜日で、火曜日にアシスタントの先生のレッスンが入り、水曜日にもう一度先生のレッスンを受けました。そのときに、アカデミーコンサートに出てみないか、とお声をかけていただいたんです。そして、アカデミーコンサートのため、金曜日に特別レッスンを入れていただきました。
-では1週目から、先生のレッスンが3回もあったんですか!お忙しいスケジュールだったんですね。
吉原 そうですね。1週目でアシスタントの先生のレッスン1回も含めて計4回もあったので(笑)。次の週の月曜日が、アカデミーコンサートだったので、その午前中にも先生がレッスンをしてくださいました。そして、1日置いて水曜日にももう一回。
-レベルに応じて、アシスタントの先生のレッスンのほうが多くなることもあるんですか?
吉原 たぶんそうなると思います。
-レッスンの内容は、どんな感じでしたか?
吉原 先生が、今日は何をもってきたの?と聞いてくださるので、今日はこれですと、用意していった曲を1曲ずつ見ていただく形でした。だいたい、1回のレッスンで1曲1時間です。ソナタのときは半分ずつに分けて、今日は1楽章と2楽章を、という感じでしたね。
-レッスンの雰囲気はいかがでしたか?
吉原 先生は穏やかで、温かいアドヴァイスをくださいます。豊かなイマジネーションをお持ちの先生ですので、「こんな弾き方もあるよ」と、たくさん提案していただいた感じですね。その中から自分に合うものを取り入れていくという形でした。
-ピアノの弾き方など、基礎なことで指導を受けられたことはありましたか?
吉原 とにかく、「脱力」のことをおっしゃっていました。音楽に沿った体の使い方をしなさいということですね。音のイメージに合った響きを出すために、こういう体の使い方をしてみたら、とか。
-なるほど。先生は、どんな方ですか?
吉原 穏やかで温かく、すごく優しい方です。生徒想いの先生で、アカデミーコンサートに生徒が出る時には、必ず聴きにきてくださりアドヴァイスをくださいました。
-素敵な先生だったんですね。クラスは、どの国の方が多かったですか?
吉原 日本人は5人ですね。その中にはロンドンで先生に習っていらっしゃる方もいました。あとは、アシスタントの先生がスペインの方でしたので、スペイン人がすごく多かったです。
-スペイン人の方のレッスンは聴講はされましたか?
吉原 はい、皆すごく熱心でしっかり準備されていました。
-外国の方の演奏を聴くことは、刺激になりましたか?
吉原 はい、皆それぞれ素晴らしい個性を持っているので、それが音楽として伝わってきまして大変勉強になりました。
-先生のレッスンは、何語で受けられたんですか?
吉原 英語です。
-期間中は、皆さんどこで練習されるのですが?
吉原 モーツァルテウムの練習室を予約して使っていました。
-練習室は何室くらいあるんですか?
吉原 正確な数はわかりませんが、新校舎、旧校舎と、それ以外の場所にもそれぞれ練習室がありました。
-かなりたくさんあったんですね。では、予約が全く取れないということはなかったんですか?
吉原 それはなかったのですが、常に誰かが使っている状態でしたね。
-吉原さんは、1日どのくらい練習されましたか?
吉原 わたしは4時間確保しました。うまく調整して、レッスンの時間と重ならないように使っていました。
-練習時間は確保できたんですね。レッスン以外の時間は主に何をされましたか?
吉原 主に聴講ですね。
-ピアノ以外にも聴講されたりしましたか?
吉原 いえ、ピアノ以外は残念ながらできませんでした。自分の先生のレッスンの聴講がほとんどでした。ただ、他の先生のクラスの修了コンサートを聴きに行くことはできました。また、アカデミーコンサートも、何日か聴きに行きました。
-他には何をして過ごされましたか?
吉原 近隣の観光を少ししました。旧市街にお買い物に行ったり、学校のすぐ裏がミラベル庭園だったので、お昼ご飯を持って、ベンチに座って食べたり・・・。とにかく環境がすごく良かったですね。
-治安はどうでしたか?
吉原 悪くないと思います。怖い思いをしたことは、一度もありませんでした。
-街の人たちは、英語で話しても大丈夫でしたか?
吉原 はい。どこのお店に行っても大丈夫でした。日常生活で、困ることはほとんどなかったです。
-現地の食べ物はいかがでしたか?
吉原 基本的においしかったです。あと、スーパーでも何でも買えますし、マックも便利でした。
-マクドナルドですか。日本のものと味は違うのですか?
吉原 サイズが大きかったですね。でも、意外とリーズナブルに食べられたので良かったですよ。練習で遅く帰ってきたときには、スーパーが閉まっていることもあったので、便利でした。
-スーパーが早く閉まるということを、他の方からもよく聞きますが、実際いかがでしたか?
吉原 詳しくは分かりませんが、8時には完璧に閉まっていたと思います。
-日本とは違いますよね。生活面で何かびっくりしたことはありますか?
吉原 特にびっくりしたことはなかったですね。バスなども、遅れるものだと覚悟していたんですが、意外とちゃんと時間通りに来てくれましたし。
-では、日本人にとって住みやすい所なのかもしれませんね。
吉原 ええ、私にとっては、とても居心地がよかったです。
-宿泊先は、どういうところだったんですか?
吉原 わたしは学生寮に滞在していました。
-寮の中は、どんな雰囲気でしたか?
吉原 練習室もついていますから、モーツァルテウムに参加している生徒さんで、あふれているという感じでした。いろいろな国の方がたくさんいて、にぎやかでしたよ。
-お部屋はシングルルームですか?
吉原 はい、一人部屋で、お風呂もちゃんとお部屋の中にありました。驚いたのは、廊下をはさんで部屋のすぐ向かい側に、キッチンも一人ずつ完備されていたことです。まさに、ロッカーのような感じですね。ロッカーを開けると、冷蔵庫とコンロが出てくるという感じです。好きな時間に気兼ねなく料理が出来るので、とても便利だと思いました。
-それは便利ですね!では、ずっと自炊されていたんですか?
吉原 はい、少し・・・(笑)。なかなか忙しくて・・・。
-他の方とご飯を食べに行ったりはされましたか?
吉原 ええ、同じクラスの生徒全員で、先生と一緒にご飯を食べに行ったりもしました。
-他の国の方とも交流する機会があったと思うんですが、日本人以外の方とお友達になったりしましたか?
吉原 そうですね、話す機会はありました。同じクラスのスペイン人の子達と、英語でお話したりしました。
-外国の方と接してみていかがでしたか?
吉原 やはり、同じ目的を持って集まってきているので、親しくできました。でも、自分の英語力が不足していたと痛感しました・・・。
-語学力の必要性を感じた、ということですね。
吉原 はい、すごく感じました。勉強しよう!というきっかけになりました。
-頑張ってください!海外の方とコミュニケーションをとるにあたって、うまく付き合うコツなどはありますか?
吉原 やはり恥ずかしがらずに、自分から話しかけていくことでしょうか。
-他の国の方は、どんどん話しかけてこられましたか?
吉原 ええ。みんな温かい人たちで、良く話しかけてくれました。でも、何せ私が英語が少ししかできないので、うまく返せなかったりして・・・。もっと話したかったな、と思います。
-年齢層としては、若い方が多かったんですか?
吉原 そうですね。やはり大学生が多かったです。下は18歳くらいからですね。
-期間中は何か困ったことはありましたか?
吉原 特になかったんですが、一度熱を出してしまって・・・。2週目のアカデミーコンサートが終わった後、ホッとして気が緩んだのか、体調を崩してしまいました。その日が、ちょうどクラスの修了コンサートの日だったんです。でも、日本から持っていった薬を飲んで、いったん部屋に帰り横になっていたら、良くなりましたけど。やはり、薬は持っていってよかったな、と思いました。
-大事にいたらなくて良かったですね。
吉原 はい。海外で一人だと、いろいろ不安になりますからね。意外とハードな2週間でしたし(笑)。
-アカデミーコンサートに出演された感想は?
吉原 コンサート会場が、旧モーツァルテウムの校舎の中にある、「ヴィエナ・ザール」というホールでした。ここは、白が基調で金色で装飾されている、いかにもヨーロッパの宮殿という感じの、とても素敵なホールで、とても感動しました。そして、皆さんが本当に上手でしたし、すごく勉強になりました。
-クラスから何人くらい選抜されるのですか?
吉原 クラスによって全然違うんです。私のクラスは5人くらい選出されました。アカデミーコンサート総出演者数はピアノだけで20人くらいでしょうか。コンサートは、数回開かれました。たとえば1日目はピアノは何人、バイオリンは何人というようにプログラムされていました。私が出演した日は、ピアノばかりの日でしたけど。
-他の方の演奏を聞いて、どんなことをお感じになられましたか?
吉原 やはり皆さん、きちんと準備して来られているな、ということを感じました。皆さんすごく熱心でしたし、自分に合った先生をきちんと選ばれていましたね。
-やはり先生との相性は大事なんですね。
吉原 はい。2週間、その先生とのレッスンがメインになりますので、相性は本当に大事だと思います。
-吉原さんは、良い先生と出会えてよかったですね。今後、ヴィバウト先生に師事されたいという、ご希望はありますか?
吉原 そうですね。また先生の日本でのマスタークラスを受講させていただきたいです。またモーツァルテウムにも参加できたら、と思っています。
-今回初めて参加されてみて、ご自分が一番変わったと思うことは、どんなことですか?
吉原 まず、私は、日本では知らない人にはあまり積極的に話しかけたりしないタイプですが、いろんな人に話しかけるようになりました。やはり、わからないことが多いので、自然と積極的にならざるを得ませんよね。
-音楽面だけでなく人間的にということですね。
吉原 やはり、黙っていても何も進まないので、自分から、とにかく動かなきゃという感じになりました。
-なるほど。音楽面ではいかがですか?
吉原 自分の目指していく音楽の方向性が定まったということが大きいですね。あと、他の生徒さんが演奏していた曲を聴いて、自分もこの曲をレパートリーにしたいと思ったり、こういう演奏の仕方いいなって思ったりして、新たな目標もできました。
-今後、海外でレッスンを受けてみたいと希望されている方々に、準備しておいたほうがいいことや、アドバイスがあればお願いします。
吉原 まずは、しっかり語学の勉強をしておいたほうがよいです。あとは、事前につきたい先生の情報を、出来る限り集めておくことが必要です。音楽観が合わないと困るので、前の年に行かれた人がいたら、その方からお話を聞いて情報収集をしておくべきですね。どんな曲を持っていったらいいかなど、そこまで調べられたら、安心してレッスンを受けられると思います。
-では、生活面で、これは持っていったほうがいい!というお勧めグッズは?
吉原 やっぱり薬ですね。あと、簡単に食べられるレトルト食品や加工食品もあると便利です。私は一応、ある程度は日本から持って行ってたんですよ、いざというときのために。体調を崩して外に出られないときとか、レトルトものなどがあると安心でしたよ。あと、スーパーが早く閉まってしまって、何も買えなかったときなどに便利だと思います。
-周りにお店はありましたか?
吉原 寮の近くにはスーパーがありましたし、学校の近くにはパン屋さんがありました。あと、学校の中にも学食があるので、食べるのに困るということはありませんでした。
-では、最後になりますけど、吉原さんの今後の音楽活動の目標をお聞かせください。
吉原 やはり、たくさんレパートリーを増やして、演奏会などをしていけたらいいなと思います。実は、来年リサイタルをやるんです。今回教えていただいた曲を中心に、プログラムを組んで演奏していこうと思っています。今回の経験を生徒の指導にも生かせていかれたらと思っています。
-素敵ですね!ご活躍をお祈りしております。今日は本当にありがとうございました!
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今後のコンサート予定
2010年5月4日 千葉市美浜文化ホール・音楽ホールにて「吉原未穂ピアノリサイタル」
日本シューマン協会(ムジーク・ミルテ)主催を開催予定。
プログラム: シューマン 「森の情景」
シューマン ピアノソナタ第1番
シマノフスキ「マスク」よりドン・ファンのセレナード
ドビュッシー 前奏曲集第2集より 「花火」 他